工場夜景

藤谷 郁

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2.元上司との再会

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 その日から、私の目に映る世界の何もかもが、希望に溢れた明るいものへと変った。何と分かりやすい変化だろう。私はこんなにも『結婚』を切望していたのだ。

 飯島佳史と交際を開始することは、結婚相談所に連絡した。「かつて無い大きな前進ですね」と、担当相談員に心から喜ばれてしまった。何しろ、長いお付き合いである。ほとんど身内の心境なのだろう。
 飯島からも同様の連絡があったらしく、言葉にはしないが、かなり期待しているようだった。

 これは、成婚まで行くかもしれない――

 とにかく私は、私らしくもなく舞い上がり、次のデートのことで頭がいっぱいである。
 飯島の勤務形態は三交代制といって、例えば12月は15時から23時という時間帯に勤務するとのこと。デートの翌日、休日を確認した彼が早速メールをくれた。私達は相談し、次の日曜日に水族館へ出かける約束をしたのだ。

 水族館!

 若い社員が度々、海洋生物をかたどった菓子をお土産に買ってくる。楽しげなデートの話を聞きながら、私はもそもそと食べ続けてきた。

「あの水族館へ、私が行くのね」
 恋人達のデートスポットの、定番中の定番である水族館へと!
「ペンギン、イルカ、ベルーガ、シャチ、ウミガメ……」
 ブツブツ呟いていると、どこからか声が返ってきた。
「今度は海の生き物シリーズか? 斬新なアイデアとは言えないね」

 はっと我に返り、きょろきょろと見回す。
 冷や汗が出た。
 ここはハリヨ製菓株式会社東京本社であり、企画会議の最中だった。私としたことが、何てこと――

「水族館にでも売り込みに行けと?」
 本社企画部長の彼が、じろりと睨んでくる。上の空だったのを見透かし、嫌味を言ったのだ。しかも、的を射た嫌味を。

「申し訳ございません」
 深く頭を下げた。言い訳はせず、謝るに限る。この人にはこうして淡々と接するのが一番いい。経験上、よく分かっている。
「さすが、私の元部下だな。しかし、会議中にぼんやりするなど許されんぞ」
「まあまあ、殿村とのむら君、その辺で勘弁してあげなさい。松平君も初めてのことで緊張しているんだろう。それよりも、新製品の企画リストを説明してくれ」
 社長に取り成され、殿村は仕方ないといった顔でスクリーンの横に立った。

 あれから時が流れ……
 私に年上男性への拘りを植え付けた元上司は、東京本社の総企画部長となり、この会議を仕切っている。月に一度開かれる会議だが、私は今回、課長代理で初めて参加した。

 社長に『緊張している』と庇われ、身が縮こまる。緊張どころか、飯島とのデートを妄想していたのだから。まったく、これまでの私なら考えられない失態である。


 二時間後、長い会議は終わった。
 私はやれやれと息をつき、書類をビジネスバッグに片付けて肩に掛ける。ぞろぞろと引き揚げる他の社員を見送り、最後に会議室を出た。
 と思ったら、後ろに一人残っていた。
「久しぶりだな、松平主任」
「殿村……部長」

 イタリアンブランドのスーツに、ネクタイは彼らしくウィンザーノット。革靴の先まで抜かりなく磨き上げてある。相変わらずの洒落た姿に、あらためて目が引き付けられた。
 既に40を過ぎているというのに、35歳のあの頃と同様若々しく見えるのは、身ぎれいにしているからか、豊かな頭髪のせいか。

「あ、どうも。先ほどは失礼致しました」
 私は私で、相変わらず地味な紺のスーツである。ただ、飯島とのデートのために美容院に行ったばかりなので、ヘアスタイルは決まっている。
 殿村はそういったところを見逃さない人だ。
「君にしては良い感じだね。ふーん」
 何だか居心地が悪い。彼が異動してからこれまで、顔を合わせる機会は何度かあったが、こんなふうに話しかけてくるなんて、まず無かった。もちろん、私から話しかけることも。

「ま、それはともかく、これから昼飯でもどうだ。どうせ、食べて帰るんだろ」
「えっ、お昼を一緒に……ですか?」
「この時間ならまだ混んでいない。早く行くぞ」
 断る理由を考える間も与えず、彼はさっさと廊下を歩きだした。せっかくの楽しい気分も台無しである。よりによって、なぜ今、殿村と食事をしなければならないのか。

 私はだが、胸を張った。
 きっと、現状について訊かれるだろう。例えば結婚、例えば恋人の有無。殿村は私をやり込めようと、意地の悪いことを言うはずだが、今なら平気である。

 何といっても私には、私を女として見てくれる彼がいる。殿村とはまったく違うタイプの、飯島佳史という好青年が。
 気を強くして、懐かしくも憎らしい背中に付いて行った。


 東京は都会である。この洗練された街にすっかり馴染んだ殿村は、以前よりも男性としての魅力が増したようだ。鈍い私にも、その変化はありありと分かる。
「さて、何にする。好きなものを選びなさい」
 どうやら奢ってくれるらしい。彼のワリカン嫌いは昔からで、女性には一円たりとて負担させない。

 素朴だが品の良いフレンチレストランの内装や調度品に目を泳がせながら、「店長のおすすめ」を注文した。どれが美味しいのか不明なので、これが無難と考えたのだ。
「俺もそうするかな」
 殿村は私に合わせてくれたのか、同じものを頼んだ。

 メニューを閉じると、私はそれとなく元上司を窺った。
 近くで見ると彼の目尻には小皺が浮かび、髪の生え際に白いものがあった。全体的に若い頃のような勢いは感じられず、やはり年を取ったのだと思う。

「さっきのは、君らしくもないな」
「はい?」
「会議中に、呪文みたいにブツブツ言ってたあれは、幼児用ビスケットのアイデアか何か? 海の生き物シリーズとか?」
「あっ、あれは……」
 水族館で見ることになるであろう生き物を、頭の中で列挙していたのだ。それを、たまたま目の前にいた殿村に聞かれ、咎められた。

 「いっ、いえ……その、新製品のアイデアではなく、つまり」
 デートが楽しみでつい、などと絶対に言えない。あまりにも恥ずかしく、そして殿村の言うとおり私らしくもなく……
「まあいいよ。とにかく、初めての会議であんな態度じゃ信用を失くすぞ」
「すみませ……」
 そこで私は、はっとして彼を見返す。もしかしたら殿村は、社長や他の出席者に対してのカムフラージュに、私を厳しく注意し、嫌味まで言ったのだろうか。

 殿村はちょっと気まずそうに目を逸らすと、広い窓から見渡せる表通りを眺めた。
 やはりそうなのだ。でも、なぜ私をフォローしたのだろう。
「悪かったと思ってるんだ」
 横を向いたまま、彼は口を開いた。

 悪かった――?

「何がでしょうか」
 殿村はこちらを見やった。その眼差しが妙に色っぽくて、どきっとする。
「覚えていないのか」
「あ……」
 忘れるわけがない。少なくとも、32歳の誕生日まで私を追い詰めていた、この人の言葉。

 ――君は仕事と結婚したほうが幸せだよ。

「あれは、はい……覚えております」
「そうか」
 料理が運ばれてきて、私達は食事に集中した。
 7年の時空を一気に飛び超えたような、このぎこちなさ。
 食事中、私は彼の手元ばかり見ていた。ナイフとフォークを器用に操る彼の手指は、つるっとして上品で、ちょっと女のようだ。女っぽい顔立ちの飯島が男らしく節くれだった指をしているのに、不思議なものだと感じる。

 それから私は、彼の左手薬指にあるべきものが無いことに途中で気付き、心中で首を傾げた。彼は本社に異動したあと結婚したはずだった。

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