工場夜景

藤谷 郁

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4.デート代

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 同じ物事でも、角度を変えればまったく違う形に見える。それにしても、殿村の見解はあまりにも極端だった。
 許せないくらいに――


 明日はいよいよ、飯島との水族館デートだ。
 私は洋服を新調するため、仕事帰りにデパートに寄ってみた。どれが似合うのかよく分からず、店員にすすめられるまま、適当に選んでしまった。値札を確かめずに清算したら、ワンピースが一着7万8千円とのこと。
「うっ……良いお値段ですね」
「お客様はお背も高く、スリムなスタイルでいらっしゃいますから、とてもお似合いですよ」
 にこやかに対応されて、クレジットカードを引っ込め損ねた。


 家に帰り、ワンピースをあらためて眺めた。
「これって、若いコ向きじゃないかしら」
 胸の前にフリルの付いたカシミヤワンピースは、全体的にふわりとして優しく、丈も短めである。どう考えても20代半ばまでの年齢設定だと感じる。
「もう少しクールなデザインが好みだけれど」

 普段の私はシンプルなシャツにジャケット、地味色の膝丈スカートかパンツで過ごしている。こんな可愛らしい服を私が着るなど、かなり滑稽な気がする。職場の同僚らが見たら、半日は笑いが止まらないだろう。
「まあ、どうせ上にコートを着るし、よしとしましょう。7万8千円もしたのだから、着なければ勿体ない」
 1万円以上の洋服は滅多に購入したことがない。通常はスーパーの衣料品売り場を利用しているので、高くてもせいぜい8、9千円くらいのものだ。

 今回は初めての “二回目のデート” ということで、高級デパートのブランドショップにふらりと入ってしまった。何だかんだ言っても、私は浮かれている。

 風呂に入るしたくをすると、自室を出て階段を下りた。一段一段、みしみしと軋んだ音がする。
 木造二階建て築30年の家で、両親と同居している。年の離れた兄が一人いるが、隣町のマンションに所帯を持っている。お嫁さんは一人娘で、そのマンションは親御さんの不動産だと聞いた。どうやら兄は、あちらの家に入る可能性が大である。
 そのため『未樹の結婚相手は婿養子希望』と、婚活当初は両親に言われていたが、この頃は『引き取ってくれるのなら、誰でもいい』などと、無条件の彼らである。

 引き取るだなんて、いくら何でも失礼な。
『私は荷物ではない。れっきとした人間で、あなた方の娘ですよ』
 と言いたいが、口をつぐむ。ここまで連戦連敗だと、謙虚にならざるを得なかった。
「そうよ。年下でもいい……と、年齢の条件範囲を広げたのは間違っていないはず」
 殿村にあんなことを言われるまでは単純に喜んでいた。大らかで屈託のない、邪なものをまるで感じさせない好青年に出会えて、私は幸せだった。

 湯船に浸かり、膝を抱えた。
 今夜は冷え込むので、しっかり温まらなければ風邪を引いてしまう。湯の温度を上げると、ずっと頭を占めていることに思考を集中させた。

 私は飯島佳史の年収を知らない。会う前に勤務先くらいは確かめたが、その他は趣味も特技も、家族構成すら見ていない。意識して、知識に入れないようにしていた。
 顔立ちが好ましく、会ったことのないタイプであればそれでよかった。女性の肩書きや年収に偏見を持たず、素直に受け入れられる。飯島はそういう人だと感じた。だからこそ、ときめいたのだと思う。
「それなのに……」
 よりによって、あの殿村に水を差されてしまった。せっかく長年の拘りが解けたと思った途端、これである。

 だが、こうして引っかかっているのは、殿村の理屈に一理あると認めているからだ。不愉快ながらも。
「ああ、私らしくもない!」
 こんなにもグズグズするなど、初めてである。
 湯舟を上がると、鏡を見ながら髪や体を洗った。32歳の痩せた体。胸はCカップだったのが、何だかBのブラがしっくりくるようになってきた。しぼんだのかしら?

「マイナス思考だわ」
 頭を左右に振り、勢いよくシャワーを出してシャンプーを流した。今風にカットしたミディアムヘアを後ろに撫で上げ、ありのままの素顔を見る。
 若くはないが、老けてもいない、ただの女がいた。
 そう、ただの。
「唯という言葉には、ひたすらという意味もある!」
 声に出し、自らに言い聞かせた。

 何も考えず、ただ、飯島佳史に会おう――

 導かれたシンプルな答えに、私は思いもよらぬほどの満足を覚える。たちこめた霧が晴れるように、急速に視界が開けていった。
「そう、それでいいのよ」
 謙虚になればいいのだ。
 だって、なるようにしか、ならないのだから。

 方針が決まれば、思考に余裕が出てくる。私は鼻歌を歌いながら、もう一度湯船に浸かった。
 湯気に浮かぶのは飯島の姿だった。

 ――あなたのようにきれいな人が僕と会ってくれるなんて。

 ちょっと女っぽい顔立ち。
 伏せられた長い睫。
 意外に逞しい体躯。
 夕陽に染まる頬。
 潤んだ瞳。
 男らしく、節くれだった手指。

「……楽しみ」
 正直な気持ちを漏らし、頭のてっぺんまで湯船に沈んだ。




 ファッション雑誌をお手本にしたメイク。ピンクのチークをふわりとのせた。私は姿見の前に立ち、ワンピース姿を確かめてから、アイボリーのコートを羽織る。
「2、3歳若返ったみたい」
 一人照れ笑いして家を出た。


 地下鉄の駅から港まで歩くうちに、大粒の雪が舞い始めた。
「冷えるわけだわ」
 ワンピースを身につけたはいいが、寒さがこたえる。胸元が開いたデザイン。その上丈も短めなので辛いものがあった。
「いつものパンツにすればよかった……」
 私はハッと我にかえり、年寄りじみた呟きを打ち捨てた。今からデートする飯島は、まだ20代の若者である。こんな根性のないことでは付いて行けない。

 待ち合わせ場所は水族館の入場券売り場前。現在の時刻は午前9時45分。開館は10時のため、既にチケット売り場には長い列が出来ている。
「先に並んで、買っておこうかしら」
 ブーツを進めかけたが、はたと立ち止まる。これまでお見合いした年上男性は、皆、お金を出してくれた。食事に行っても、伝票をさり気なく取ってしまい、こちらに財布を開かせなかった。
 飯島も前回のデートでは車を出し、カフェの支払いもしてくれた。

 私は目を凝らし、入場料金を確かめる。
「二人で4千円か……年下の人に負担をかけていいものかしら」
 年下の男性とデートするのは初めてなので勝手が分からない。
「お金……か」
 ふと、殿村の言葉が過ぎった。

 ――君の年収や肩書きを、当てにしている可能性が高い。

「まさか、そんなこと」
 またもやマイナス思考に支配されそうになる。あれこれ逡巡していると、彼の声が聞こえた。
「おはようございます、未樹さん」
 びくっとして、思わずバッグの取っ手を強く握りしめる。だが動揺は見せず、明るい笑みを作ってから振り返った。
「おはようございます、飯島さん」

「寒いですね、今日は。待ちましたか?」
「いいえ、今着いたばかりです……よ」
 近付いて来た彼に、私は釘付けになった。
 セーターにダウンジャケット、パンツにスニーカーというカジュアルな服装だ。ヘアスタイルも、この前のようにきっちりと撫でつけず、適当に流してある。
「わ……若い……」
「えっ?」
「いえっ、別に何でもないです」

 二度目のデートとは、こういうものだろうか。よそ行きのスーツ姿ではなく、気取らず飾らず、普段の格好で来るものだろうか。
 私はあらためて自分を見下ろし、若作りして良かったと胸を撫で下ろした。似合う、似合わないは二の次にして。
「もうチケット販売していますね」
「ええ、もうすぐ開館の時間ですから」
「それじゃあ……未樹さん、買ってきてくれますか」
「……は?」
 間抜けな返事をしてしまった。
 今、予期せぬ言葉を聞いた気がして。
 飯島はだが、にっこりと爽やかに笑い、もう一度言ったのだ。
「買ってきてください、入場券を二枚」

(ななな、何ですって!?)

 私はあ然として見上げるが、彼は平然としている。
 
(なぜ? どうして私に買いに行けと言うの。しかも、二枚って、二人分ですか?)

 さっきより、寒くなった気がする。大粒の雪は、いつの間にか粉雪に変っていた。

「はい、分かりました」
 なぜか素直に返事をしていた。当然のようなこの流れに、違和感を持つ間もない。
 奢りでも割り勘でもない、想定外のパターンだ。

 とりあえずバッグを持ち直し、言われたとおり、チケットを買うために売り場に並ぼうとした。
 暗い予感が、頭をもたげてくる。

(年下の男性って、こういうもの? それとも、やっぱり殿村の見解どおり、この人は……)

「未樹さん!」
 飯島が呼んだ。これ以上何を言おうとするのか。
 恐る恐る振り向くと、彼は苦笑しながら駆け寄って来た。

「はい、これ。お願いします」
 ポケットから出したそれを、私の手にポンと渡した。
「え?」
 ずしりと重いそれは、黒革の財布だった。
「……飯島さん?」
「今日一日、あなたに預けます。支払いは全部、そこからやって下さい」

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