工場夜景

藤谷 郁

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10.灰色の世界

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 唐突な質問だった。
 私はわけが分からないまま、飯島の財布に入っていた現金を思い出す。
(確か、22万円だったわ)
 その金額が給料の手取りだと彼は言うのだ。そして、どう思うのか私に訊いている。
 答えようがなく戸惑っていると、飯島は思い出したように言葉を継いだ。
 「天引きで5万貯めてるから、それを含めて、です」
 ということは、27万円――

 私はバッグを開けて、黒革の財布を取り出した。ずしりと重い。確かな手応えがあるこれは、彼の汗と労働の結晶だったのだ。つまり、それを多いと思うか少ないと思うか、ということ。

 私はだが、質問の意図が分からない。財布を手に固まっていると、飯島は勝手に判断した。
「こんなもんじゃ、嫌でしょう」
 財布をサッと取り上げた。
「えっ?」
「あの人なんか、3倍くらいもらってるんじゃないですか」

(……あの人?)

 飯島は目を逸らし、港のほうを向いて続けた。
「ビジネスコートがよく似合っていた。いつもぱりっとした格好で働いてるんでしょうね。あの人の前で俺は、正直、惨めでしたよ。仕事ができそうで、大人で、その上男前で、レベルの違いを思い知らされたって言うか……」
 財布をジャケットのポケットにねじ込むと、彼は深いため息をついた。

 殿村のことだ。
 私は呆れてしまう。さっき納得してくれたはずなのに、飯島はまた蒸し返している。
「どうしてここで、部長が出てくるの?」
「あの人はあなたを好きだった。あなただって、何とも思っていないと言いながら、7年もこだわってましたね。はたから見れば、随分と親密な態度でしたよ」
「ええっ?」

 目の前で整理して見せた過去の荷物を、再びひっくり返された気分。
 なぜ理解してくれないのだろう。
 私がこだわったのは殿村ではなく、自分に対してだ。女として失格な自分自身にコンプレックスを持ったのだと、ちゃんと説明したではないか。
 飯島だって「7年も大変でしたね」と、労ってくれたのに。

 「それは違います。私がこだわったのは殿村部長ではなく……」
 言いかけて、唇を噛んだ。飯島の瞳は私を映していない。というより、水族館で殿村と遭遇する前の、澄んだ瞳ではなくなっている。
 それならば、順序よく根気よく、不純物を取り除いていくしかない。
「部長は結婚して、お子さんもいるのですよ」
「ええ。でも、今は離婚して独り身なんですよね」
「それは……」

 私は悔やんだ。殿村について、そこまで教える必要などなかったのに、つい話してしまった。でも、すべて明らかにしたかったのだ。飯島という青年に、隠しごとするなんてできない。

「それに、彼は僕のことを知ってるみたいでした。初対面なのに、はっきりと敵意を感じましたよ。僕について、相談でもしたんですか?」
 鋭く指摘されて、私はたじろいだ。何もやましいことはないのに、狼狽してしまう。
「そ、それは……先日会議で会った時に、少しだけ話しましたけど……」
「いくら何でも、デート先に現れるなんて普通じゃないですよ」

 あっと思った。
 今日、殿村と遭遇したのはまったくの偶然だ。それを飯島は誤解している。
「部長は仕事で訪れたのです。水族館であなたとデートすることを、私は教えていません」
「偶然ってことですか?」
 私は頷くが、飯島は納得しない。私は必死に頭をひねり、偶然という現象を証明しようとする。

「だから、えっと……そうだ、部長は仕事の格好をしてたでしょう?」
 コートの襟からスーツとネクタイが覗いていた。きっちりと撫で付けた髪型もそう、どこから見ても殿村はビジネスモードだった。
 飯島は一瞬ハッとするが、すぐ元に戻る。
「偶然を装うための、カムフラージュかもしれない」
「な……」
 飯島の頑なな態度に、私はなすすべを失う。彼はもう、何を言っても素直に受け取らないだろう。

 クラシック曲が途切れ、フロアは静まり返る。
 狭い空間に二人きり。カプセルに閉じ込められたかのように、息が詰まった。

 降り続く雪を見ながら、私は途方に暮れる。殿村とは本当に無関係なのに、なぜ分かってくれないのか。いやそれよりも、ショックなことがあった。
 飯島は、やはり年収を気にしていたのだ。この人も結局、これまで見合いした男性らと何ら変らない。年収や肩書にこだわるタイプだということ。
 私は身体を震わせた。飯島という青年に対し、感情が昂ぶっている。

「飯島さんっ」
「はい」
 感情を露わにした私を、彼は落ち着いた目で見返す。怯むことなく対応する姿は、些細なことを気にするような男性に見えない。むしろ大人びて、年上に感じられるほど。
「聞いてください……私は、部長が給料をいくらもらっているかなど知りません。いや、いくらもらっていようと私には関係ない……と言うか、結婚するのに給料の額など、基本的に関係ないのです」
「……」
 飯島は口をつぐみ、私を凝視する。真実の発言かどうか確かめるみたいに、瞬きもせず。

 その時、エレベーターの扉が開き、ひと組の親子が降りてきた。
 クラシック曲が流れ始め、子ども達のはしゃぐ声が響き渡る。飯島は気まずそうに横を向くと、私をエレベーターへと促した。
 私は黙って従い、空になった籠に彼と乗り込んだ。

 地上に下りるまでの短い時間。
 二人の間に気まずい空気がたちこめ、息をするのも苦しい。
 だけど、永遠に着かないでほしかった。嫌な予感しかなく、私はそこに辿り着くのを恐れた。


 展望塔を出ると、相変わらず雪が降り続き、風も強くなっていた。
 飯島は先に立って公園を歩き始め、しばらくして立ち止まる。
 振り向いた顔は、少し青ざめて見えた。

「み……松平さん」
「えっ?」
 苗字で呼ばれたことに私は驚き、立ちすくんだ。
 嫌な予感が現実味を帯び、表れようとしている。
 飯島は頑なな態度を変えず、そして、突然結論付けた。
「もう、止めましょう」

 何を言われたのか、咄嗟に判断できない。呆気なさすぎて。
「飯島さん、それはどういう……」
「ここでお別れってことです」
 彼は普通に言った。身体はもう、私から離れようとしている。
「お別れって、そんな」
「僕、まだ若いんで……次があるから」
「……え」
 
 今、なんと言いましたか。止めましょう? 次があるから?
 僕、まだ若いんで――?

 初めて飯島と会った日。そして二度目のデート。
 彼と過ごした、短くも充実した二日間がスライドショーとなり、頭に映し出される。楽しくて、嬉しくて、ときめきを感じた。手を繋ぎ、微笑を交わし、そして……
 そのすべてが今、幻となり、消えようとしている。

 人生最大級の衝撃だった。

「ま、待って下さい。こんなの……あんまりです!」
「何がです」
 信じられないほど冷淡な返事。
「だって、こんなにもあっさりと」
「しょうがないですよ。結婚相談所って、そういうところでしょう。互いのことを何も知らない男女が出会って、デートして、駄目だったら次に……」

 駄目――

 どうしても認められない言葉だった。

「私が嫌いなの?」
 職場の人間が聞いたら、耳を疑うような台詞だろう。でも、これが私なのだ。情けないけれど、こんな自分も自分だったのだ。
「……嫌いですよ」
 氷のようなつぶやき。彼は一刻も早くここから逃げたいように、歩道の先を睨んでいる。

「だったら、だったらどうして」
「……」
 こんなこと言いたくない。
 でも、あれは何だったのか、責めずにはいられなかった。
「キスなんてしたの」
「だから謝っただろう」
 怒った言い方に、身を竦めた。
 そして、とてつもなく恥ずかしい。32歳にもなって、キスを理由に誠実を迫ろうなんて、あまりにも幼く、愚かしく。

「とにかく、もう行きます。相談所には断っておいて下さい。僕もそうしますから」
「……嫌です」
「僕はそうします」
「飯島さんっ」
「それじゃあ、これで……お世話になりました」
 くるりと、背中を向けた。

 どうしよう、どうしよう――

 フードを被り、彼は立ち去ろうとしている。
 でも私はまだ、肝心なことを伝えていない。
「飯島さん!」
 追いすがる私の叫びに、走り出そうとした彼の足が止まった。
「お願いです、待って」
「……」

 冷たい雪に濡れ続ける広い背中。無言の後ろ姿に、私は垣間見ることができた。
 年上女の前で、プライドを保とうとしていること。
 彼は殿村と遭遇し、男としての劣等感を呼び起こされたのだ――
 私はようやく理解していた。

(部長に出会ったことで、関係が崩れてしまったのね。でも、そんなこと女の私には受け入れられない。男の勝手な事情だわ。だって、そうでしょう。年齢も年収も関係ない。私は飯島佳史という男に恋する、ただの女だもの)

「飯島さんっ、私はあなたが……」
「さよなら!」
 振り切るように走り出した。空も海も、すべて灰色の世界へと、彼は行ってしまう。追いかけたって捕まらないだろう。彼はもう、止めると言ったのだ。

「飯島さーん!」
 冷たい海風に、想いは千切られる。悲痛な叫びは届かず、空しく宙に消えた。
「あなたが、好きなのに」
 32年間、誰にも抱くことのなかった、この気持ち。伝えたかった想い。
 届かぬ声はいつしか、嗚咽に変った。


 冷静で、堅物で、感情を正しくコントロールする仕事人間。世の中の誰一人として、こんな『らしくない私』を引き出せなかった。
 ほんの二日ばかり一緒にいただけの人が、どうして、何ゆえに、私をこんなふうにしてしまったのか。そして、行ってしまったのか。

 松平未樹 32歳 独身
 大人になってから初めて、声を出して泣いた――

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