モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
1 / 82
地味な事務員

「俺もついに、オッサンの仲間入りか」


 滝口たきぐち慧一けいいちは鏡の前で髪をかき上げた。

 当年とって二十八歳。男にしてはきれいな肌と整った顔立ちが若く見せるが、アラサーには違いない。

 染めた髪がぱらりと垂れるのを見て、深いため息をつく。

 入社以来続けてきた交代勤務を、この春解かれた。日勤の部署に異動するのは、若手を卒業した証ではないかと彼は考えている。


「いいかげん、決まった相手を見つけないとなァ」


 作業服に着替えて更衣室を出ると、配属されて三か月になる持ち場へと向かった。



 ◇ ◇ ◇



 三田村みたむら工業株式会社――

 広大な敷地にいくつもの工場棟を有するこの会社では、自動車のエンジンに使用される部品を製造している。

 日本の大手自動車メーカーはじめ、世界各国に取引先があり、経営規模は大きい。この頃は不景気で生産も縮小傾向だが、会社自体は実績ある安定企業と、世間には目されている。


 慧一は製造課に所属するエンジニアだ。

 現場仕事を主とするため、事務所に置かれたデスクはほとんど使われていない。
 広々とした事務所は部署ごとに区切られ、製造課のスペースは、生産管理課と隣合わせになっている。

 生産管理課に所属する同期のいずみ真介しんすけとは、大学以来の腐れ縁。四月の異動で、再び付き合いが頻繁になった。



 建物を出ると、七月半ばの強い日差しと、梅雨が明けていないこの時期特有の湿気が容赦なく襲ってきた。


「仕事の前にコーヒーでも飲むか」


 別棟の休憩室に入る直前、スマートフォンが鳴動した。


「何だ真介か、もしもし!」

『慧一、オレだ』

「どうした、わざわざ電話してくるなんて。まさか、カノジョが出来たって報告じゃないだろうな」


 生真面目なインテリ男の真介に、からかい口調でふざける。


『冗談言ってる場合じゃないんだよ! あのな、今朝へんなもの見つけちゃって大変なんだよ』


 いつもはつまらないくらい落ち着いた男が、随分と取り乱している。


「何だ、何を見つけたって?」

『俺とお前の……!』


 真介は勢いよく言いかけるが、何かに止められるように口ごもった。


「もしもし? どうしたんだよ。俺とお前のって、俺に関係あるのか」


 慧一の問いかけに、真介はあきらかに辺りをはばかるような小声になった。


『あるんだよ。卒倒しそうだよ、俺は』

「?」

『とにかく、仕事が終わってから話すよ。お前も残業はそれほど無いだろ。七時に“ロマン”で待ってる。じゃあな』


 唐突に通話は切れた。


「何言ってんだ、あいつ」


 会社帰りに男同士で、喫茶“ロマン”で待ち合わせかよ。慧一は渋面を作りながら、休憩室の扉を押した。


 中には誰もいない。社員達は既に持ち場へ散ったようで、コーヒーの残り香だけが、広くもない憩いの部屋に漂っている。

 空調の大きな音がうるさいが、流れてくる涼しい風が心地良い。慧一はほっとした顔で自販機に硬貨を入れた。

 腰を屈めてホットコーヒーの入った紙コップを取り出していると、ドアが勢いよく開く音がした。

 後ろを振り向くと、紺色の事務服を着た女性が、息を切らして立っている。

 そして、なぜか慧一の姿を認めたとたん、眼鏡の奥の目をこれ以上無いくらいに大きく見開き、「ひああっ!」と、変な叫び声を上げた。


 見覚えのある事務員だ。


 慧一は頭の中で思い出す作業をして、「そうか」とつぶやく。

 日勤の部署に異動して間もなくのこと。組合事務所に立ち寄った時、カウンターに座っていた女の子だ。

 今時めずらしい黒髪のお下げで、眼鏡をかけている。地味で大人しそうな、しかし愛想の良い笑顔が印象的だった。

 慧一はまた、彼女の眼鏡のフレームに特徴があったのを覚えている。

 薄緑色の石が付いた、きれいなデザインのフレームだ。あの透明感は、おそらく蛍石だろうと推測した。


 無言で胸を押さえているその事務員に、慧一は微笑んでみせた。どこか怖がっているように見える彼女に、わざと明るく問いかけてみる。


「誰か探してるのかな?」


 彼女はかぶりを振るが、会釈をしてから中に入って周囲を見渡すと、ベンチの下や自販機の裏側まで覗きこんで、何かを探し始めた。

 眉間にしわを寄せて、かなり険しい表情である。

 重要な書類でも失くしたのかな。
 慧一はコーヒーを啜りながら様子を見守った。


「あのっ」


 やがて、彼女は慧一に振り返り声をかけた。


「うん?」


 小動物的な怯えた瞳を慧一は見返し、一体どんな深刻な事を訊かれるのかと身構えた。


「……いえ、あの、何でもありません」


 彼女は拍子抜けするような元気のない声になって、睫毛を伏せた。


「何か探してるんだろ?」

「ええ、はい。でも……ああ、どうしよう」


 慧一を窺うようにするが、やはりすぐに俯いてしまう。


「すみません、失礼します」


 深々と頭を下げると、スーッと出て行ってしまった。


「えっ、おい?」


 慧一は呆気にとられ、しばし突っ立ったまま。

 窓の外を見ると、よろよろと頼りない足取りで歩く事務員の後姿が、陽炎の向こうに消えていく。


「おかしな子だなあ」


 彼女を見送りつつ、空の紙コップをゴミ箱に放り込んだ。

 まだ二十歳ハタチそこそこの、子どものような事務員。結局何しに来たのかよく分からないが、ちょっと興味が湧いた。


「処女かな」


 つい声に出し、自分でその口を塞ぐ。


「やっぱりオッサンだ」


 慧一は頭をかきながら、始業ベルに追い立てられるように、慌てて持ち場へと駆けて行った。


あなたにおすすめの小説

今宵、薔薇の園で

天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。 しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。 彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。 キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。 そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。 彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。

虐げられた令嬢は、耐える必要がなくなりました

天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私アニカは、妹と違い婚約者がいなかった。 妹レモノは侯爵令息との婚約が決まり、私を見下すようになる。 その後……私はレモノの嘘によって、家族から虐げられていた。 家族の命令で外に出ることとなり、私は公爵令息のジェイドと偶然出会う。 ジェイドは私を心配して、守るから耐える必要はないと言ってくれる。 耐える必要がなくなった私は、家族に反撃します。

【完結】小公爵様、死亡フラグが立っています。

曽根原ツタ
恋愛
 ロベリア・アヴリーヌは前世で日本人だった。恋愛小説『瑠璃色の妃』の世界に転生し、物語には登場しない公爵令嬢として二度目の人生を生きていた。  ロベリアには、小説のエピソードの中で気がかりな点があった。それは、主人公ナターシャの幼馴染で、尚且つ彼女に恋心を寄せる当て馬ポジションのユーリ・ローズブレイドについて。彼は、物語の途中でナターシャの双子の妹に刺殺されるという数奇な運命を迎える。その未来を知るのは──ロベリアただひとり。  お人好しの彼女は、虐げられ主人公も、殺害される当て馬も、ざまぁ予定の悪役も全員救うため、一念発起する。 「ユーリ様。あなたにはナターシャに──愛の告白をしていただきますわ!」 「…………は?」  弾丸令嬢のストーリー改変が始まる──。 ----------------- 小説家になろう様でも更新しております。 (完結保証)

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

【完結】見えてますよ!

ユユ
恋愛
“何故” 私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。 美少女でもなければ醜くもなく。 優秀でもなければ出来損ないでもなく。 高貴でも無ければ下位貴族でもない。 富豪でなければ貧乏でもない。 中の中。 自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。 唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。 そしてあの言葉が聞こえてくる。 見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。 私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。 ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。 ★注意★ ・閑話にはR18要素を含みます。  読まなくても大丈夫です。 ・作り話です。 ・合わない方はご退出願います。 ・完結しています。

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

結婚する事に決めたから

KONAN
恋愛
私は既婚者です。 新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。 まずは、離婚してから行動を起こします。 主な登場人物 東條なお 似ている芸能人 ○原隼人さん 32歳既婚。 中学、高校はテニス部 電気工事の資格と実務経験あり。 車、バイク、船の免許を持っている。 現在、新聞販売店所長代理。 趣味はイカ釣り。 竹田みさき 似ている芸能人 ○野芽衣さん 32歳未婚、シングルマザー 医療事務 息子1人 親分(大島) 似ている芸能人 ○田新太さん 70代 施設の送迎運転手 板金屋(大倉) 似ている芸能人 ○藤大樹さん 23歳 介護助手 理学療法士になる為、勉強中 よっしー課長(吉本) 似ている芸能人 ○倉涼子さん 施設医療事務課長 登山が趣味 o谷事務長 ○重豊さん 施設医療事務事務長 腰痛持ち 池さん 似ている芸能人 ○田あき子さん 居宅部門管理者 看護師 下山さん(ともさん) 似ている芸能人 ○地真央さん 医療事務 息子と娘はテニス選手 t助 似ている芸能人 ○ツオくん(アニメ) 施設医療事務事務長 o谷事務長異動後の事務長 雄一郎 ゆういちろう 似ている芸能人 ○鹿央士さん 弟の同級生 中学テニス部 高校陸上部 大学帰宅部 髪の赤い看護師(川木えみ) 似ている芸能人 ○田來未さん 准看護師 ヤンキー 怖い

【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。 「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。 小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。 若くしてプロジェクトチームを任される彼は、 かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、 遠く、眩しい存在になっていた。 優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。 もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。 それでも—— 8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。 これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。