4 / 82
モース硬度計
1
土曜の夜、川本唯と慧一は、六本木のインド料理店で、約束どおり食事をともにしている。
ナンに五種類のカレー、ライタ、タンドリーチキン、パニールパコラなどなど……
慧一は好物のビリヤニ(インドの炊き込みご飯)を注文しようとしたが、本格的な炊き方はしないと聞いてナンに切り替えた。
好き嫌いなく何でも食べる彼だが、少しは拘りがあるようだ。
「ナンも好きだからいいけどさ」
黒の開襟シャツの袖を捲り上げ、慧一は料理を端からやっつける。額に汗を浮かべつつ食事する男に、唯はうっとりと見惚れた。
エキゾチックな雰囲気の店内は照明が抑えられ、所々に設置された色付きランプが壁を妖しく揺らす。半個室に区切られたテーブルはカップルで満たされ、彼らは低く囁くように、週末の会話を楽しんでいる。
川本唯。
彼女は今、目の前にいるクールでぶっきらぼうで、つまり「この私に媚びたところが微塵もない」美しい男に夢中だった。
過去の男達とは電話の対応ひとつでも違う。
実に素っ気なく、ストレートな物言い。こうして直に会ってもそれは変わらない。でも、ちっともキツく感じられないのは、意外にも温かな声と優しい眼差しのせい。
そして何より、慧一はセックスが堪らなく上手いのだ。
今まで三度の交渉を持ったが、どの夜も皆、忘れられない刺激となって唯の身体の奥に残っている。
心も身体も虜になりつつあった。
どうして、こんなにも粋な男がフリーでいたのかと、彼女は不思議に思いつつも巡ってきた幸運に感謝していた。
やがて、食後の菓子が運ばれてきた。
サンデーシュというチーズの焼き菓子と、もうひとつはロスグッラ。カッテージチーズを団子にしてシロップで煮た、インドではポピュラーなデザートだ。
民族衣装をまとう店員が、インド式のミルクティーをカップに注いでくれた。
シナモンを加え、二人は味わう。
「美味いな」
慧一が不意に、唯に笑いかけた。
好きな男の極上の笑顔は、何よりのご馳走だ。唯は身体ごと、吹き抜けの天井まで舞い上がりそうになった。
「ほんと、最高に美味しいわ」
その時、壁時計が午後9時のメロディーを鳴らす。唯の胸は、夜への期待でいっぱいに膨らみ始める。
「ミルクティーにはサモサが合うんだけどなあ」
慧一が袖のボタンを留めながら、独り言のようにつぶやく。
「サモサって?」
「小麦粉を練ってのばした皮に、スパイスで煮込んだひき肉とか豆とか、具を包んで揚げたスナックだよ。甘くなくて、パリッとして美味いんだ。まあ、飯の後ではボリュームがありすぎて、カロリーオーバーだけどね」
「そうなの。さすが、いろいろ知ってるのね」
「ヒンズー教では油で揚げると食べ物が清められるっていう教えがあって、揚げ菓子が多いらしい。旅行した時、屋台のジャレビーってのを食べたんだけど、独特の歯ざわりが良くってね」
「ふうん」
慧一は好奇心が旺盛な人間で、知識の引き出しが多い。
旅行も好きで、学生時代から海外にちょくちょく出かけているようだ。
唯はそんなところにも魅力を感じ、この男はこの先自分を退屈させることはないだろうと、期待を抱いている。
「さてと、どうするかな」
慧一が時計を確かめ、唯の顔に視線を移す。
あからさまに欲しがってると思われるのは嫌なので、唯は軽く小首を傾げるだけで、何も言わないでおいた。そうしておけば、いつものように「抱かれたい?」とか「ホテルに行こうか」とか、ストレートに訊いてくるはずだ。
彼女はただ、恥じらうふりで頷けば良いのだった。
「あら、やっぱり慧一君だ。こんばんは!」
二人が席を立つタイミングで、半個室の外から顔を出す者があった。
「あれっ、ソノちゃんじゃないか」
工場に勤めるパートの女性だと、慧一が唯に教えた。
唯は戸惑いながらも、軽く会釈する。
「何となく似た声がすると思って! やっぱりだわよ。岡ちゃんもリエさんも来てるのよお」
機械音がうるさい工場にいるかのように、ソノちゃんと呼ばれたおばさんは大声を出した。唯は不愉快な顔をして、彼女からそれとなく目を逸らす。
「わっ、ごめんなさいね。こんな高級どころで食事して緊張してたもんだから、慧一君に会えて気が緩んじゃったわ。それに周りみんなカップルでしょう。居心地が悪いったら。オホホホ……」
「そうか……ってことは、皆、これから帰るの?」
慧一は、いつの間にか彼女の後ろに集まってきたパート仲間達にも声をかけた。
「そうよ、旦那が待ってるもの」
「若い人はいいわねえ、これからお楽しみ」
「バカ、アッハハハ」
楽しそうな笑い声だが、唯にはそれがムードぶち壊しの騒音に聞こえた。慧一が一刻も早く、この場違いな面々を追い払ってくれることを望んだ。
ところが、彼は唯に向き直ると、
「それじゃ、俺は皆とタクシーで帰るよ。君は方向が違うから送って行けないけど、電車があるから大丈夫だよな」
会社の同僚に対するような調子で、そう告げた。
「ちょっと慧一君、何言ってんのよ。お家まで送らなきゃダメよ、彼女さんでしょうが」
自分達の登場が無粋だったのかと、おばさん達は慌てて取り成そうとする。
「もちろん、彼女だったら送って行くけどね」
唯はきょとんとした。
今、理解できない言葉が聞こえたような……
やがてある解釈にたどり着くと、彼女は愕然として目を見開く。
「それじゃ、さよなら。川本さん」
唯は一人残され、あっけなく立ち去った彼の椅子を、呆然と眺めるほかなかった。
いっぽう慧一はレジまでさっさと歩き、一人分の勘定を済ませると、工場の仲間達と一緒に店を出た。タクシーを拾うのに難儀をしたが、何とか捕まえて分乗するとホッと息をつき、馴染んだ土地へと帰っていった。
彼が女を振ったのは、これが初めてだった。
ナンに五種類のカレー、ライタ、タンドリーチキン、パニールパコラなどなど……
慧一は好物のビリヤニ(インドの炊き込みご飯)を注文しようとしたが、本格的な炊き方はしないと聞いてナンに切り替えた。
好き嫌いなく何でも食べる彼だが、少しは拘りがあるようだ。
「ナンも好きだからいいけどさ」
黒の開襟シャツの袖を捲り上げ、慧一は料理を端からやっつける。額に汗を浮かべつつ食事する男に、唯はうっとりと見惚れた。
エキゾチックな雰囲気の店内は照明が抑えられ、所々に設置された色付きランプが壁を妖しく揺らす。半個室に区切られたテーブルはカップルで満たされ、彼らは低く囁くように、週末の会話を楽しんでいる。
川本唯。
彼女は今、目の前にいるクールでぶっきらぼうで、つまり「この私に媚びたところが微塵もない」美しい男に夢中だった。
過去の男達とは電話の対応ひとつでも違う。
実に素っ気なく、ストレートな物言い。こうして直に会ってもそれは変わらない。でも、ちっともキツく感じられないのは、意外にも温かな声と優しい眼差しのせい。
そして何より、慧一はセックスが堪らなく上手いのだ。
今まで三度の交渉を持ったが、どの夜も皆、忘れられない刺激となって唯の身体の奥に残っている。
心も身体も虜になりつつあった。
どうして、こんなにも粋な男がフリーでいたのかと、彼女は不思議に思いつつも巡ってきた幸運に感謝していた。
やがて、食後の菓子が運ばれてきた。
サンデーシュというチーズの焼き菓子と、もうひとつはロスグッラ。カッテージチーズを団子にしてシロップで煮た、インドではポピュラーなデザートだ。
民族衣装をまとう店員が、インド式のミルクティーをカップに注いでくれた。
シナモンを加え、二人は味わう。
「美味いな」
慧一が不意に、唯に笑いかけた。
好きな男の極上の笑顔は、何よりのご馳走だ。唯は身体ごと、吹き抜けの天井まで舞い上がりそうになった。
「ほんと、最高に美味しいわ」
その時、壁時計が午後9時のメロディーを鳴らす。唯の胸は、夜への期待でいっぱいに膨らみ始める。
「ミルクティーにはサモサが合うんだけどなあ」
慧一が袖のボタンを留めながら、独り言のようにつぶやく。
「サモサって?」
「小麦粉を練ってのばした皮に、スパイスで煮込んだひき肉とか豆とか、具を包んで揚げたスナックだよ。甘くなくて、パリッとして美味いんだ。まあ、飯の後ではボリュームがありすぎて、カロリーオーバーだけどね」
「そうなの。さすが、いろいろ知ってるのね」
「ヒンズー教では油で揚げると食べ物が清められるっていう教えがあって、揚げ菓子が多いらしい。旅行した時、屋台のジャレビーってのを食べたんだけど、独特の歯ざわりが良くってね」
「ふうん」
慧一は好奇心が旺盛な人間で、知識の引き出しが多い。
旅行も好きで、学生時代から海外にちょくちょく出かけているようだ。
唯はそんなところにも魅力を感じ、この男はこの先自分を退屈させることはないだろうと、期待を抱いている。
「さてと、どうするかな」
慧一が時計を確かめ、唯の顔に視線を移す。
あからさまに欲しがってると思われるのは嫌なので、唯は軽く小首を傾げるだけで、何も言わないでおいた。そうしておけば、いつものように「抱かれたい?」とか「ホテルに行こうか」とか、ストレートに訊いてくるはずだ。
彼女はただ、恥じらうふりで頷けば良いのだった。
「あら、やっぱり慧一君だ。こんばんは!」
二人が席を立つタイミングで、半個室の外から顔を出す者があった。
「あれっ、ソノちゃんじゃないか」
工場に勤めるパートの女性だと、慧一が唯に教えた。
唯は戸惑いながらも、軽く会釈する。
「何となく似た声がすると思って! やっぱりだわよ。岡ちゃんもリエさんも来てるのよお」
機械音がうるさい工場にいるかのように、ソノちゃんと呼ばれたおばさんは大声を出した。唯は不愉快な顔をして、彼女からそれとなく目を逸らす。
「わっ、ごめんなさいね。こんな高級どころで食事して緊張してたもんだから、慧一君に会えて気が緩んじゃったわ。それに周りみんなカップルでしょう。居心地が悪いったら。オホホホ……」
「そうか……ってことは、皆、これから帰るの?」
慧一は、いつの間にか彼女の後ろに集まってきたパート仲間達にも声をかけた。
「そうよ、旦那が待ってるもの」
「若い人はいいわねえ、これからお楽しみ」
「バカ、アッハハハ」
楽しそうな笑い声だが、唯にはそれがムードぶち壊しの騒音に聞こえた。慧一が一刻も早く、この場違いな面々を追い払ってくれることを望んだ。
ところが、彼は唯に向き直ると、
「それじゃ、俺は皆とタクシーで帰るよ。君は方向が違うから送って行けないけど、電車があるから大丈夫だよな」
会社の同僚に対するような調子で、そう告げた。
「ちょっと慧一君、何言ってんのよ。お家まで送らなきゃダメよ、彼女さんでしょうが」
自分達の登場が無粋だったのかと、おばさん達は慌てて取り成そうとする。
「もちろん、彼女だったら送って行くけどね」
唯はきょとんとした。
今、理解できない言葉が聞こえたような……
やがてある解釈にたどり着くと、彼女は愕然として目を見開く。
「それじゃ、さよなら。川本さん」
唯は一人残され、あっけなく立ち去った彼の椅子を、呆然と眺めるほかなかった。
いっぽう慧一はレジまでさっさと歩き、一人分の勘定を済ませると、工場の仲間達と一緒に店を出た。タクシーを拾うのに難儀をしたが、何とか捕まえて分乗するとホッと息をつき、馴染んだ土地へと帰っていった。
彼が女を振ったのは、これが初めてだった。
あなたにおすすめの小説
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
虐げられた令嬢は、耐える必要がなくなりました
天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私アニカは、妹と違い婚約者がいなかった。
妹レモノは侯爵令息との婚約が決まり、私を見下すようになる。
その後……私はレモノの嘘によって、家族から虐げられていた。
家族の命令で外に出ることとなり、私は公爵令息のジェイドと偶然出会う。
ジェイドは私を心配して、守るから耐える必要はないと言ってくれる。
耐える必要がなくなった私は、家族に反撃します。
【完結】小公爵様、死亡フラグが立っています。
曽根原ツタ
恋愛
ロベリア・アヴリーヌは前世で日本人だった。恋愛小説『瑠璃色の妃』の世界に転生し、物語には登場しない公爵令嬢として二度目の人生を生きていた。
ロベリアには、小説のエピソードの中で気がかりな点があった。それは、主人公ナターシャの幼馴染で、尚且つ彼女に恋心を寄せる当て馬ポジションのユーリ・ローズブレイドについて。彼は、物語の途中でナターシャの双子の妹に刺殺されるという数奇な運命を迎える。その未来を知るのは──ロベリアただひとり。
お人好しの彼女は、虐げられ主人公も、殺害される当て馬も、ざまぁ予定の悪役も全員救うため、一念発起する。
「ユーリ様。あなたにはナターシャに──愛の告白をしていただきますわ!」
「…………は?」
弾丸令嬢のストーリー改変が始まる──。
-----------------
小説家になろう様でも更新しております。
(完結保証)
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
【完結】見えてますよ!
ユユ
恋愛
“何故”
私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。
美少女でもなければ醜くもなく。
優秀でもなければ出来損ないでもなく。
高貴でも無ければ下位貴族でもない。
富豪でなければ貧乏でもない。
中の中。
自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。
唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。
そしてあの言葉が聞こえてくる。
見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。
私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。
ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。
★注意★
・閑話にはR18要素を含みます。
読まなくても大丈夫です。
・作り話です。
・合わない方はご退出願います。
・完結しています。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長(吉本)
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
雄一郎 ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師(川木えみ)
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。