モース10

藤谷 郁

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モース硬度計

 土曜の夜、川本ゆいと慧一は、六本木のインド料理店で、約束どおり食事をともにしている。

 ナンに五種類のカレー、ライタ、タンドリーチキン、パニールパコラなどなど……

 慧一は好物のビリヤニ(インドの炊き込みご飯)を注文しようとしたが、本格的な炊き方はしないと聞いてナンに切り替えた。

 好き嫌いなく何でも食べる彼だが、少しは拘りがあるようだ。


「ナンも好きだからいいけどさ」


 黒の開襟シャツの袖を捲り上げ、慧一は料理を端からやっつける。額に汗を浮かべつつ食事する男に、唯はうっとりと見惚れた。

 エキゾチックな雰囲気の店内は照明が抑えられ、所々に設置された色付きランプが壁を妖しく揺らす。半個室に区切られたテーブルはカップルで満たされ、彼らは低く囁くように、週末の会話を楽しんでいる。

 川本唯。

 彼女は今、目の前にいるクールでぶっきらぼうで、つまり「この私に媚びたところが微塵もない」美しい男に夢中だった。

 過去の男達とは電話の対応ひとつでも違う。

 実に素っ気なく、ストレートな物言い。こうして直に会ってもそれは変わらない。でも、ちっともキツく感じられないのは、意外にも温かな声と優しい眼差しのせい。

 そして何より、慧一はセックスが堪らなく上手いのだ。

 今まで三度の交渉を持ったが、どの夜も皆、忘れられない刺激となって唯の身体の奥に残っている。

 心も身体も虜になりつつあった。

 どうして、こんなにも粋な男がフリーでいたのかと、彼女は不思議に思いつつも巡ってきた幸運に感謝していた。



 やがて、食後の菓子が運ばれてきた。

 サンデーシュというチーズの焼き菓子と、もうひとつはロスグッラ。カッテージチーズを団子にしてシロップで煮た、インドではポピュラーなデザートだ。

 民族衣装をまとう店員が、インド式のミルクティーをカップに注いでくれた。

 シナモンを加え、二人は味わう。


「美味いな」


 慧一が不意に、唯に笑いかけた。

 好きな男の極上の笑顔は、何よりのご馳走だ。唯は身体ごと、吹き抜けの天井まで舞い上がりそうになった。


「ほんと、最高に美味しいわ」


 その時、壁時計が午後9時のメロディーを鳴らす。唯の胸は、夜への期待でいっぱいに膨らみ始める。


「ミルクティーにはサモサが合うんだけどなあ」


 慧一が袖のボタンを留めながら、独り言のようにつぶやく。


「サモサって?」

「小麦粉を練ってのばした皮に、スパイスで煮込んだひき肉とか豆とか、具を包んで揚げたスナックだよ。甘くなくて、パリッとして美味いんだ。まあ、飯の後ではボリュームがありすぎて、カロリーオーバーだけどね」

「そうなの。さすが、いろいろ知ってるのね」

「ヒンズー教では油で揚げると食べ物が清められるっていう教えがあって、揚げ菓子が多いらしい。旅行した時、屋台のジャレビーってのを食べたんだけど、独特の歯ざわりが良くってね」

「ふうん」


 慧一は好奇心が旺盛な人間で、知識の引き出しが多い。
 旅行も好きで、学生時代から海外にちょくちょく出かけているようだ。

 唯はそんなところにも魅力を感じ、この男はこの先自分を退屈させることはないだろうと、期待を抱いている。


「さてと、どうするかな」


 慧一が時計を確かめ、唯の顔に視線を移す。

 あからさまに欲しがってると思われるのは嫌なので、唯は軽く小首を傾げるだけで、何も言わないでおいた。そうしておけば、いつものように「抱かれたい?」とか「ホテルに行こうか」とか、ストレートに訊いてくるはずだ。

 彼女はただ、恥じらうふりで頷けば良いのだった。


「あら、やっぱり慧一君だ。こんばんは!」


 二人が席を立つタイミングで、半個室の外から顔を出す者があった。


「あれっ、ソノちゃんじゃないか」


 工場に勤めるパートの女性だと、慧一が唯に教えた。
 唯は戸惑いながらも、軽く会釈する。


「何となく似た声がすると思って! やっぱりだわよ。岡ちゃんもリエさんも来てるのよお」


 機械音がうるさい工場にいるかのように、ソノちゃんと呼ばれたおばさんは大声を出した。唯は不愉快な顔をして、彼女からそれとなく目を逸らす。


「わっ、ごめんなさいね。こんな高級どころで食事して緊張してたもんだから、慧一君に会えて気が緩んじゃったわ。それに周りみんなカップルでしょう。居心地が悪いったら。オホホホ……」

「そうか……ってことは、皆、これから帰るの?」


 慧一は、いつの間にか彼女の後ろに集まってきたパート仲間達にも声をかけた。


「そうよ、旦那が待ってるもの」

「若い人はいいわねえ、これからお楽しみ」

「バカ、アッハハハ」


 楽しそうな笑い声だが、唯にはそれがムードぶち壊しの騒音に聞こえた。慧一が一刻も早く、この場違いな面々を追い払ってくれることを望んだ。

 ところが、彼は唯に向き直ると、


「それじゃ、俺は皆とタクシーで帰るよ。君は方向が違うから送って行けないけど、電車があるから大丈夫だよな」


 会社の同僚に対するような調子で、そう告げた。


「ちょっと慧一君、何言ってんのよ。お家まで送らなきゃダメよ、彼女さんでしょうが」


 自分達の登場が無粋だったのかと、おばさん達は慌てて取り成そうとする。


「もちろん、彼女だったら送って行くけどね」


 唯はきょとんとした。
 今、理解できない言葉が聞こえたような……

 やがてある解釈にたどり着くと、彼女は愕然として目を見開く。


「それじゃ、さよなら。川本さん」


 唯は一人残され、あっけなく立ち去った彼の椅子を、呆然と眺めるほかなかった。


 いっぽう慧一はレジまでさっさと歩き、一人分の勘定を済ませると、工場の仲間達と一緒に店を出た。タクシーを拾うのに難儀をしたが、何とか捕まえて分乗するとホッと息をつき、馴染んだ土地へと帰っていった。


 彼が女を振ったのは、これが初めてだった。

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