モース10

藤谷 郁

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キス


「本当にか」

「はい」


 峰子はYesと意思を示した。
 思わず万歳しそうになる慧一だが、彼女は続けて、ぼそぼそと口を動かす。


「ただし、十回だけ……」


 声が小さくて聞き取れず、慧一は耳を寄せる。


「ん? ただし……何だって? 何て言った」


 すると峰子は遠慮がちに、それでも今度は声を大きくして、それを伝えた。


「モースのモデルにしたお詫びとお礼に十冊分。十回だけ、お付き合いさせていただきます」


 慧一は絶句した。

 ロマンのかけらもない返事だ。それではまるで、取引きか契約である。回数券が発行されたようなものだ。

 頭の中で、京子の言葉が反響する。


 ――峰子ちゃんは男の人と付き合うとか、そういった方向に興味がないんです。


 男に興味が無い。
 峰子の興味は、趣味嗜好のみに向けられているのだ。

 慧一は落胆するが、すぐに気を取り直す。

 全面的に断られたわけではない。一応これは口説いた結果である。前向きにチャンスと捉え、彼女に『契約』の念を押した。


「それはつまり、食事やデートに十回付き合ってくれる。そう考えていいんだな」

「はい」

「撤回は無しだぞ」

「は、はい」


 心許ない返事だが、まあ上出来だ。慧一は胸の中で手を打った。


「よし、分かった」


 慧一は前に向き直ると、エアコンの温度を下げた。

 体が熱くなっている。

 どんな形であれ、峰子の世界に入り込むのに成功したのだ。


(なるほど、そうきたか。俺と十回付き合う。食事やデートに、十回だけ……)


 ハンドルに体を預け、慧一は思案する。

 成功したのはいいが、妙な気持ちだった。期限付きでの付き合いなど、かつて経験が無い。なんというクールな関係だろう。


(峰子……面白い子だ)


 画一的な考えでは理解できない。予測不可能な思考が実に面白い。

 自然に笑みが零れていた。


(それにしても、キスぐらいしたかったぜ)


 慧一がじっと見つめて迫れば、たいていの女性は唇ぐらい許してくれる。

 それなのに、これまでの実績など、まるであてにならないこの状況。


(強引にしちまえば蕩けてくれるかも……キスは慣れてるし……だけど)


 無理強いして嫌われては元も子もない。


(男に興味の無い女か……どうすりゃいいんだ)


 あれこれ考えるが、徒労に終わった。何の妙案も浮かばない。

 相手が峰子では仕方ないのだ。


「くそ、今夜はあきらめるか」

「あのう、滝口さん」


 ため息をつく慧一を、峰子が背後から呼んだ。


「ああ、今出すよ。遅くなっちまったな」


 出発の催促かと思い、車を動かそうとした。寄り道して、ずいぶん時間が過ぎてしまった。


「いえ、あの……眼鏡を返してください」

「眼鏡?」


 そういえばさっき、峰子の眼鏡を外してシャツの胸ポケットに入れたのだ。
 慧一は返そうと思って後ろを向く。


「おっと……」


 振り向いたところに峰子の顔があり、驚いた。峰子もびっくりしている。

 鼻先が触れるぐらいの至近距離だ。


「すっ、すみません」

「いや、俺も悪かった……」


 峰子が恥ずかしそうに俯くので、慧一もつられて顔を横に向けてしまった。


 どうにも調子が狂う。

 やっぱりこのままではまずいと、慧一は焦燥感を募らせる。

 これじゃ百年かけても、手すら握れない。


 慧一は眼鏡を渡そうとした手を、すっと引っ込めた。峰子は眼鏡を受け取り損ねて空を掴み、慧一の顔に再び目を当てる。


「早速、使わせてもらうよ」

「え?」

「十回のうち、一回目を」


 慧一の言葉を飲み込めない峰子。
 だが、彼女はすぐに先ほどの『契約』を思い出す。慧一と十回付き合うという約束である。


「キスしてくれ」


 慧一は、ほとんどあきらめ気分だった。
 言ったとたん、彼は峰子から目を逸らした。我ながら情けないと思うが、それが精一杯である。

 好きな子には傲慢でドスケベと豪語しながら、いざとなると意気地がない。

 これじゃ、どうにもならない――


「はい」


 かなりの間を開けた後、小さな声で返事があった。

 慧一は聞き間違いだと思い、


「何?」


 と、もう一度言ってくれるよう促した。


「はい、キスします」

「……」


 それがOKという意味だと慧一はすぐに分からず、妙な目で峰子を見やる。

 すると彼女は、ぎこちない手つきで慧一の顎を両手の平で支えるようにし、唇を寄せてきた。

 なぜか慧一は怯んだ。

 キスさせてくれではなく、キスしてくれと頼んだのを、困惑しながら思い出す。


 峰子の柔らかい感触が唇に触れた。

 それはやけに丁寧に押し付けられ、数秒、そのまま動かなかった。

 芳香が伝わってくる。女の匂いも。

 慧一は目を閉じて、痺れたように、されるがままになった。

 峰子はやがて、ゆっくりと唇を離す。

 二人は目を合わせたが、お互い素早く逸らすと体を引いて、それぞれの座席におさまった。


 初めて体験を済ませた少年のように、慧一は真っ赤になった。

 言葉が出てこない。

 鼓動が恐ろしく速い。


「ごめんなさい。私、下手ですよね」


 峰子がそんなことを後ろで呟く。


(下手だって?)


 慧一は衝撃から立ち直れず、奪われた唇を震わせる。


(この子は初心うぶを通り越して、全くのガキだ。何てキスだよ……!)


 蕩かすどころか、とろとろに蕩かされた。

 そんな自分が忌々しく、そしてどうしようもない悦びに、慧一は目が回りそうだった。


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