モース10

藤谷 郁

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調査報告

 月曜日の朝。

 慧一は洗面所で髭を剃ると、鏡に映る二十八歳の男をぼんやりと眺めた。

 ずいぶん疲れた顔をしている。


(この俺が、あんな幼い唇に参ってしまうとは)


 昨夜はまんじりともせず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。



 顔を洗い、台所に移動して食卓についた。

 朝食をとりながら、昨日の長かった一日を思い出す。

 図書館で伊上京子と出会い、同人誌のイベントで三原峰子を捕まえ、三人でトラットリアで食事した。

 それから京子を家まで送り、峰子を送る途中、コンビニの駐車場で話をしたのだ。

 そして……

 十回付き合うという『契約』を交わした。


 慧一はここまで思い出して箸を止める。

 箸先からぽろりと沢庵が落ちた。

 向かいに座る父親が、朝から惚けている息子を訝しそうに見てくる。


(それから、俺はあの子にキスをしてくれと頼んだ。十回のうち一回を使わせてくれと。ダメ元だったのに、峰子のやつ、本当に……)


 感触がリアルに蘇り、慧一はそれを打ち消すように、勢いよく白飯をかき込んだ。


「おいおい、大丈夫か」


 父親が心配そうに覗き込み、ごほごほとむせる息子にお茶を淹れてやる。


「どうしたんだ、お前らしくもない」

「大丈夫、何でもない」


 慧一はお茶を一口飲んで椅子を立ち、逃げるように台所を出た。


(落ち着け、俺。どうってことないだろ)


 そわそわする自分に、何度も言い聞かせる。

 歯を磨いて髪を整え、服装をチェックしてから、いつものように出勤した。


◇ ◇ ◇


 晴れ上がった夏空に、入道雲が輝いている。

 駐車場から工場への道を、慧一は物思いに耽りながら歩いた。

 その肩を叩く者があった。このきっちりとした叩き方は泉真介だ。

 慧一は振り向きもせず、「よお」と、ぶっきら棒に応える。


「どうした。朝から下向いて歩くなんて、お前らしくもない」


(お前らしくもない……か)


 慧一はふと、笑みを浮かべた。

 顔を上げて振り向くと、友人がいつもの格好で立っている。

 涼しげなブルーのシャツ。
 襟のボタンをきちんと留めて、折り目のまっすぐなグレーのスラックスを穿いている。

 後ろに流した短い黒髪といい、会社員の見本のような姿だ。

 泉真介は外見どおり生真面目な男だが、顔立ちは決して悪くない。

 切れ長の目を、本人はきつい印象を与えると気にしているが、そうでもない。流し目でも覚えれば、余裕で女を口説けるんじゃないのと、慧一は想像する。
 そんなことを言えば怒るので、口にしないが。

 しかし実際のところ、真介はモテない。

 慧一の知る限り、彼は大学時代に恋人に振られて以来、女性と縁のない生活を送っている。

 更衣室で作業服に着替えながら、慧一は真介を観察した。

 峰子には、『モースの作者が誰なのか、真介はまだ知らない。だが、近いうちに話すつもりだ』と告げてある。

 彼女は、真介がモースを見て怒っていると知り、怯えた様子だった。


(ともあれ、そろそろ話すのが筋だな)


 だが、慧一の心の底に、迷いがある。


「何だ、じろじろ見て」

「や、別にい」


 とぼける慧一を、今度は真介がまじまじと眺め回してきた。

 ピンクのポロシャツにベージュのチノパン。女物のような色合いを、慧一は逆に男っぽくスポーティに着こなしている。

 俺が真似をしたらきっと、いや絶対にアンバランスになる。似合わない……

 真介はそんなことを思い、目を伏せた。


「なあ、真介」


 作業服に着替え終わり、慧一は口を切る。


「うん?」

「わかったぞ、例の本」


 真介の顔つきがあからさまに変わる。やはりずっと気にしていたのだ。


「誰のものか分かったのか? 誰が書いたのかも……この工場の人間か?」

「まあ、慌てるなよ」


 えらい喰い付き方に、慧一は大丈夫かなと不安になる。やはり、仕事の前に話すのは、やめたほうがよさそうだ。

 二人は更衣室を出て、休憩室に向かった。朝礼までに、まだ時間がある。


「今夜七時にロマンで待ってる。落ち着いて話したいからな」


 いつになく慎重な慧一に、真介ははやる気持ちをおさめた。


「そ、そうか、分かった。七時だな」

「遅れるなよ」

「お前じゃあるまいし……あっ」


 真介が足を止めた。

 休憩室から制服姿の女性が出てきたので、彼は反応したのだ。

 慧一もそのほうを見、真介よりさらに強く反応する。

 三原峰子だ。

 いつものように黒髪をお下げにし、眼鏡をかけて、白いブラウスのボタンをきっちりと留めている。薄化粧の顔を夏の日差しに向け、何か呟いた。

 まぶしい――

 と、あの唇が動いたように感じて、慧一はどきどきする。


 二人が歩いて行くと、彼女はこちらを向いた。慧一、そして真介だと気付いたとたん、微かに顔を強張らせた。


「やあ! 三原君、おはよう」


 真介が片手を上げ、爽やかなスポーツマンのような挨拶をした。
 声がひっくり返っている。


「お、おはようございますっ」


 峰子は慌てて頭を下げた。かなり気まずそうなのが慧一には分かるが、真介は無頓着だ。


「今日も暑いね」

「はい、本当にいい天気で。本当に暑いですね」


 ぎこちなく微笑む峰子を、慧一はちらりと見やる。

 昨夜はよく眠れたのか、それとも若さのためか、彼女の肌はすっきりとして艶がある。

 慧一は自分の頬を無意識に撫でた。
 こっちは珍しく荒れている。

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