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調査報告
1
月曜日の朝。
慧一は洗面所で髭を剃ると、鏡に映る二十八歳の男をぼんやりと眺めた。
ずいぶん疲れた顔をしている。
(この俺が、あんな幼い唇に参ってしまうとは)
昨夜はまんじりともせず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
顔を洗い、台所に移動して食卓についた。
朝食をとりながら、昨日の長かった一日を思い出す。
図書館で伊上京子と出会い、同人誌のイベントで三原峰子を捕まえ、三人でトラットリアで食事した。
それから京子を家まで送り、峰子を送る途中、コンビニの駐車場で話をしたのだ。
そして……
十回付き合うという『契約』を交わした。
慧一はここまで思い出して箸を止める。
箸先からぽろりと沢庵が落ちた。
向かいに座る父親が、朝から惚けている息子を訝しそうに見てくる。
(それから、俺はあの子にキスをしてくれと頼んだ。十回のうち一回を使わせてくれと。ダメ元だったのに、峰子のやつ、本当に……)
感触がリアルに蘇り、慧一はそれを打ち消すように、勢いよく白飯をかき込んだ。
「おいおい、大丈夫か」
父親が心配そうに覗き込み、ごほごほとむせる息子にお茶を淹れてやる。
「どうしたんだ、お前らしくもない」
「大丈夫、何でもない」
慧一はお茶を一口飲んで椅子を立ち、逃げるように台所を出た。
(落ち着け、俺。どうってことないだろ)
そわそわする自分に、何度も言い聞かせる。
歯を磨いて髪を整え、服装をチェックしてから、いつものように出勤した。
◇ ◇ ◇
晴れ上がった夏空に、入道雲が輝いている。
駐車場から工場への道を、慧一は物思いに耽りながら歩いた。
その肩を叩く者があった。このきっちりとした叩き方は泉真介だ。
慧一は振り向きもせず、「よお」と、ぶっきら棒に応える。
「どうした。朝から下向いて歩くなんて、お前らしくもない」
(お前らしくもない……か)
慧一はふと、笑みを浮かべた。
顔を上げて振り向くと、友人がいつもの格好で立っている。
涼しげなブルーのシャツ。
襟のボタンをきちんと留めて、折り目のまっすぐなグレーのスラックスを穿いている。
後ろに流した短い黒髪といい、会社員の見本のような姿だ。
泉真介は外見どおり生真面目な男だが、顔立ちは決して悪くない。
切れ長の目を、本人はきつい印象を与えると気にしているが、そうでもない。流し目でも覚えれば、余裕で女を口説けるんじゃないのと、慧一は想像する。
そんなことを言えば怒るので、口にしないが。
しかし実際のところ、真介はモテない。
慧一の知る限り、彼は大学時代に恋人に振られて以来、女性と縁のない生活を送っている。
更衣室で作業服に着替えながら、慧一は真介を観察した。
峰子には、『モースの作者が誰なのか、真介はまだ知らない。だが、近いうちに話すつもりだ』と告げてある。
彼女は、真介がモースを見て怒っていると知り、怯えた様子だった。
(ともあれ、そろそろ話すのが筋だな)
だが、慧一の心の底に、迷いがある。
「何だ、じろじろ見て」
「や、別にい」
とぼける慧一を、今度は真介がまじまじと眺め回してきた。
ピンクのポロシャツにベージュのチノパン。女物のような色合いを、慧一は逆に男っぽくスポーティに着こなしている。
俺が真似をしたらきっと、いや絶対にアンバランスになる。似合わない……
真介はそんなことを思い、目を伏せた。
「なあ、真介」
作業服に着替え終わり、慧一は口を切る。
「うん?」
「わかったぞ、例の本」
真介の顔つきがあからさまに変わる。やはりずっと気にしていたのだ。
「誰のものか分かったのか? 誰が書いたのかも……この工場の人間か?」
「まあ、慌てるなよ」
えらい喰い付き方に、慧一は大丈夫かなと不安になる。やはり、仕事の前に話すのは、やめたほうがよさそうだ。
二人は更衣室を出て、休憩室に向かった。朝礼までに、まだ時間がある。
「今夜七時にロマンで待ってる。落ち着いて話したいからな」
いつになく慎重な慧一に、真介ははやる気持ちをおさめた。
「そ、そうか、分かった。七時だな」
「遅れるなよ」
「お前じゃあるまいし……あっ」
真介が足を止めた。
休憩室から制服姿の女性が出てきたので、彼は反応したのだ。
慧一もそのほうを見、真介よりさらに強く反応する。
三原峰子だ。
いつものように黒髪をお下げにし、眼鏡をかけて、白いブラウスのボタンをきっちりと留めている。薄化粧の顔を夏の日差しに向け、何か呟いた。
まぶしい――
と、あの唇が動いたように感じて、慧一はどきどきする。
二人が歩いて行くと、彼女はこちらを向いた。慧一、そして真介だと気付いたとたん、微かに顔を強張らせた。
「やあ! 三原君、おはよう」
真介が片手を上げ、爽やかなスポーツマンのような挨拶をした。
声がひっくり返っている。
「お、おはようございますっ」
峰子は慌てて頭を下げた。かなり気まずそうなのが慧一には分かるが、真介は無頓着だ。
「今日も暑いね」
「はい、本当にいい天気で。本当に暑いですね」
ぎこちなく微笑む峰子を、慧一はちらりと見やる。
昨夜はよく眠れたのか、それとも若さのためか、彼女の肌はすっきりとして艶がある。
慧一は自分の頬を無意識に撫でた。
こっちは珍しく荒れている。
慧一は洗面所で髭を剃ると、鏡に映る二十八歳の男をぼんやりと眺めた。
ずいぶん疲れた顔をしている。
(この俺が、あんな幼い唇に参ってしまうとは)
昨夜はまんじりともせず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
顔を洗い、台所に移動して食卓についた。
朝食をとりながら、昨日の長かった一日を思い出す。
図書館で伊上京子と出会い、同人誌のイベントで三原峰子を捕まえ、三人でトラットリアで食事した。
それから京子を家まで送り、峰子を送る途中、コンビニの駐車場で話をしたのだ。
そして……
十回付き合うという『契約』を交わした。
慧一はここまで思い出して箸を止める。
箸先からぽろりと沢庵が落ちた。
向かいに座る父親が、朝から惚けている息子を訝しそうに見てくる。
(それから、俺はあの子にキスをしてくれと頼んだ。十回のうち一回を使わせてくれと。ダメ元だったのに、峰子のやつ、本当に……)
感触がリアルに蘇り、慧一はそれを打ち消すように、勢いよく白飯をかき込んだ。
「おいおい、大丈夫か」
父親が心配そうに覗き込み、ごほごほとむせる息子にお茶を淹れてやる。
「どうしたんだ、お前らしくもない」
「大丈夫、何でもない」
慧一はお茶を一口飲んで椅子を立ち、逃げるように台所を出た。
(落ち着け、俺。どうってことないだろ)
そわそわする自分に、何度も言い聞かせる。
歯を磨いて髪を整え、服装をチェックしてから、いつものように出勤した。
◇ ◇ ◇
晴れ上がった夏空に、入道雲が輝いている。
駐車場から工場への道を、慧一は物思いに耽りながら歩いた。
その肩を叩く者があった。このきっちりとした叩き方は泉真介だ。
慧一は振り向きもせず、「よお」と、ぶっきら棒に応える。
「どうした。朝から下向いて歩くなんて、お前らしくもない」
(お前らしくもない……か)
慧一はふと、笑みを浮かべた。
顔を上げて振り向くと、友人がいつもの格好で立っている。
涼しげなブルーのシャツ。
襟のボタンをきちんと留めて、折り目のまっすぐなグレーのスラックスを穿いている。
後ろに流した短い黒髪といい、会社員の見本のような姿だ。
泉真介は外見どおり生真面目な男だが、顔立ちは決して悪くない。
切れ長の目を、本人はきつい印象を与えると気にしているが、そうでもない。流し目でも覚えれば、余裕で女を口説けるんじゃないのと、慧一は想像する。
そんなことを言えば怒るので、口にしないが。
しかし実際のところ、真介はモテない。
慧一の知る限り、彼は大学時代に恋人に振られて以来、女性と縁のない生活を送っている。
更衣室で作業服に着替えながら、慧一は真介を観察した。
峰子には、『モースの作者が誰なのか、真介はまだ知らない。だが、近いうちに話すつもりだ』と告げてある。
彼女は、真介がモースを見て怒っていると知り、怯えた様子だった。
(ともあれ、そろそろ話すのが筋だな)
だが、慧一の心の底に、迷いがある。
「何だ、じろじろ見て」
「や、別にい」
とぼける慧一を、今度は真介がまじまじと眺め回してきた。
ピンクのポロシャツにベージュのチノパン。女物のような色合いを、慧一は逆に男っぽくスポーティに着こなしている。
俺が真似をしたらきっと、いや絶対にアンバランスになる。似合わない……
真介はそんなことを思い、目を伏せた。
「なあ、真介」
作業服に着替え終わり、慧一は口を切る。
「うん?」
「わかったぞ、例の本」
真介の顔つきがあからさまに変わる。やはりずっと気にしていたのだ。
「誰のものか分かったのか? 誰が書いたのかも……この工場の人間か?」
「まあ、慌てるなよ」
えらい喰い付き方に、慧一は大丈夫かなと不安になる。やはり、仕事の前に話すのは、やめたほうがよさそうだ。
二人は更衣室を出て、休憩室に向かった。朝礼までに、まだ時間がある。
「今夜七時にロマンで待ってる。落ち着いて話したいからな」
いつになく慎重な慧一に、真介ははやる気持ちをおさめた。
「そ、そうか、分かった。七時だな」
「遅れるなよ」
「お前じゃあるまいし……あっ」
真介が足を止めた。
休憩室から制服姿の女性が出てきたので、彼は反応したのだ。
慧一もそのほうを見、真介よりさらに強く反応する。
三原峰子だ。
いつものように黒髪をお下げにし、眼鏡をかけて、白いブラウスのボタンをきっちりと留めている。薄化粧の顔を夏の日差しに向け、何か呟いた。
まぶしい――
と、あの唇が動いたように感じて、慧一はどきどきする。
二人が歩いて行くと、彼女はこちらを向いた。慧一、そして真介だと気付いたとたん、微かに顔を強張らせた。
「やあ! 三原君、おはよう」
真介が片手を上げ、爽やかなスポーツマンのような挨拶をした。
声がひっくり返っている。
「お、おはようございますっ」
峰子は慌てて頭を下げた。かなり気まずそうなのが慧一には分かるが、真介は無頓着だ。
「今日も暑いね」
「はい、本当にいい天気で。本当に暑いですね」
ぎこちなく微笑む峰子を、慧一はちらりと見やる。
昨夜はよく眠れたのか、それとも若さのためか、彼女の肌はすっきりとして艶がある。
慧一は自分の頬を無意識に撫でた。
こっちは珍しく荒れている。
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