モース10

藤谷 郁

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調査報告

 真介と短く言葉を交わし、立ち去ろうとした峰子は、黙ったままの慧一をちらりと見上げた。

 それは一瞬のことだが、慧一は反射的に横を向き、怒ったように口を引き結んだ。

 峰子は会釈をすると、足早に歩いていった。


 慧一はパンプスの音を耳にしつつ、彼女に何も悟られなかっただろうかと心配した。

 まだどきどきしている。

 認めたくはないが、体は正直だ。


「いいよな、あの子。清潔な感じがして、今時珍しいよな」


 峰子の後姿をいつまでも見送る真介に、慧一は複雑な思いだった。

 全部話していいものかどうか。

 こんなに心も頭も乱される経験はかつて無い。

 恋という感情は、実にやっかいでしんどいものだと、慧一は今頃になって学ぶのだった。


 ◇ ◇ ◇


 喫茶ロマンの片隅で、慧一はスマートフォンをいじりながら、真介を待っている。

 携帯に女の連絡先を登録したのはいつ以来だろう。

 今現在、アドレス帳に並ぶのは、女と言っても色気のない関係ばかりだ。母親と、弟の嫁、あとは会社関係の人間。

 俺も寂しい男だなあと、慧一はつくづく思う。

 女性だけでなく、男の友人も決して多くない。会えばワイワイやるような間柄でも、連絡先が分からない相手が殆どだった。

 昨夜、峰子の連絡先を登録した。

 彼女の端末にも、慧一のそれが同じく登録された。彼女のアドレスに「他の男」の名前があるのかどうか、気になった。

 彼女の場合、まず有り得ないだろうが、万が一ということもある。


 慧一は息をつくと、スマートフォンをポケットに仕舞う。
 約束の七時まで、あと十分。

 テーブルの上には例の本、モース4が置いてある。


(真介のやつ、どんな顔をするのやら)


 同人誌の作者名を知り、驚愕とする友人を想像した。


(あいつは峰子をまるで聖女のように見ている。聖女は聖女だが、かなり困ったタイプだぞ)


 慧一はふと考えた。考えたというより、それは妄想に近い。

 キスをしてくれと言ったら、キスをくれた。

 と言うことは、もしもエッチしてくれと言ったらどうするのか。


『エッチしてくれ』

『はい、します』


(俺にのしかかる峰子。奪われる俺……って、待てよ)


「俺が奪われてどうするんだ」


 慧一は苦笑した。いくらなんでも馬鹿げている。


「あるわけねえだろ、そんなこと」


 飛躍した想像に独り笑っていると、入り口のドアが開いて真介が現れた。

 バイトのおばちゃんにテーブルを教えられ、慧一のほうへ歩いてくる。緊張の面持ちで、だがスタスタと、彼らしい落ち着いた足取りだ。


「待ったか?」

「ううん、ちっとも」


 女のような声音で返す。


「……あのな」


 慧一のいつもの冗談口に呆れながら、真介はホッとした顔になる。朝、元気がないように見えたので、心配したのだろう。

 真介は椅子に座るとおばちゃんにブレンドを頼んだ。それから、厳しい目つきになって慧一と向き合う。


「それで? どうだったんだ、これは」


 テーブルの同人誌を指で叩き、調査報告を催促する。


「作者が誰か分かったんだろ?」

「うん」

「工場の人間か? 誰だったんだ」

「うん」


 頷くばかりの慧一に、真介は焦れた。

「煮えきらんなあ、早く言えよ」

「驚くなよ」


 慧一はカップを置くと、ゆっくり顔を上げ、前のめりの真介に忠告する。


「ちゃんと俺の言うことを信じろよ。怒るなよ」


 妙に前置きする慧一に、真介は変な顔をしたが、


「いいぞ、さあ言ってくれ」


 さらに前傾姿勢になり、身構えた。


「三原峰子だ」

「……」


 真介は無反応だ。

 頭の中で、今慧一が言った名前と、目の前にある “いかがわしい同人誌” を、懸命に結び付けようとしているのかもしれない。

 それにしても、反応がなさすぎる。


「真介?」


 慧一は心配になってきた。


「大丈夫か? おい」


 慧一は、微動だにしない友人の、テーブル上で握り締められた拳を掴んだ。


「ぎゃっ!」


 真介は叫ぶと、慌てて慧一の手を払う。我に返ったようだ。

 とりあえず慧一は安堵した。


「ショックで気を失ったかと思ったよ」

「本当なのか!?」


 やっと事態を飲み込めたらしい。


「ああ、本当だ」

「そんな……」


 真介は同人誌"モース"を、呆然と見下ろす。


「俺と慧一の、せ……性交場面を描いたのが、あの、三原峰子さん」

「おいおい、シンとケイだよ。変なこと言うな」


 慧一は本を取り上げると、ぱらぱらとめくった。


「ここを見ろ」


 挿絵のページを開き、隅を指差す。


「ここに小さくサインしてあるだろ。よく見ると他のページにも、この文字がある。これが彼女のペンネームだよ」


 真介は目を凝らし、『mie』と、控えめに綴られた文字に見入る。


「みー?」

「読者からはミイさんって呼ばれてるらしいよ。峰子のミイだ」


 真介は運ばれてきたブレンドに、震える手でクリームを入れる。スプーンでカチャカチャとかき混ぜ、そっと口に含んだ。

 ごくりと飲み込むと、多少落ち着いたのか、ふうっと息をついた。


「……どうやって調べたんだ。納得するよう聞かせてくれ」


 慧一は頷く。朝からあれこれと考え、全て話すことに決めていた。

 アンフェアなのは、結局自分を窮屈にする。また、自分らしくもないと思い至ったのだ。


 風通しをよくしてから、峰子との恋愛を進めていきたい。

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