モース10

藤谷 郁

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峰子の望み

 海沿いのホテルまでの距離は、車で二十分ほど。

 慧一は信号に引っ掛かるたび、峰子のほうを何気なく見やった。

 やはり後部席と助手席では存在感がまったく違う。とにかく距離が近い。すぐそばに彼女の横顔、そして身体がある。

 女性を隣に乗せるのはもちろん初めてではない。それどころか、今までの相手なら気軽に手を握ったり、調子に乗って肩を抱いたりした。

 しかし峰子に対しては何気なく盗み見るのがせいぜいで、満足に話すらできない。

 堅苦しくてしょうがない。

 慧一にはこの至近距離が、嬉しいと同時に窮屈だった。峰子のほうも緊張しているのか、視線がぶつかると曖昧に笑い、すぐに前を向いてしまう。


(困ったもんだ)


 ただ慧一には、峰子のはにかむ表情が新鮮だった。これまで、困惑の顔ばかり見てきたから。


(うん、峰子はどんな表情でもかわいい)


 好きな顔立ちというのが、人それぞれにある。

 朝から晩まで眺めても飽きることがない。うっとりと見惚れ、骨抜きにされる、絶妙な目鼻立ちのバランス。

 日暮らしの顔とでも言うのか。慧一にとって、峰子の顔がまさにそれであった。

 美人というタイプではない。可愛いけれど、芸能人とかモデル並みというわけでもないのに、とても不思議な感覚だ。

 顔立ちばかりではない。

 慧一はどちらかというと肉体――特に、バストが豊かな女性と縁があり、今まで付き合ってきた。自分の体格が良いので、バランスが取れている。そう思い込んでいたのだが、関係なかったようだ。

 なぜなら、峰子のさして大きくも無い(と思われる)胸のあたりが気になって仕方がない。なぜか魅力に感じてしまう。


(手に余るような巨乳より、ずっと愛しいぜ……)


 思わず知らず、熱いため息が漏れる。

 峰子が不思議そうな顔でこちらを見た。スケベ面をしていたのではと慧一は焦り、不自然に頬を引き締める。

 が、峰子はまだじっと見つめている。めずらしく無遠慮な視線だ。頭の中を覗かれたんじゃないかと、本気で心配になってきた。


「滝口さん、変なことをお訊きしますが」


 突然喋りだした峰子にどきっとする。


「何だ」


 ついぶっきら棒になるが、彼女は気にする様子もない。慧一はこんなタイプだと、認識しているのだろう。


「毎日、髭を剃るのですか」

「髭?」

「はい」


 慧一は顎の辺りを撫ぜてみた。別に剃り残しはない。クリームも付けてあるし、ツルツルしている。


「もちろん。どうして?」

「あの、滝口さんって髭が伸びないような気がしたので……すみません」


 声が小さくなり、彼女は気まずそうに下を向いた。


(髭が伸びない? そりゃあどういう意味だ)


 慧一は首を傾げる。


(伸びるに決まってるだろう、男なんだから。つまり、ホルモン的なイメージか? 俺は女のように髭が伸びない……そう思えると、そういう意味で言ったのか?)


 質問の意図が分かり、持ち前のおふざけ精神がムクムクと持ち上がってきた。


(なんて失礼なやつなんだ!)


 だが峰子はいたって真面目であり、だからこそ生まれるおかしさだ。慧一は呆れながらも、楽しくてしょうがない。


(そうか、俺はそんな風に見えるのか。しかしストレートに口に出すとは……)


 海岸線に沿って大きくカーブする道の先に、ホテルが見えてきた。

 建物の前に広がる砂浜はホテルのプライベートビーチだ。こんな時間になっても海水浴を楽しむ男女が散見される。


(それなら、こっちもお返ししてやろう)


 慧一はにやりとした。


「なあ、峰子」

「はい」

「俺の髭が伸びるかどうか、見たいか」

「えっ?」


 車はホテルの地下駐車場に入った。

 狭い空間を慧一の車は器用に進み、スムーズにバック駐車する。

 慧一はエンジンを切り、そしてハンドルに体をもたせかけて、峰子のほうを向いた。


「明日の朝まで付き合えば、確かめられるぜ」


 峰子はきょとんとした。

 まさに、鳩が豆鉄砲を食らった顔だ。

 ますます楽しくなる慧一だが、楽しすぎて、彼はすっかり忘れている。こういった悪ふざけが原因で女性を怒らせ、何度も振られているという、過去の"実績"を。

 それを思い出したのは、峰子の顔がみるみるうちに紅潮し、困惑の表情へと変化してからだった。


(しまった……!)


 慧一は慌てた。

 よりによって相手は峰子だ。この手の冗談が通じるはずもない。


「待て、今のはナシ。ちょっとからかっただけだろ、まともに取るなよ」


 自分でも滑稽に思えるぐらい、大げさに取り繕った。

 だが峰子は赤くなった顔を、さっと背けてしまう。

 慧一は顔色を無くした。

 峰子は沈黙し、耳たぶまで紅く染め、俯いたままバッグの留め金をいじっている。それは慧一にとってほとんど絶望的な、拒絶のポーズだった。


(あれほど焦るなと念じてきたのに、俺はどうしようもないバカヤロウだ!)


 しくじった。これで何もかも台無しである。

 心の底から悔やむが、もう遅い。無言の気まずさが、車の狭い空間を支配していた。


 慧一が唇を噛みしめて途方に暮れていると、峰子が不意に顔を上げ、前を向く。


 もう帰ります――


 そんなことを言われるのを、慧一は覚悟した。


 しょうがない。この先どう挽回するか、もう一度作戦を練り直そう。

 慧一はあきらめ気分でエンジンをかけようとする。

 だがその瞬間、峰子が口を切った。


「私も、それを望んでいました。でも、ごめんなさい。いざとなると、すごく恥ずかしくて……でも決めました。滝口さん」

「……?」


 慧一は返事も出来ない。
 どういう意味なのかまったく理解できず、ただ峰子を見つめる。


「教えてください、男の人を」

「……」


 地下駐車場には海水浴客専用の通路がある。
 水着姿の男女が何組か、慧一の視界をよぎっていく。若いカップル達だ。

 今、峰子が口にしたのは、つまり、あのカップル達が今夜いたそうとする、それと同じ行為を指しているのか。


 ――教えてください、男の人を。


 考えがまとまらないまま、慧一は車を降りた。恥ずかしそうに俯き、頬を染める峰子とともに。

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