37 / 82
峰子の望み
2
慧一はフロントでチェックインを済ませ、それから峰子を伴いエレベーターに乗った。これから、九階の和食レストランへと向かうのだ。
ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。
雄大な光景を、二人は無言で見つめた。
慧一には、まるで現実感が無かった。
峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。
(この子は一体、何を考えてるんだ?)
彼女の言葉に度肝を抜かれた。
現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。
ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。
暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。
慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。
(どういうつもりなんだ)
エレベーターが九階に到着し、扉が開く。
レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。
通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。
その中に立つ男女も、押し黙っている。
これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。
慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。
予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。
慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。
地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。
男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。
「今のイケメン、エッチぽくね?」
静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。
慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。
エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。
「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」
慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。
「す、すみません」
峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。
それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。
「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」
夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。
慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。
惚れた女がすぐ目の前にいる。
ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。
(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)
慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。
心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。
(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)
峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。
「やっと調子がついてきたぞ」
慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。
峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。
「今夜のことは家の人に言ってある?」
峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。
「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」
「そうか」
慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。
「何でも頼むといいよ」
イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。
このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。
とにかく新鮮で、旨いのだ。
ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。
「私、炭酸水にします」
峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。
「アルコールは苦手?」
「はい。あの……ハタチになったばかりなので」
「へえ、誕生日はいつ?」
「七月二十九日です」
「本当に最近だな。そうか……七月ね」
店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。
(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)
慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。
責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。
飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。
「何に乾杯するんだ?」
慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。
「そうですね……」
峰子は少し考えてから、明るく答えた。
「初めてのデートに、乾杯です」
「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」
「え?」
「なんでもない。乾杯だ」
様々な意味を込めたのだが、今はいい。
慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。
ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。
雄大な光景を、二人は無言で見つめた。
慧一には、まるで現実感が無かった。
峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。
(この子は一体、何を考えてるんだ?)
彼女の言葉に度肝を抜かれた。
現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。
ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。
暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。
慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。
(どういうつもりなんだ)
エレベーターが九階に到着し、扉が開く。
レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。
通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。
その中に立つ男女も、押し黙っている。
これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。
慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。
予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。
慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。
地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。
男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。
「今のイケメン、エッチぽくね?」
静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。
慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。
エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。
「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」
慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。
「す、すみません」
峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。
それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。
「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」
夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。
慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。
惚れた女がすぐ目の前にいる。
ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。
(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)
慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。
心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。
(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)
峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。
「やっと調子がついてきたぞ」
慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。
峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。
「今夜のことは家の人に言ってある?」
峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。
「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」
「そうか」
慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。
「何でも頼むといいよ」
イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。
このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。
とにかく新鮮で、旨いのだ。
ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。
「私、炭酸水にします」
峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。
「アルコールは苦手?」
「はい。あの……ハタチになったばかりなので」
「へえ、誕生日はいつ?」
「七月二十九日です」
「本当に最近だな。そうか……七月ね」
店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。
(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)
慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。
責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。
飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。
「何に乾杯するんだ?」
慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。
「そうですね……」
峰子は少し考えてから、明るく答えた。
「初めてのデートに、乾杯です」
「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」
「え?」
「なんでもない。乾杯だ」
様々な意味を込めたのだが、今はいい。
慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。
あなたにおすすめの小説
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
虐げられた令嬢は、耐える必要がなくなりました
天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私アニカは、妹と違い婚約者がいなかった。
妹レモノは侯爵令息との婚約が決まり、私を見下すようになる。
その後……私はレモノの嘘によって、家族から虐げられていた。
家族の命令で外に出ることとなり、私は公爵令息のジェイドと偶然出会う。
ジェイドは私を心配して、守るから耐える必要はないと言ってくれる。
耐える必要がなくなった私は、家族に反撃します。
【完結】小公爵様、死亡フラグが立っています。
曽根原ツタ
恋愛
ロベリア・アヴリーヌは前世で日本人だった。恋愛小説『瑠璃色の妃』の世界に転生し、物語には登場しない公爵令嬢として二度目の人生を生きていた。
ロベリアには、小説のエピソードの中で気がかりな点があった。それは、主人公ナターシャの幼馴染で、尚且つ彼女に恋心を寄せる当て馬ポジションのユーリ・ローズブレイドについて。彼は、物語の途中でナターシャの双子の妹に刺殺されるという数奇な運命を迎える。その未来を知るのは──ロベリアただひとり。
お人好しの彼女は、虐げられ主人公も、殺害される当て馬も、ざまぁ予定の悪役も全員救うため、一念発起する。
「ユーリ様。あなたにはナターシャに──愛の告白をしていただきますわ!」
「…………は?」
弾丸令嬢のストーリー改変が始まる──。
-----------------
小説家になろう様でも更新しております。
(完結保証)
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
【完結】見えてますよ!
ユユ
恋愛
“何故”
私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。
美少女でもなければ醜くもなく。
優秀でもなければ出来損ないでもなく。
高貴でも無ければ下位貴族でもない。
富豪でなければ貧乏でもない。
中の中。
自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。
唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。
そしてあの言葉が聞こえてくる。
見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。
私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。
ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。
★注意★
・閑話にはR18要素を含みます。
読まなくても大丈夫です。
・作り話です。
・合わない方はご退出願います。
・完結しています。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長(吉本)
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
雄一郎 ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師(川木えみ)
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。