モース10

藤谷 郁

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峰子の望み

 慧一はフロントでチェックインを済ませ、それから峰子を伴いエレベーターに乗った。これから、九階の和食レストランへと向かうのだ。

 ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。

 雄大な光景を、二人は無言で見つめた。


 慧一には、まるで現実感が無かった。

 峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。


(この子は一体、何を考えてるんだ?)


 彼女の言葉に度肝を抜かれた。
 現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。

 ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。

 暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。

 慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。


(どういうつもりなんだ)


 エレベーターが九階に到着し、扉が開く。

 レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。

 通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。

 その中に立つ男女も、押し黙っている。

 これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。

 慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。

 予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。

 慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。

 地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。

 男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。


「今のイケメン、エッチぽくね?」


 静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。

 慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。

 エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。


「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」


 慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。


「す、すみません」


 峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。

 それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。


「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」


 夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。

 慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。

 惚れた女がすぐ目の前にいる。

 ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。


(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)


 慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。

 心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。


(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)


 峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。





「やっと調子がついてきたぞ」


 慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。

 峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。


「今夜のことは家の人に言ってある?」


 峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。


「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」

「そうか」


 慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。


「何でも頼むといいよ」


 イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。

 このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。

 とにかく新鮮で、旨いのだ。

 ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。


「私、炭酸水にします」


 峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。


「アルコールは苦手?」

「はい。あの……ハタチになったばかりなので」

「へえ、誕生日はいつ?」

「七月二十九日です」

「本当に最近だな。そうか……七月ね」


 店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。


(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)


 慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。

 責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。

 飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。


「何に乾杯するんだ?」


 慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。


「そうですね……」


 峰子は少し考えてから、明るく答えた。


「初めてのデートに、乾杯です」

「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」

「え?」

「なんでもない。乾杯だ」


 様々な意味を込めたのだが、今はいい。

 慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。

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