モース10

藤谷 郁

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行かないで!

「誰なんでしょうね。泉さんの大切な人って」

「う……ん。分からん、俺にも」


 慧一は首を傾げる。


(大切な人? 一体誰のことだ)


 一瞬、峰子のことかと思ったが、すぐに打ち消す。モースの作者が彼女だと知り、真介はあきらめたはずだ。


(しかし、他に誰がいる?)


 分からない。懸命に考えるが、見当も付かなかった。


 慧一は再び歩き出した。 峰子と手を繋ぎ、彼女の歩調に合わせてゆっくりと進む。


 真介は聖子と縁を切った。

 だが、最初からそのつもりだったとは考えにくい。

 ロマンに入ってきた時の、真介の爽やかな笑顔。そして、女性とデートするみたいな、あらたまった服装。

 やはり、初めは前向きだったのでは?


(俺に否定されて考え直したのか。 あるいは、峰子がすぐそばにいるのを意識して……)


 慧一はふと、峰子を見やった。


「峰子はどう思った、真介のこと」

「えっ、私……ですか?」

「うん。聖子とのやり取りを聞いて、どう思った」


 峰子は顎に手をやり、真面目に考える。


「そうですね。あの……泉さんはすごく、懐の深い人だと思いました」

「懐が深い?」

「はい。泉さんは、あの女性を恨んでいないと言ったのです」

 峰子は、真介の言葉を慧一に教えた。


 ――もう昔のことだよ。それに、確かに俺は君に振られてショックだったけど、君のことを本当に好きだったから、恨んじゃいない。


「そうか……」


 慧一は納得する。


(真介はお人好しだ。いや、峰子の言うように懐が深いのだ。清廉潔白な性格でありながら、他人に甘く、許してしまうところがある。育ちが良いと言うか、本当にもどかしい男なんだ)


「素敵な男性ひとですね、泉さんって」

「……」


 真介がいい男なのは、慧一も知っている。

 だが、峰子がそれを口にするのは、面白いものではなかった。

 しかも、うっとりとした口調で――


 慧一は散策路が途切れたところで立ち止まり、峰子を見下ろす。


「慧一さん?」


 彼女の素直な眼差し。純粋で残酷な、きれいな瞳。


「こんなに君に惚れてる俺の前で、他の男を褒めないでくれよ」


 慧一はありのままの気持ちを伝える。自分のものとは思えない、寂しげな声音だった。

 峰子は「あっ」と小さく叫び、気まずそうに俯く。


「ごめんなさい、私……」


 海風に揺れる彼女の髪を、慧一はそっと撫でた。そして繋いだ手を握り直すと、砂浜へと誘う。

 太陽に焼けた砂は熱く、その上、柔らかすぎて歩きにくい。

 峰子がバランスを崩し、転びそうになった。


「危なっかしいな。ほら、おんぶしてやるよ」


 慧一は砂の上にしゃがみ、背中を峰子に差し出す。


「だっ、大丈夫です。自分で歩きますから」


 峰子はばたばたと手を振る。


「誰も見てないよ。来い、峰子」

「でも……」

「波打ち際までほんの少しだ。早くしないと肩車するぞ!」

「分かりましたっ」


 この人ならやりかねない――
 肩車よりましだと思ったのか、峰子は慌てて慧一の背中に抱きついた。


「よっしゃ、行くぞ!」


 慧一はさっと立ち上がり、物凄い勢いで走り出した。


「きゃあああっ……」


 激しく揺れる背中で、峰子は切れ切れの悲鳴を上げ、振り落とされないよう、しっかりとしがみついた。



 波打ち際に辿り着くと、慧一は峰子を背中から下ろした。全力疾走した反動か、力尽きたかのように砂に膝をつく。


「急に走ったから、クラクラする……っ」


 仰向けに引っくり返ると、動けなくなった。まるで、海岸に打ち上げられたクジラのよう。


「うふっ……あははは」


 峰子はとうとう笑い出した。笑いすぎてお腹が痛くなり、ますます笑い、また痛くなる。


「いたた……、筋肉痛がまだ治ってないみたい……」


 波の音しか聞こえない小さな砂浜で、峰子は夏の海を眺めた。

 水平線がまぶしい。

 海面に陽光が反射し、キラキラと輝いている。


「きれい……」


 傍らで寝そべる男を、ちらりと見やった。

 彼は瞼を閉じ、唇を微かに開き、無防備な姿を太陽の下にさらしている。

 うっすらと汗をかいた額と頬と、そして顎から鎖骨までの線を、峰子の目は遠慮がちに、だがじっくりとなぞった。


 なんて人なの――


 八歳も年上なのに、まるでやんちゃな男の子だ。わがままで、強引で、突拍子も無いことをする。

 こんな立派な外見をした大人の男性が、どうしてあんな、子どもみたいな真似をするのだろう。

 不思議を通り越して、峰子は可笑しくなる。慧一のそばにいると、なぜだかとても楽しくて、笑顔になってしまう。

 ドキドキする胸を押さえた。


(楽しくて……愛しい)


 峰子がこれまで、誰にも抱いたことのない感情だった。

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