モース10

藤谷 郁

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一泊旅行のお誘い

 課長との電話を切り、天井をぼんやり眺めていると、ベッドの上のスマートフォンが鳴った。あまりにも突然なので、必要以上に驚いてしまう。

 急いで手に取ると、峰子からだ。

 慧一は深呼吸をし、顔を引き締めてから応答した。


「もしもし」

『こんばんは。ごめんなさい、私、お風呂に入っていたから』


 可愛い声が聞こえると、慧一の表情は簡単に緩んだ。


「いいよ、急用ってわけじゃないから」

『そうなんですか?』


 峰子は気の抜けた声になる。


(……ひょっとして、例の件だと思ったのかな)


 慧一は、峰子がきちんと考えてくれていると分かり、素直に喜んだ。


「デートのお誘いなんだけど」

『あ、そういえば明日からお休みですね』

「うん。一週間もあるだろ。どこかにゆっくり遊びに行こうぜ」

『えっ、ゆっくり……ですか?』

「うん」


 電話機の向こうで峰子が沈黙する。随分長い沈黙である。


「峰子?」

『はい、分かりました。一泊なら大丈夫だと思います』

「一泊?」

『ええ』


 どうやら、ゆっくりというのを、泊まりで旅行すると解釈したらしい。

 峰子ならではの早とちりである。慧一は “一日ゆっくり” という意味で言ったのに。

 慧一は口を押さえ、笑いたいのを懸命に堪えた。笑ったりすれば、折角のチャンスがふいになってしまう。


『あの……慧一さん?』

「そう、一泊なら大丈夫なんだ。そうか、それはラッキーだ」


 大真面目に応答し、慧一はカレンダーを確かめた。


「いつがいいかな。十四日はイベントだから、それ以外の日で、そうだな……十一日にするか?」

『えっと、明後日から一泊ですね。はい、私は大丈夫です』



(よしっ!)


 速攻でカレンダーに印をつけた。


「どこか希望の場所はあるかい」

『そうですね、うーん』


 なかなか答えない。どうやら考え込んでしまったようだ。


「俺が決めようか」

『すみません、私、迷っちゃって』

「本当に、どこでもいい?」

『はい、もちろんです。あの……』


 言葉を探してか、峰子は口ごもる。

 相変わらずの気遣いをもどかしく思うが、同時に愛しくもある。

 慧一は大らかな愛情で彼女を待った。


『私』

「うん」

『慧一さんと一緒なら、どこでも満足です』


 さらりと殺し文句を言う。


(ひょっとしてこの子は、俺の急所を熟知してるんじゃないか)


 慧一は倒れそうになりながら、胸で叫んだ。


(俺を揺さぶるのはやめてくれ!)



 口に出そうになるが、我慢する。それを言ったら彼女はもう必殺技を封印してしまうかもしれない。慧一にとって、それは痛い損失になる。


「そっか、サンキュ」


 本音を隠し、軽く受けておいた。


「それじゃ、朝八時ごろに迎えに行くよ」

『えっ?』

「八時は早いか。九時にする?」

『い、いいえ、八時でも構いません。でも、家の前は……私、表通りに出ていますね』


 慧一はピンときた。この慌てぶりは……


「家族に内緒で行くつもりか」

『だって、言ったら出してもらえません』


 子どものような言い方をする。実際、あの家では彼女は子ども扱いなのだろうが。


「……そうだな」


 慧一は考えた。

 確かに、嫁入り前の娘を男と外泊させるなど、彼女の両親が許しそうにない。


「峰子、それなら……」

『やめるなんて嫌ですよ』

「ん?」

『旅行をやめるなんてっ』


 珍しく強引な彼女にたじろぐが、その意気込みは慧一を感動させた。 彼女の慧一に対する意思が、ひしひしと伝わってくる。


「やめないよ。お母さんに代わってくれ」

『そんなこと!』


 峰子の声が裏返る。だが、ここは譲らない。


「いいから、交代しろ」

『だって』

「早く」

『もう、知りませんよ』


 部屋を移動する気配がした。慧一はスマートフォンを持ち直し、母親が出るのを待つ。


『もしもし、代わりました』


 母親の声が聞こえた。辺りをはばかるような喋り方である。


「こんばんは、夜分にすみません。滝口です」

『ええ。あの、峰子は自室に帰しましたから、今は私一人です。でも例の話でしたら、私の携帯にかけてくださったほうが』


 イベントの話だと思われたようだ。


「いえいえ違います。あの件ではありません」

『はあ』

「十一日から、峰子さんと一泊旅行に行きたいと思っています」

『え?』

「許可してもらえますか」

『……』


 絶句している。
 それはそうだろう。こんなことを親に直接訊く馬鹿はそうそういない。


『あ、ごめんなさいね。そう、旅行ですか。峰子と二人きり? ですよね、もちろん』

「ええ」

『それは』

「やはり無理でしょうか」

『……うっふふ』

「?」


 母親はなぜか笑い出した。

 電話の向こうで、ずっと笑っている。どうにかなってしまったのでは……と、本気で心配しかけた頃、落ち着いた声が戻った。


『許可も何も、滝口さん』

「はい」

『あなた、どちらにしても連れて行くつもりでしょう』

「うっ」


 図星を刺され、慧一は驚く。

 なぜ分かったのだろうと、首をひねった。

 母親の軽やかな口調が聞こえた。


『あなたを初めて見た時からもう、分かってました。もう、バレバレですよ』

「バ、バレバレですか?」


 何が何だかかよく分からないが、とりあえずどうしてなのか訊いてみる。

 母親はもう一度笑ってから、種明かしをした。

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