モース10

藤谷 郁

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連れていって

 大浴場の手前にあるトイレで、まだ生理になっていないことを確かめると、峰子はほっとした。


(お風呂から出たら、慧一さんに報告しなくちゃ)


 そう思いながら脱衣所に入ろうとした時、先ほどの女性とバッタリ出くわす。たった今、慧一をやり込めてきた唯である。


「あら、さっきはどうも」


 唯は大きな目を丸く見開き、笑顔になった。


「あっ、あの、はじめまして。私は……」

「いいのよ」


 峰子が自己紹介しようとすると、唯が遮った。


「慧一さんの今の恋人でしょ。それで充分よ。でもこれも何かのご縁ね。一緒に温泉に入りましょうか」

「は、はい」


 唯の態度に峰子は戸惑うが、大人しく付いて行く。脱衣所に入り、ロッカーの前で浴衣の帯を解こうとして、ふと、鋭い視線に気付く。


「……?」

「あら、ごめんなさいね。すっごくきれいな肌をしてるから、見とれちゃった」

「えっ? いえ、そんな……」


 赤らむ峰子に、唯は気まずそうな顔をするが、ぱっぱと洋服を脱いでいく。今度は峰子が、彼女の体に見惚れた。

 素晴らしいプロポーションだ。細いのに胸がしっかりと大きく、腰のくびれも見事でメリハリがある。

 峰子は思わず眼鏡を外した。もうまともに見ていられない。


(慧一さんは、この人と恋人だった。こんなにきれいな女性と、どうして別れたんだろう。年齢も釣り合ってるし、口調もはきはきとして頭の回転がよさそうで、私よりもずっと会話が弾みそうな相手なのに)


 峰子は下着まで脱ぎ終えると、すぐにタオルで前を覆った。慧一は褒めてくれたが、自分の体など痩せっぽちで、どこにも魅力がないように思える。

 脱衣所の大きな鏡越しに、唯の女らしく艶かしい背中を見やった。


(慧一さんはかつてあの人を愛し、あの体を抱いたのね……)


 頭を横に振り、浴場に入った。



 二人は洗い場で体を洗うと、申し合わせたように湯船に浸かった。

 細胞のひとつひとつにしみわたるような、気持ちの良い温泉である。湯煙の中、互いに口も利かず目を閉じていた。


「ああ、気持ちいい。最高ね」


 唯が声を漏らすと、峰子も頷く。


「ええ、いいお湯です」

「……あなた、おいくつ?」


 唯は峰子をちらりと見て、さして気のない口ぶりで訊ねた。


「ハタチです」

「え……」


 唯は愕然とした。

 あの男、とうとうこんなおぼこ娘に手を出して。しかも、こんな大人しそうな、男の言いなりになりそうなタイプを――

 唯はムカムカしてきた。
 滝口慧一は、いまや何の関わりもない男である。

 しかし、峰子の控え目な横顔を見るうち、どうにもこうにもイライラが募ってきた。

 カッカする唯の頭に、慧一の顔が浮かんだ。


(あの男、彼女にあることないこと吹き込むなって言ったわ。でも、あることぐらいは教えるべきよ。それが今の彼女に対する、元カノの親切ってものじゃない?)


 唯は私情を大いに交えた正義感に目をぎらつかせると、峰子の手をいきなり握った。


「あっ、何を……」


 凶暴なイタチに捕食される雛鳥のような眼で、峰子は怯えた。


「あのね、今から話すことは嘘じゃないわ。あの男の近所に住む、その土地のことなら何でも知ってる妖怪ジジイから聞いた話よ。あの男とこれからも付き合うつもりなら、心して聞きなさい。聞いた上でどうするかは、あなたに任せるわ」


 すごい顔つきで前置きをすると、唯はかつて自分も聞かされた、慧一の実態について語った。

 つまり、石田の爺から聞いた話、そのままである。


「……というわけ。呆れるでしょ?」


 唯は一気に話し終えると、すっきりした顔で湯船を上がった。


「あなた、まだ若いんだから、これからのことは、よーく考えなくちゃ。女癖は直らないって言うからね。では、お先に。さよなら」


 引き戸を開けて唯が出ていく音を聞きながら、峰子はそのままお湯の中にいた。

 彼女がなぜあんな話をしたのか、冷静に考えてみる。

 おそらく彼女は、慧一と気まずくなるような別れ方をしたのだろう。それは、あの二人の態度から何となく見えてくる。

 だから彼女は、慧一が女にだらしない酷い男だと、彼をおとしめるようなことを言って聞かせたのだ。

 その妖怪ジジイと呼ばれるおじいさんが語ったことは、実際とは違う話のような気がする……

 それが正解だと、頭で判断する。だけど心は別の感情に支配されていた。

 不安のほうが大きく、とても理路整然とは片付けられない。

 実際、慧一の女性経験が豊富なのは、彼の普段の言動に表れている。

 峰子はそれを、意識的に見ないようにしていた。

 仕方のないことだと。

 でも……

 峰子は深くお湯に浸かり、自分の肩を庇うように抱いた。

 慧一のセックスにかける意気込みと、求めてくる激しさ。それは元カノの話を裏打ちする証拠ではないのか。

 もうすぐ夜の帳が下りる。今夜はどうなるのだろう。


(やっぱり、生理になったって言おうかな)


 峰子はぐるぐると考えあぐね、終いには慧一を信じきれない自分が嫌でたまらなくなり、迷いを立ち切るように湯船から出た。


(もう一度、彼女に問いただそう。慧一さんはそんな人じゃない。本当のことを言ってくださいと……)


 だが、峰子が脱衣所に戻った時、そこにはもう唯の姿は無かった。



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