モース10

藤谷 郁

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満天の星

 時計を見ると、午後十一時を回っている。

 あれからしばらく峰子は泣いていた。

 とにかく寝かせよう。慧一はそう思ってベッドに連れてきたが、傍にいてくれとせがむので、一緒に横になった。

 慧一に腕枕されて、大人しくする峰子。小さな子どもに戻ったかのような彼女の頬を、彼はそっと撫でた。


「慧一さん……」

「うん」

「ごめんなさい」

「何が?」


 峰子の髪の匂いを楽しみながら、優しく応える。すごく優しくしてあげたい気持ちだった。


「痛かったでしょう?」


 峰子は慧一の口元に指を添えた。唇に小さな血の塊がある。


「いや、どうってことねえよ」


 ぶっきらぼうに言い、ニヤリと笑ってみせる。きれいな白い歯が覗いて、峰子を安心させた。


「そんなことよりさ、どんな話をしたんだ」


 唯が一体、どんなことを言ってこの子を動揺させたのか。
 ちゃんと訊いておきたかった。


「お風呂で、ですか?」

「ああ」


 峰子は一旦、口をつぐむ。だがやがて、答えを待つ慧一の胸に額を押し当てると、唯から聞いた話を素直に教えた。


「あなたのことを、どうしようもない女狂いだって」

「な、なにい?」


 いきなりの直球である。


「えっと、それから、慧一さんはご近所に住む若い女性のほとんどに手を付け……関係していると」

「ちょっと待ってくれよ」


 思わず半身を起こした。
 予想の斜め上を行く、とんでもない話になっている。


「一体どこから出てきたんだ、そんな話」


 慧一の反応に、峰子は首をすくめた。


「慧一さんのご近所に住むおじいさんが教えてくれたとか。妖怪……と、彼女は言ってましたが」


 石田の爺さんだ――

 慧一は頭を抱えた。石田の爺が、唯に慧一を振らせるためについた嘘である。


(そんな内容だったとは。あの爺さん、滅茶苦茶言いやがって!)


 それにしても……と、慧一は横目で峰子を睨んだ。


「君はそれを信じたのか」

「いいえ、あの。頭では否定しましたが……」


 言いにくそうにもじもじする。要するに、慧一は疑われたらしい。


「どうしてかな。俺はそんな風に見える?」


「いいえ……あの、はい」

「何っ?」

「いえその、実際あなたは素敵だし、女の人と付き合った経験は少なくないと、思っています」


 峰子は浴衣の衿をいじりながら、小さな声で返事した。

 とにかく、慧一には心外な話である。

 確かに女性経験は豊富だが、女狂いというほどではない。ましてや近所の女に無節操に手を付けるなど、常識的に有り得ないと思わないのか。

 唯にしろ、峰子にしろだ。


「それに、元カノさんも美人でスタイルがよくて、大人で……慧一さんならどんな女性とだって」

「峰子」


 それ以上は聞かない。この子にだけは、そんな見方をしてほしくない。


「俺が心底惚れたのは君だけだ。それに、俺は今まで女に振られっぱなしだ。言いたくないけど、実際はまったくモテないんだよ」


 峰子はぽかんとした。


「でも、経験は……」

「泡のような恋愛は経験のうちに入らない。俺の本物の経験は今だ。君との恋愛だけだ」


 男くさい怒った顔で、慧一は熱弁する。峰子にだけは分かって欲しい。


「だから、君にはどうしても強引になる。貪欲になるんだ。俺がこんなにも求めるのは、君が初めてだよ」


 峰子が顔を赤らめる。
 慧一は、ここがベッドの上なのを、すっかり忘れていた。


「いやつまり、その……セックスだけが愛情表現ではないが、まあ、それだけ我を忘れるっていうか……例えばの話だ」


 慧一は咳払いをして、話題を変えた。


「ところで、どうだ。アレは」

「えっ?」

「月に一度の、さ。例の」


 峰子は「ああ」と気が付き、はにかんだ。


「まだです。まだ、始まりません」

「ふうん。で、体調はどうだい。さっきはふらついてたけど」

「今は何ともないです。大丈夫です」


 峰子はレストランでふらついた時より顔色が良い。女性の体は複雑で、精神的なものと生理的なものと、相互作用で良くも悪くもなるようだ。


「ま、ともかくだ。今夜は清らかに過ごそうぜ、お姫様」

「お姫様?」

「お伽噺の世界だよ。俺は今夜、清く正しく品行方正な王子様になる」


 慧一のユーモラスな口調に、峰子が噴き出した。


「何笑ってんのよ、失礼な子ね」


 女言葉でふざけるが、気持ちは真面目だった。


「そんなわけで、俺は退散させていただくよ。おやすみ」


 慧一がするりとベッドを脱け出す。


「あっ、どこに行くの?」

「窓のところで寝る。風が入って涼しいからさ、丁度いいんだ」

「そんな……」


 峰子がベッドを降りて慧一を追いかけ、彼の浴衣を掴んだ。


「おいおい、はだけるじゃねえか」


 思い切り引っ張ったので、慧一の太腿が露わになってしまう。


「あっ、ごめんなさい」

「エッチ」

「えっ? いえ、そんな、違います」


 裾を直しながら、にやりと笑う慧一。
 峰子はしどろもどろになり、赤面した。


「真面目な話、今夜は眠ったほうがいい。いろいろあったし、疲れてるだろ」


 珍しく分別臭いことを言う慧一を、峰子は驚いた顔で見上げる。


「本当に、別々に寝るんですか」


 セックスをしないなんて、具合でも悪いんじゃないか――という表情に、慧一は苦笑する。


「俺はケダモノじゃないぞ」

「そういう意味では……」


 とは言うもののそういう意味なので、峰子は口ごもってもじもじした。


「おやすみ」


 慧一は腰をかがめ、峰子の額にキスした。

 浴衣の衿もとから、男の香りが流れる。それは峰子の本能を甘く痺れさせた。


「いやです。一緒に寝てください!」

「峰子」


 恋人にしがみつかれ、慧一は弱ってしまう。どう言えばいいのやら。


「俺の気持ちも考えろ。一緒に寝て、やらずにいられるか」


 女にはわかんねえだろうなあと、ため息をついた。


「でも、嫌です。離れて眠るなんて」

「あのなあ」

「嫌です」


 子どもみたいに半泣きだ。

 感情のコントロールが利かなくなったのか。どうにもわがままで、困りものだ。


(やっぱり俺には王子様なんて無理。一生なれそうにない。諦めたぜ)


 慧一は峰子を抱き上げ、ベッドに運んだ。


「しょうがない子だ」


 素直で可愛くて優しい峰子。だけど、それだけじゃない。泣き虫で、早とちりで、わがままで、とんでもないお嬢様だ。

 慧一も隣に寝て、彼女を抱きしめた。


(これから俺が育ててやる。ひとり寝ができるように、俺が成長させてやる)


 だが、慧一は分かっている。
 偉そうなことを言ったって、結局必要としているのは自分なのだ。峰子なしの人生なんて、もう考えられない。



「慧一さん……」


 峰子が目を閉じる。

 慧一は、満天の星を思った。運命の星が巡る、高原の美しい夜空を――


「愛してるよ」

「私も、愛してる」


 大切な女性ひとと囁き合い、慧一は灯りを消した。

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