モース10

藤谷 郁

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滝口家

「人間で言えば、三十かそこらかのお」


 石田の爺は独りごち、煙草に火を点ける。

 晩夏の海。

 激しく燃える真夏を過ぎ、そろそろ落ち着いて、しかし決して枯れてはいない。輝きを充分に保っている季節。


「あの男も、そんな年頃じゃないか。早く嫁さんを貰わにゃあ」


 自身の若い頃に似た、妙に親しみの湧くあの男が爺は心配だった。


「わしが元気なうちに、よーく吟味してやらにゃあ」


 どっこいしょと立ち上がると、タオルで汗を拭った。晩夏とはいえ天気の良い日は気温が高い。



 爺は畑仕事を終えると、周辺の見回りをしがてら家に戻る。いつものように坂道を下っていると、日傘を差した若い娘が歩いてくるのが見えた。

 地元の人間ではない。

 随分と色白で、どこか頼りなげな風情が爺好みだ。


「むうう……!」


 天性の女好きの勘でピンときた。あの男のもとに行くに違いない。

 爺はさり気なく、すすーっと道の真ん中に進み出て、麦藁帽を深く被る。それから、娘にくるりと背中を向けて突っ立った。

 こうしていれば、声をかけざるを得ない――爺はニヤニヤしながらそれを待った。

 娘の足音が近付き、やがて真後ろで止まった。通せんぼを食らい、困惑する気配を感じる。


「あのう、すみません」


 かぼそい声から、あまり気の強くないタイプと見た。

 ますます爺の好みである。


「道をお尋ねしたいのですが」


 爺はゆっくりと振り返った。


「ほおお~っ」


 娘を見て、爺は感嘆した。

 薄化粧の顔。純白のワンピースを纏う姿は、実に瑞々しい。少女の面差しだが、そこはかとない色香も感じさせる。年の頃は二十を越えたあたりか。

 爺は麦藁帽のつばを上げ、じろじろと見回す。


「いや~、あいつめ。どこでどうやって捕まえたのやら」

「えっ?」

「ふむふむ。なるほどなあ……」


 何やらつぶやく老人に、娘は戸惑いながらも口を開いた。


「すみません、道をお尋ねしたいのですが。滝口さんという……」

「慧一?」


 娘は面食らった。どうやら当たりのようだ。


「は、はい、そうです。滝口慧一さんのお宅に行きたいのですが」

「そうかそうか。慧一か。ついにあいつも決めたのか」

「はい?」

「案内してやろう。ほれ、そのスイカ畑を横切ればすぐじゃ」


 爺は先に立って歩き出した。娘は慌てて付いてくる。


「お前さん、名前は? 滝口の慧一と、どんな関係なんじゃ」


 爺は土の固いところを選んで歩きながら、娘に訊いた。


「私は三原峰子と申します」

「ふむ、峰子さんか。で、関係は?」

「えっと……滝口さんと同じ会社に勤める者です」

「違う違う」


 爺は不満そうにかぶりを振った。


「慧一の彼女なのかと、訊いておる」

「あ……」


 峰子が目を見開く。

 この老人が誰なのか、ようやく分かったらしい。


「どうなんじゃ。慧一の彼女か、そうでないのか」

「私は……」

「私は?」

「慧一さんの、こ、恋人です」


 爺の足が止まった。

 畑を横切り、二人は舗装道路に出ていた。爺が見ると、峰子のパンプスの踵に泥が付いている。


「峰子さんよ、ちょっと来なさい」


 畑の隅にあるバケツのところに峰子をいざなう。雨水が溜めてあるようだ。

 爺は腰に提げたタオルを取ってバケツの中でゆすぎ、ぎゅっと絞って峰子に差し出す。


「靴を拭きなさい」

「えっ? いえそんな、大丈夫ですので」


 峰子は遠慮した。このタオルは、老人が汗を拭くために使うものだ。


「土が付いたままでは、慧一に怒られちまう。さ、早く拭え」


 強引に押し付けられた。

 峰子は申しわけなさそうに受け取り、そっと靴を拭った。


「ありがとうございます」

「なんのなんの」


 爺はタオルをゆすぐと、もとどおり腰に提げた。

 峰子と向き合い、先ほどの続きを話す。


「そうか。お前さん、慧一の恋人か」

「はい。今日は初めてお家におじゃまするのですが、道がよく分からなくて」

「電車で来たのかね。慧一の奴、迎えにも行かんで」


 しかめ面になる爺に、峰子は違うんですと顔を振った。


「私が歩いてみたいって言ったんです。慧一さんが生まれ育ったところをのんびりと歩いてみたくて」


 峰子の言葉を聞き、爺は目を細めた。


「ふうん、なるほどねえ。では、いいことを教えてやろう」

「え?」

「あいつ、滝口慧一はな……」


 石田の爺は、近所のことなら何でも知っている。

 もちろん慧一のことも。

 いつかの元カノには、でたらめを吹き込んだが――


「慧一は、小気味のいい男じゃ。ガキの頃はスイカを盗んだり悪さをしよったが、わしがガツンと怒ってからは改心して、どんどんいい男に成長したわい。あいつの男振りは、この爺が保証する!」


 峰子は嬉しそうに微笑んだ。

 爺もにこりと笑い、


「いや~、良かった。生きてるうちに慧一の嫁さんを見ることができて、本当に良かった。ほら、来よったぞ」


 坂道の上を指差す。

 そこには二階建ての家があり、誰かが門扉を出て、こちらに駆けて来るのが見えた。

 慧一だ。


「爺ちゃん、案内してくれたの?」


 明るく声をかける慧一に、爺は顔をくしゃっとさせる。


「お前、何やっとる。駅まで迎えに行って、一緒に歩いて来んか、クソッ」

「クソはないだろ。ったく、口が悪いなあ」


 友達みたいに笑い合う二人を見て、峰子も笑顔になる。親しみの空気が、心を和ませた。


「峰子。親父もお袋も、お待ちかねだぜ。今朝からそわそわしちゃってさ」


 慧一が言うと、爺が横から口を挟んだ。


「そりゃそうだろ。気ままな独身貴族が嫁候補を見つけたとあっては、落ち着くまい」

「ひでえな」


 今度は三人で、声を合わせて笑った。


「よしよし、これでわしも安心だ。じゃあな、色男」


 爺は慧一の肩をばしっと叩き、今来た道を戻って行った。


「あっ、あの、ありがとうございました!」


 峰子が大きな声で言うと、爺はぶっきらぼうに手を上げ、「おう」と返した。


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