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璃瀬に頼られる美香 (カウンタークルー 蒲田美香)

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 蒲田美香かまたみか柚木璃瀬ゆずきりせに昼食をご馳走になった後、近くの駅まで車で送ってもらった。
 本社からトレーナーとして派遣されてくる柚木璃瀬は、こうしてアルバイトクルーを食事に誘って、店の様子を聞き出しているようだった。自分以外にも誰かから話を聞いているのかもしれないが、璃瀬が個人的にクルーと話をしていることは内密事項となっていたので、誰と誰が彼女のお気に入りとなっているかは美香にもわからなかった。案外自分だけなのかもしれないと思うこともあった。
 どうも自分はみんなから好かれるタイプらしい。そう思ったのは中学生の頃だった。笑うと両頬にえくぼが浮かび、八重歯が出てしまう顔は、愛嬌があって、相手の警戒心を薄める役割を果たすらしい。昔から美香は見ず知らずの人から道を聞かれたり、話しかけられたりすることが多かった。
 授業で教師の雑談を聞かせられるのは日常茶飯事だったし、グループで話を聞いていても、いつの間にか話し手は美香に向かって語っていた。大きな目が相手をじっと見つめると、その相手は美香に対して話をしなければならないような錯覚に陥るらしい。時と場合によってはこの現象は迷惑ともなる。眠くて堪らない時でも起きていなければならない。うっかり眠ろうものなら、「蒲田、起きろ!」とたちどころに気づかれて注意を受けてしまう。人の注目を浴びやすいのも全く良し悪しだと美香は思った。
 クイーンズサンドのアルバイトは高校生の時からしている。ここでもグループになって指導者の話を聞いていると、必ずその指導者は美香を見て話をするようになる。意見を聞かれる時も、「やってみなさい」といわれるのも美香が最初である。
 先輩クルーから話しかけられたり、気に入られたりするのも美香が最初だった。同じアルバイト仲間の間でも、わからないところがあると感じたらまず美香に話しかけるというのが常套だったようだ。裏表のない明るいキャラクターで、何かと頼りになる、それが蒲田美香に対する皆のイメージだった。
 美香は、噂の発信源となるような口の軽い人間でもなかったし、明るく笑っていても根は真面目というのが体中から滲み出ていたから、多くの人間から悩みを打ち明けられたり、相談にのってほしいと言われたりした。この明葉ビル店のアルバイトも、夏休み限定クルーの中で美香だけが経験者だったこともあり、他の六人とは個人的に話をしたことがある。美香は最年長の大学三年生であったし、それでいて外見は高校生のような童顔で可愛い顔立ちであり、親しみやすさもあったから、格好の相談相手だったのだろう。
 あまり頼られすぎるのも気が重いが、人に囲まれることで悪い気はしない。美香は程よく可愛く生んでくれた母親に感謝した。美香は自分の容姿を気に入っている。美人だと言われることもあるが、やはり「かわいい」と言われることの方が多い。テレビのバラエティー番組に出てきそうなアイドル顔というのがぴったりの表現だと自負している。これが広く人々に受ける要因だと思っていた。
 だからこそトレーナーの柚木璃瀬は自分に接近してきたのだ。
 柚木璃瀬は、こういう店には場違いなほど容姿端麗だった。これまで何人ものトレーナーを見てきたが彼女ほどキリリとした精悍な美女を見たことがなかった。クイーンズサンドの制服は全然似合わない。コスプレに見えてしまう。彼女には一流企業の秘書のようなスーツ姿こそ似合うと美香は思った。はじめて顔合わせした時は、その格好の良さにうっとりとしたものだ。どうしてこういう人がファーストフード店のトレーナーなどやっているのだろうと思った。笑顔は全く見せない。後で聞いた話では初対面の相手に笑いかける余裕がないとのことだったが、笑わない美人は神秘的な雰囲気を作り出し、美香はたちまちファンになってしまったのだ。
 美香が通う大学にも、誰もが振り返るくらいの美女は数え切れないほどいた。特にふだん一緒に行動している仲間は、ふたりとも絶世の美女だ。しかし璃瀬には学生にはない美しさがあった。美香と璃瀬との間の年の差は四歳だったが、美香にはそれが十年にも二十年にも感じられた。そのくらい璃瀬は大人の女性に見えた。それは璃瀬より年上の江尻マネージャー、松原チーフ、宮本スイッチマネージャーが一目置いているところからも窺われた。確かに本社からの派遣であるので、現場のスタッフは気を遣うだろう。しかし璃瀬にはたとえ本社のがなかったとしても年上のスタッフと渡り合うだけの度量があった。美香はすっかり璃瀬のイメージを装飾して満足した。
 その璃瀬が店の様子を知るために美香に近づいてきたのを、美香ははじめ驚き、ついで歓迎した。おそらく璃瀬は、その近寄りがたい雰囲気のせいで現場のクルーと打ち解けて話ができないのだ。ここは自分がその橋渡し役を賜ることになろうと美香は考えた。
 店の常勤スタッフの三人が璃瀬に対して本心を明かさないことは明白だった。美香は自分が見た店の様子を余すことなく璃瀬に伝えることを求められたが、さすがにすべてを璃瀬に伝えることはできなかった。
 璃瀬の役に立ちたいのは山々だったが、すべて璃瀬の思うとおりにしてしまうと、店がうまく回らなくなると美香は見抜いたからだ。何でもかんでも正論で粛清していく、それが実は取り返しのつかない破局をもたらすことを、美香は明葉ビル店のアルバイトをするうちに学んだ。大学三年にして初めて大人の世界というものを意識したのだった。
 だから美香は璃瀬に報告する時に少しフィルターをかけることにした。露骨にありのままを報告すると、璃瀬はきっと問題を増幅して本社に報告するだろう。そうなればこの店は空中分解を起こしてしまうに違いない。璃瀬は三人の常勤スタッフと波長が合わないようだが、彼らもそれほど悪い人間ではないのだ。彼らは彼らなりに考えて動いている。たしかに彼らは自分が可愛いために自分勝手な動きをしているかもしれないが、決して店を潰そうとしているわけではない。むしろどうにかしてこの明葉ビル店の売り上げを伸ばして、その結果自分の評価を上げたいと考えているのだ。
 そう認識していたから、美香はある程度のことは目をつぶった。江尻マネージャーが可愛い女の子に甘いことも、松原チーフが親睦を図ると称して女子高生スタッフをドライブに誘ったりしていることも、宮本スイッチマネージャーが賢い美少女が嫌いであることも、美香はすぐに気がついたが、璃瀬にはオブラートに包んだものの言い方でフォローしておいた。
 璃瀬は全面的に自分の語ることを信用しているだろう。美香は他人には滅多に見せない璃瀬の笑顔を見て思った。彼女の信頼に素直にこたえられないのはつらいが、この夏休みを今のスタッフで乗り切るには、自分がある程度加減して、そして、璃瀬の力を利用してやっていくしかない。
 美香は、璃瀬に「ごちそうさまでした」と言いながら、心の中で「ごめんなさい」と繰り返した。
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