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美香の彼氏と弟 (カウンタークルー 蒲田美香)

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 三時には自宅へ戻ってしまった。もっと遅くまで勤務をする体力はあったが、シフトがそうなっているのだから仕方がない。早朝から昼過ぎまでの勤務だったのだ。
 高校時代からの付き合いの安原博人やすはらひろとは何やら忙しいらしく、どこかへ行こうと持ちかけても了解してくれなかった。このところ物足りない寂しい思いをさせられるのが続いている。
 みんなに愛されるキャラは嬉しいが、美香は安原博人にもっと愛されたかった。
 高校時代は、美香のまわりによりどりみどりといえるほど多くの男子生徒がいた。美香は男女の区別なく打ち解けた話ができるタイプだったので、男子生徒たちはいつしか美香を女子生徒として意識せずにコミュニケーションをとるようになった。あまりに身近なタイプであるために、美香はいつしか異性として意識されなくなったのだ。遊びに行く時はいつも男女のグループ。カップルができたりしてグループから抜けると、また別の男女が加わって、美香はいつもその中心にいた。常にたくさんの男子生徒に囲まれていたせいで、美香は特定のひとりの男子生徒とつきあうタイミングを逃してしまった。もてるはずなのに、いざ二人きりで映画を観に行くといった状況を美香は作ることができなかった。グループなら全く気にならないのに、二人という状況はすっかり緊張をもたらすようになった。そういう時に安原博人が美香のエリアに入ってきたのだった。
 安原博人は、目立たない男だった。容姿はどちらかというと良い方である。格好をつければイケメンになりうる要素を持ち合わせていた。しかし本人に全くその気がないのだから仕様がない。おそらく不器用な人間だったのだろう。それが美香の心を捉えることになった。
 高校二年の夏休みのある日、グループで遊びに行った帰り、たまたま美香は博人と二人になった。自宅の最寄り駅が同じだったからだ。それまで一年以上同じ路線で乗っていたのにもかかわらず美香は初めてそのことに気づいた。美香がいつものようにぺらぺら喋り、博人が黙って頷くというスタイルで道を歩き、十字路で別れることになった。
「じゃあね」と手を上げた美香に対し、人気のないことを確認した博人は、さっと美香に唇を重ねた。あっと思う間もない早業だった。あとで本人から聞いた話だと、ずっとそのタイミングを計っていたようだ。美香は博人の意外な行動力に胸を打たれ、たちまちうっとりとしてしまった。おとなしく害のない男というイメージを覆した博人の行為は、平凡な日常に飽食しかかっていた美香に新鮮な刺激を与えた。
 ふたりはすぐに公認の仲となった。美香の裏表のない性格が、ふたりの関係を隠すことができなかったのだ。おそらく美香の方が積極的だったと周囲には映っただろう。
 その後ふたりの付き合いは四年近く続いている。しかし未だに高校二年生の夏から進んでいない。美香はそれが博人の恥ずかしがり屋によるものだと認識している。
 博人はだれかがいる前では絶対にべたべたすることがなかった。美香と手をつなぐこともない。デートをしても周囲に見知らぬ人が一人でもいると、博人は決してスキンシップをしない。おかげで美香が博人に触れることができるのは、お互いの誕生日、クリスマス、バレンタインデー、ホワイトデーといったイベントに限られ、夜景が見える公園で、人がいなくなった瞬間を狙ってそっとキスをするくらいのものだった。
 はじめはそれでも良かったが、何年も進展しないと美香の方も首を傾げるようになってきた。男女の営みの経験がない美香は、あえて一夜を共にするということにこだわりはなかった。しかし男である博人はどうなのだろうと考える。聞くところによると、男には常にそういう欲求があるというではないか。その欲求を表に出さない博人は、何か欠陥を抱えてはいないだろうか、というのが美香の不安だった。
 美香は何度か、どうなってもいい、という雰囲気をつくったことがあったが、博人はことごとくその罠からするりと身をかわした。アルコールを口にして単刀直入に聞いてみようと思ったこともあるが、乙女の恥じらいからか、どうしても自分の方から「抱いて」ということはできなかった。
 今、美香はアルバイトで貯めた金で、博人と旅行することを夢見ている。特別な状況を作り出せば彼もきっとその気になるだろう。いろいろ想像して、ムフフと笑ったりして、友人に気持ち悪がられたことは何度もある。
 家ではその役割を弟の陽輔ようすけがしていた。
 八つ年の離れた陽輔は立志大付属中学の一年生である。両親ははじめ美香一人で子供は十分と思っていたようだが、小学校に上がる頃に兄弟が欲しいとせがまれて、陽輔が生まれたのだ。年が八つも違うので美香は母親になった気分で赤ん坊の陽輔の面倒を見た。いつまでもチビだと思っていた陽輔も、今や中学一年生で、すでに身長は美香を超えていた。
「お姉ちゃん、ハンバーガーは?」
 陽輔がリビングに顔を出した。
「あ、ごめん、今日はないんだ」
 ときどきバーガーを安く買い取って持って帰る。しかし今日は柚木璃瀬にごちそうになる話になったので、持ち帰らなかったのだ。
「ちぇ」と陽輔は膨れ面をした。図体ばかり大きくなって、まだまだ可愛いところが残っている。
「このごろデートに行かないね。別れたの?」と生意気な口を利くようになった。
「おだまり! 陽輔には関係ないでしょ」と彼の尻に蹴りを入れた。小学校の高学年になったあたりからお仕置きはこれだ。中学ではソフトボール、高校ではテニスをしていたから体育会系ののりだった。たまに今の大学の友人にも同じことをしてしまい顰蹙を買うこともあった。
 小さい頃は泣いて母親のところへ駆けて行った陽輔も、体が大きくなってからは姉の仕打ちにお返しをするようになった。手や足が返って来る。それに対して必ず美香はお返しをした。お互いに、最後は自分の攻撃で終了しないと気がすまない。「とう!」とか「やっ!」とか掛け声を掛け合って、まるで対戦ゲームのようだった。両親は仲の良い姉弟だと思うことにして諦めている。
 陽輔の左手がたまたま美香のブロックを潜り抜けて、まともに胸に入った。ぐにゃりと右の乳房が押しつぶされる感覚。美香は慌てて胸を覆った。
「やわらかーい」と陽輔は勝ち誇ったように嘲笑した。
 家ではスポーツブラにしているので、まともに触られたようだ。
「この、どスケベが、誰にも触らせたことがないのに」とつい本音が出る。
「そういうのって、バージンて言うんですかあ?」
 顔を真っ赤にして攻撃を繰り出す。けらけら笑いながら陽輔は壁際に追い詰められた。本当に楽しそうだ。
「どこで、そういうことばを覚えてくるのよ?」
「へへ、この間、授業中に教育実習の先生に向かって質問した奴がいたんだ。男子はみんなげらげら笑ってた。女子は黙っているし、一緒にいた女の先生がバシッと質問した奴の頭を叩いた。あれって体罰じゃないの?」
「スキンシップよ、うちと同じ」
 とどめの攻撃は陽輔の股間をぎゅっと握ること。陽輔は「ぎゃあ」と声を出して降参した。
 美香は「ふん」と言って部屋を出た。手に陽輔の股間の感触が残っている。今までにない硬く大きな感触。触れてはならないものに触れた気がして、もうこの手のじゃれ合いは終わりだなと美香は思った。
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