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第一章 なぜ私であるのか

離さないで・決して、離すな

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「その理由を述べよ」

 微笑みながらヘイムが聞き返すとジーナは背筋を伸ばしていった。

「私という存在があなたにとって迷惑であり、共に歩いてはいけない存在だからです」

「そこまで自分を貶める必要もなかろうに。それは妾が気にしないと言えば問題にならぬのではないのか、え?」

 ヘイムは愉快気に顔を左右に揺らしている一方でジーナは硬直した姿勢のもと苦しみから汗が滲み出はじめていた。

 そういうことじゃないんだ、と内心思いつつも分かってもいる。眼の前のこれはこの感情を理解し承知なうえでこうして自分を苦しめて楽しんでいるのだと。

「さっきのお前の言葉だがその裏を見るとこう書いているのではないの? あなたという存在は私にとって迷惑であり、共に歩いてはならない存在だからお断りしたい、と」

 そうだと言い切りたかったがジーナはオウム返しをするにとどめた。

「そこまでご自身を嫌悪する必要もないのではありませんか? 私がそうではないと言えば問題ありませんし」

「では、いいのではないか?」

 こうなるか。なんでこんな変な嫌がらせをするんだこの女は、とジーナは椅子から立ち上がった。

「下の階から別のものを呼んで参ります。この私でなければならない理由は、ないはずです」

 龍の護衛も含めてそうだ、とジーナの心に怒りの火が点いた。どうして私はここにいてこれと話をしているのだと。

「みな忙しいのだ。たかが散歩ぐらいで儀式の邪魔などをさせとうないわ。いま妾の傍にいて暇なのはお前だけ。これだけでお前でなければならない理由ではあるぞ」

 どこまでもどこまでも自分を追い詰めて苦しめようとするその情熱、それだけでもう憎しみに値するとジーナはヘイムを見下ろしながら言う。

「身分が違い過ぎます」

「あのな、龍となる妾からしたら不信仰者もソグ教団の大僧正候補者も同じであるぞ。龍と人の関係とはそういうことだ。散歩ごときで大袈裟だな。もしや自意識過剰なお年頃か? 女の子と一緒にいると恥ずかしいとか? そうでなければ遠慮する理由にはならんぞ」

「そういうことではありません。一緒に歩くということはつまりそういう関係であり」

「なんだ? 結婚するとでも? そういう感性が嫌いだとさっき言ったであろうに。それになんだまさかお前は妾とそんな関係になり結婚の可能性を考えでも浮かんだというのか?」

「まさかいいえ断じてそんなことは一切思っておりません」

 考えるまでもなく答えるとヘイムの表情に陰が射し不機嫌に歪んだ。

「正しいが失礼極まる態度だな。よいか?
お前の感情など妾などどうでもよいのだ。不快な妄想による勘違いがあり噂が生じているのなら、絶対に噂が生じなそうな相手と散歩をすれば、その噂を消すことができる。これをしたいだけだ。だのにそなたはああでもないこうでもないのイヤイヤヤダーを繰り返すばかり、子供か? お前の言うことは全て理屈になっていないし全て論破できる代物だ。あのな? 言いたいことがあるのならもっとはっきりと言うが良い」

 つまらなそうにヘイムは髪の毛をいじりだすも、その口元は軽く歪んでおりまだ楽しんでいるようだとジーナは見た。

 シオンはこのまま帰っては来ないだろう。この問いに対してジーナは一つの言葉しか頭の中に無かった。

 ヘイムはもしかして心が読めるのではないか? この言葉を引きずり出すためにこんな面倒なやり取りをしている……だがどうして? 分からないままヘイムの右顔を見ると目があい、その瞳の色は言えと命じていた。

 濃いめな青が精神を侵食してくる。

「理由を述べよ」

 知っていることを何故聞くのだろうか? それによって何が分かるというのか? それと同時にジーナは思う。

 逆に何故自分はそれが言えないのだ?

 互いに承知のことであるのなら隠すことも黙ることもないであろうに。これは……龍となるものであり、いつの日にか私がこの手で以って……この心で以って……

「あなたを」

 声が変わったことがジーナは自分でもわかり、これはこの前に出した声と同じだと気づきながら告げる。

「嫌い憎んでいるからです」
「どちらを、だ。なにを、だ」

 反応がすぐに返って来るもジーナは声はごく自然にでた。 

「とりあえずヘイム様に関しては一昨日と今日のやりとりに対してが、です」

 龍はその全存在が、とジーナが口の中で呟くとヘイムは笑みは止め真剣に見つめてきたがどうしてだろうか、妙なことに微かな歓びも伝わって来たような気がした。

「良い答えだ。ではこれはお前に相応しい罰になるな。グズグズしていないで庭に案内せよ。
選択の余地はないぞ。これはハイネの件も含めているからな」

 ジーナは反射的に睨むもヘイムの顔に変化は生まれずそのまま続ける。

「これで上手くいったらあの件については完全に不問どころか、空に向かって忘れてやる。こんな条件をつけるのならそなたはやるだろな。ほれ、あの男らしさに溢れるあの自己犠牲の精神で以ってしてな。お前がとても憎んでいるものに対して献身してもらおう。まさか自分可愛さのあまり断ることなど、しないよのぉ」

 敵がここにいる、と当たり前のことを再確認しながらジーナはヘイムを見下ろしながら思う。

 あなたは忘れている。私が触れたくもないということは同時にあなたも私には触れたくないということを。

 私達はそういう関係であることを、あなたは愚かしさ故にそんなことをしようとしている。
 ……いいだろう。

「御庭にご案内いたしますよヘイム様」

 ヘイムは口を開け笑いながら右手を宙に三度振った。それは拍手のするつもりなのだろうか?

「ときに西には礼儀というものがあるのか? そなたを見るとまるでないとしか思えないがのぉ」

「あなたに対しては、それを見せないだけです」

 冗談だとヘイムは受け取ったのかまた笑うも無論ジーナは本気で言っただけだった。

「では見せるように。死ぬほどに嫌であろうが貴婦人に対しての最大限の礼儀を尽くせ」

「今回はって次回とかないですよ」

「あるに決まってるだろうに。そなたのようなものにならな」

 確信に満ちた眼差しを向けられジーナは微かに怯んだ。だがそれはどうしてか不快さを湧き起こさなかった。

「いいか? 存在しない真心なんて込めなくていいし言葉も気をつけなくていい。作法だけは完璧にそれをせよ。妾はそこを見てやる」

「言葉や心はいいと言いましたが、こんなことをして楽しいのですか? それこそが大切なのでは?」

「とても楽しくなると思うがな。心や言葉? ハハッそなたのような心の持ち主からなにも貰いたくないぞ。己惚れるな。そなたの心なんて、憎しみと憎悪だけではないか。違うか?」

 それならいいならば戦闘開始、とからくり人形のように予備動作なしにジーナはヘイムの足元に跪き左手を差し出した。

「ヘイム様。右手を出してください。私がご案内いたします」

 なにかを深く感じているのだろうか? ヘイムは少しの間動かなかったが自分のこの姿を笑ったのだろうとジーナは考えた。

 それから黙ったままヘイムは右手をジーナの左手に近づけると触れるか触れないかの瞬間にジーナの方から握る。

 すると自然に当然に反射的に力が強めに入ったことにジーナは気づく、これが自分の感情なのだろう、と。

 意識的に緩めようとすると逆にヘイムが強く握り返してきて呟く。

「おぞましいか?」

 問われた瞬間に遅れてその感情が身体を駆け抜けていくなかでジーナは答える。

「ええおぞましいですが堪えます。痛くはありませんか?」
「我慢してやろう。このままでいい」

 ヘイムが手に力を入れたことをジーナは掌にて感じ互いの手の甲に視線を集中しながら言った。

「なら行きます、離さないで」
「決して、離すな」

 同じ言葉を同時に交差させ二人は立ち上がった。
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