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第一章 なぜ私であるのか

世界の非秩序化への多大なる貢献です

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 焚火の中で木が爆ぜる音を聞きながら火を見つめていた。他の一切は闇であり見るものがなく、火のみを見続ける。

「龍はな」

 正面に座る翁のしわがれた声がし、いつもの話が始まる。幼い頃から聞いてきてもはや原初の記憶となったこれ。だからこの魂はここから始まる。

「龍は西方からやって来て必ずここを通る。だからわしらはここにいなければならないのだ」

 翁は話しているというよりかは空気に向かって話している。喋ることが残された最後の仕事であるかのように。語り継ぐことのみがいまの翁の役割のように、使命のように。返事もせずその場で座り待機をしながらその話を聞くも、話の続きは分かっている。もうこれまで数え切れないほど聞き既に諳んじることすらできる。だがそれでも、もっともっと聞きたかった。

 翁の声で聴くからこそ意味があり、そのために翁は生きているのだ。いつの日かその時が来る。もう少し大きくなりもう少し強くなれば、一族の男達と共にその使命を背負い戦い、討ちに行ける。

「印の導きによって我々は討つのだ」

 それまでは翁の言葉を心に刻み一つとなる。いずれは自分こそがあの印をも身に着け……刻み……

「ちょっといいかな? お爺さんに――」

 娘の声がし振り返ると鍋がまず目に入り、それから顔を見た。

 だが、そこには表情はなにも無く真っ白な顔であり……顔を失っている、それもそうだ、これは……彼女は……いま……


「起きろ隊長!」

 ブリアンの声によってジーナは目覚め、あれは夢であり今はここにいるのだと分かった。何度目かの、同じ夢。

 どうしてか最近になってよく見るのだろうかとジーナは目をこすりながら身を起こす。最初に見たのはあの龍の館に行った日の夜。

 夢による記憶の再生は徐々に長くなり、今回はついに顔を見ることができた。あのなにも無い顔を。だがそれをジーナは驚きはせず了解する。

 それは当然のことであると。私はあの顔を思い出すことはできない。それがたとえ夢の中であろうが、ただ声だけが甦る。闇の底から浮き上がり、身体を覆うあの声として。

「ボーっとしていないで早く起きたらどうなんだ? それとも龍の護衛様というのは寝坊してもいい美味しいお役目なんですかぁ?」

「悪夢を見ただけだ。それに代わりたいのならブリアンにやってもらいたいぐらいだ」

 そう言うとヘラヘラしていたブリアンが真顔となり首を横に振った。

「冗談はやめてくれよ。龍身様のお傍になんて緊張でゲロを吐いちまうぜ」

「まさか。戦場の最前線でいつも私の隣にいたお前がそんなわけがないだろう」

 ジーナは軽口を言うがブリアンは笑わない。

「代わるぐらいなら戦場にいる方がマシだ。おまけに俺は罪人なんだぞ。余計に畏れ多くて多分、うまく動けない」

 どうやら冗談を言っているのではなく本気だということがジーナにも分かり、こんな一見信仰心が薄いであろうブリアンでも龍に畏敬の念抱いていることからジーナは以前から疑問であったので、ここで尋ねることにした。

「そのブリアン、一つ聞かせて欲しいが龍への信仰心を抱いて良かったとは思うか?」

 変な顔になったブリアンだがすぐに何かを理解した顔に戻った。

「何だその変な質問は? と思ったが、そういやあんたはそうだったな。でもそんなことを聞いてくるのはここどころか、ソグでもいや世界中どこにもいないぜ」

「西の方だとそういう人がほとんどで」

「いい、いい、いい、そういうのはいい。そっちはもう俺達の知らない土地で世界が違う。バルツ様の統一運動で西のはギリギリ触れている地域でほぼ理念上のことだしな。あんたとバルツ様以外はそこまで行こうとは思わないぜ。質問に答えるとなそんなのは良いも悪いもあるもんか。生まれた時から、そう物心がつくころからそういうものだと教わって生きて来ているからな。そんなことを考える時点でどこかおかしいんだよ。隊長もよぉ、あんたが西の果てから来たものだからみんなそこらへんは大目で見るが、こっちの世界の人間がそんなことを言い始めたらもう頭がおかしくなったと心配されて牢屋に入れられちまうぜ。明らかに頭が逝ってるからな」

 ここでやっといつものようにブリアンが笑った。ジーナは頷きこんなものだよなと思っているとブリアンは一歩前に出た。

「……俺にそんなことを聞いたんだから逆に聞いても良いよな? あんたはなんで龍への信仰心を持たないんだ? 持ってはいけない理由でもあるんか?」

「……別の信仰があるからな」

「そうかい。だが俺が感じるに隊長からはそういったものは感じないな。そうなると信仰を持たないという信仰だったりしてハハッ! それでさらに再度逆に聞くけどよ信仰心が無いことで良かったと思うことってあるか?」

 軽い気持ちで聞いているのは分かってはいるがジーナは心臓に鈍い痛みが走る。あんな夢を見たからこんなことを聞かれ、こう返すしかないというのに。

「いまはそれで良かった思うよ」

「信じられない言葉だが、あんたらしい言いかただ。まっ信仰心のない龍の護衛なんて冗談みたいな代物だしよ。大切なものが欠けすぎだ」

 そう私はそんな存在だ、とジーナは言い聞かせながらそれから準備を整え龍の護衛の役目を果たすべく兵舎を出た。

 自分には龍への信仰心がなく、あるのはその逆の信仰心のみ、と。いつもの道を歩いて行き、その間に昨日のことを反芻する。

 あの約束というか言葉を、あの人に対する態度のことを、それを実行できれば、そうすれば何もかもが解決する。ただのこちらの気の迷いと向うの気まぐれが合わさっただけである。

 私たちはありえないことをしている。

「よってそんなことはあってはならない」

 ジーナは門に到達する手前で小声でそう言い気合いを入れた。もうこの前みたいことにはならない。それは同時にハイネからの余計なお節介も受けない。

 いつもの門番に会釈し中に入ると物陰からなにか飛び出してきて構え、そして誰だか分かっても構えを解除しなかった。ハイネだ。悲鳴が出そう。

「私ですってジーナさん。なんで構えたままなのですか?」

 いくつもの攻撃を受けたからだと思いながら間合いを取るも、一瞬複雑なフェイントをかけられいつの間にか手を掴まれ芝生面から引き剥がされた。この女、武術の心得があるのでは?

「あのハイネさん。武術はなにを習ってました?」

「私? 武官学校で学んだぐらいですね。武術の成績は真ん中より上程度でしたから、そこそこですね。フフッこれはちょっとした自慢ですよ自慢自慢」

 いや違う、あの程度の動きはそこそこではなかったとジーナは思いながら手を取られるまま植え込みの陰に座り込んだ。どうして隠れる。

「ここまで連れてきたことにはわけがあります」

「わけがなかったらこんなことしないな。いや、ハイネさんならわけがなくてもやりかねないが」

「ごちゃごちゃ変なことを言わないでください。今ですね庭園でなんと……ヘイム様とルーゲン師が歩かれているのですよ」

 考えるよりも先にジーナの身体は立ち上がろうとすると完璧なタイミングでハイネが肩に手を載せ抑えつけた。

「立っちゃ駄目です。こっそりとですこっそりと。ほら私と一緒の動きで」

 二人は中腰となり植え込みから顔を出すとヘイムの左側にルーゲン師が手を取りゆっくりと歩いていた。

「まさに龍を導くものです」

 感嘆を込めてハイネがそう言うもジーナの心には何の感情も芽生えることはなかった。それどころかそれとは別の何かを感じた。苦いなにかを。

「今日は先にルーゲン師の講義だったのですが雨が降りそうな空模様なので講義も兼ねて散歩は如何でしょうかという流れになりましてね」

 顔をあげるとたしかにそんな雲の様子であり、ジーナは今の今まで空のことを見ていなかったのだと気が付いた。

「それはハイネさんがそう勧めたわけで?」

 我ながら声が低いなとジーナは思っているてハイネも少し驚いた顔をした。

「私なんかがルーゲン師どころかヘイム様やシオン様の前でそのようなことが言えるわけがありませんよ。ルーゲン師の提言からであり、ヘイム様の承諾とシオン様の認可という流れでこうなったのです」

 承諾? とジーナは提言や認可よりもそこに引っ掛かりを覚えた。そうか承諾をしたのか、そうかそうか。なにやら気を察し取ったのかハイネは機嫌良さげな声でジーナに話しかけてくる。まるで挑発するかのように。

「あのやり方はとてもいいですね。歩きながらのお喋りって話しやすいし聞きやすいんですよね。あっいまお笑いになられましたよ」

 ヘイムは声をあげてはいないが微笑んでいるのをジーナは見た、そうかそうか。

「お部屋の机や椅子で勉強もまたいいのですが、可能ならああいうのでやられたらよいのですよ。別に雨など関係なく。そうしたらジーナさんの負担も減らせますし」

「いや私の負担など……」

「そんなことありませんよね?」

 そうだ私はなにを言っているのだとジーナはハイネの顔を見ながら自制し向うの二人を眺める。

 あれは望まれた光景だと言わなければならない。私はそれを言わなければならない。お前はそう言うんだ、言え。

「素敵ですよねあのお二人は」

 先にハイネが言いジーナは言いそびれ、反動でか大きく頷いた。首が痛い。

「龍となるものを龍を導くものが手を取り歩く。あれこそが世界秩序の復元であり安定化というものです。分かりますかジーナさん? 私達は今、これから語られるべき伝説を目の当たりにしているということですよ」

 この子も結構にバルツ様のような信仰心が篤いのだなとそこを発見するも、その意見には頷くことはできなかった。私には、関係のないお話だ。

「つまりはそういうことだったのですね」

 急に声の調子が変わりハイネが続けた。

「あそこまでしたのだからそろそろルーゲン師の相手を真面目にしよう、とヘイム様がお思いになられたのでしょう。案外早かったですがそうであるのなら良いことですね」

 何が良いことだろうかとジーナは内心思うが、そうじゃないと自らに言いきかせ口を開いた。

「……私なんかよりもルーゲン師をお相手に散策したほうが効率も良いし将来のためになるしこれが本来の姿だな」

「はい。その通りです」

 ハイネは美しい声で以って今ある世界を肯定しジーナは衝動的に叫びそうになるも、抑えた。お前はいったい何を叫ぼうというのだ? 

「遊びは終わったということです。ジーナさんを介して行っていたちょっとしたお遊戯は、おしまい。あれが本来の姿とあなたは言われましたが、よくお分かりになられましたね。そうです、ルーゲン師は正確に龍身様の左側に立ち左手をお持ちになられている」
 
 私には到底不可能なやり方だなとジーナは思った。

「あれこそが正式な姿であり龍を導くものそのものです。ところが……あなたは右側にたち右手を持つ。ヘイム様を導くもの、とでもいうつもりでしょうか? あれは決定的に誤りなのですよ。ずばり言いましょう、あの所業は世界の非秩序化への多大なる貢献です」

 ジーナは自分の足が浮き上がっているような感覚に襲われた。ほんの少しの力どころか微風に当たっただけでもどこかに無限に飛んで行ってことしまうような浮揚感の中、ハイネの言葉が強く当たって来る。危ないやめろ。

「あれは著しく不適切です。ヘイム様は龍となられる方なのです。もはや左側の龍身部分が本体とみなされているのです。そうであるのにあなたは右手を、その手にとる。あれは龍への敬意が欠けたやり方でして……まぁ、あなたですから仕方がないですけど」

 かろうじて、ここで攻撃は収まりジーナはどこか遠くへ飛ばされずに済んだ。言い過ぎと思ったのかハイネは中途半端にその話をやめにし二人の実況に戻った。

「それはそうとですね、その龍から離れてあの御二人を見ますと、とてもお似合いだと思われませんか?」

 客観的に眺めて、というのは何かおかしいと思いながらもジーナは虚心に二人をそう言う目で見ると、ルーゲンは長髪の細見ないわゆる美男子であり自分とは対極にいるタイプ。

 一方のヘイムは少々痩せ気味ではあるもののごく普通に美しい方に部類に入るとジーナは主観を捨て客観的にそう判断しハイネに伝えた。

「まぁ美男美女の組み合わせに見えるな」

「そうなんですよ! そこは賛成してくれて嬉しいです」

 なんで嬉しいのかハイネはジーナの肩を強く押すように触れてきた。よく分からないが震えている。

「まぁもともとヘイム様はああいうタイプの方がお好みでしたからね」

「えっそうなのか」

「そうなんですよ!」

 顔を滲み出るをで光らせながらハイネは何故か嬉し気に言った。なぜそんな顔をするのか。

「そうなんです。ヘイム様の皇女時代は中々交友が盛んでしてね、お気に入りだったり仲がよくなるのはだいたい同じタイプでした。ソグってああいうスタイルの男性が多くて顔も女性的で整っているタイプが多いもので。中央の女もソグ出身の男を恋人にしたがりまして、って私はそこはちょっと違いますよ」

 急に早口でジーナは耳が追い付かないが、もっと聞きたくなる不思議な話であった。もういいと心は言っているのに。

「……っでヘイム様の男の友人たちってそんなタイプで」

 聞くやいなやハイネの瞳は奥から赤光が放たれジーナの眼を眩ませた。なにか閃いたとでもいうのか?

「はい! 典型的なソグの青年貴族達でしたね。その中には将来を検討された仲の方もいましたけれど、戦乱によってその話は無かったことになってしまいまして……あっ調子に乗ってこんな余計なことまで話しましたけど、こういう話をする女って最低ですかね」

「うん? あっあぁ、最低なのはもう分かっているから大丈夫だよ」

「なんです酷い。大丈夫じゃないですよ! 最低と言いますが私をこんな女にしたのはジーナさんのせいですからね。あなたこそ最低なんですからね」

 何でそうなるのか? こうハイネは口では怒っているのに目は嬉しさを隠しきれない様子にもジーナには理解できなかった。わからないことだらけ……いや違う。私は何も理解していないのだからわからないことに対して疑問など抱いてはならないのだ。

 それから再び二人の方に目を向けるため頭をあげると、目が合ったような気がしてジーナは大慌てで伏せた。ルーゲンではなく、ヘイムとだが、しかし何故隠れる?

 またわからない。わからないことしかない。
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