上 下
88 / 313
第一章 なぜ私であるのか

お前はこの戦いで命を落とすかも知れない

しおりを挟む
 ソグ砦とは二つの世界の境界に聳え立つものである。

 それはシアフィル草原へと繋がる門を表門と呼び、ソグ山へと繋がる門を裏門と呼び、長年難攻不落を誇り続けてきては、特にはなかった。

 中央とソグとは昔々の内戦以後は一心同体ともいえる関係であり両国間での戦いは有り得ず、この砦は専らシアフィル草原からの盗賊や馬賊の侵入を防ぐためのものであり、歴史あるものではあるが時には馬賊の強襲によって焼け落ちたりもしていた。

 この砦がそれでも良いとした理由のもう一つは冬の豪雪である。たとえ砦を落してソグに向かおうにも、冬の場合はその時点で立ち往生せざるをえないのが、この白い地獄である雪原地帯。

 確実に安全な一本道はあるがそれは雪で隠されそこから外れると滅多なことでは元には戻れないと誰もが口にする、この白銀世界。

 よって冬のソグ砦は逆に無知なるものがこの地獄に入ることを防いでくれる地獄の関所であるとも言えた。

 そしてもうひとつ逆に、シアフィル草原に面し表門は防御が堅硬であるが、裏門はソグから来たものをお迎えするためのものである性格上、防御が緩めに設定されていた。

 要は冬は守備兵も砦に閉じこもっている他なく春が来るのを待ち続ける……いつもであるのならそうであったが、守備兵たちは遥か彼方より聞こえるはずもない音を聞いていた。雪をかき分ける音、雪を踏む靴音、男たちの呼吸音、そう戦争が近づいてくる音を。

 加えて眼前に広がるこの異常気象のせいで守備兵たちの間に不安が広がり、そのような幻聴に襲われていると指揮官並びに上層部のものたちは考えようとしたが、やがて彼らの間にも不安が高まり幻聴が聞こえ始め、ここでこの時期ではほとんどありえない偵察部隊をソグ方面に送ることとした。

 彼らは出発し予定よりも早く帰ってきた。これだけでも砦側の上層部は驚いたが、そんな驚きは次の報告ですぐに忘れた。

 その報告を聞くやいなや、まず中央への連絡兵を即座に走らせシアフィル方面の門を内側からでも簡単に開けぬよう厳重に閉じさせ、それから今一度期待を込めて尋ねた。

「過ちは咎めたりはしないから、今一度よく思い出してみろ。雪山特有の幻覚や幻聴ではなかったか?」

 偵察隊長は激しく頭を振った。

「間違いなくソグの賊軍です。それに自分は見たのです、バルツの馬賊旗を、二番隊の旗を」

 そこかしこから呻き声が起こった。ここにいるものたちの大半はソグ山の龍戦によってここまで後退したものである。

 つまりはあの龍戦の最終段階において押し戻されたものたち。

「どうぞ大至急ご命令を。あの金色が来ます」

 苦悶の表情を浮かべながら指揮官たちは覚悟を決め会議を始める。浮き足立つ砦に向かうものたちの頭上には雪が相変わらず強まらずハラハラと頼りなさげに舞っていた。




 予定地に到達したバルツはその場で祈り伏せ言葉に出して感謝を捧げた。龍身に、である。

 バルツはこの雪がなにによってどの力でもたらされたのか、この時にようやく確信を抱くことができた。

 平伏し仰ぎ大いに勇気づけられたバルツは設営された本営に軍師たちと戻り攻略の最終確認を行った。

「後方にいるソグの上層部の連中はこれを楽な戦さだと思っているようだが、そんな気分などこの前線には、ない」

 思い出しながら内心毒づき計画書類に目を通す。

「だいたい確実に勝てると見込まれた戦いを落すことは許されないことだ。勝てるところで勝てないとなると戦局の挽回が相当に困難となる。つまりはこの戦いはもとより負けられないことだ」

 書類を読み終わり隊長を呼ぶように指示を出し、その待つ間にこの戦いの可能性を示唆されてからこのかた、数え切らないほど考え続けてきたこの先をもう一度シュミレーションしだした。

「ここを速やかに落せないということが負けとなるが、その場合はこちらの戦力の低下が確実でありそれを回復させるのは、ソグの人員では早くはできないだろう。その間に逆襲され出したら、来春に攻勢を受けることとなったら……」

 想像は暗く重くなりがちであり、では中止を考えてみてもそれは

「では来春ならどうかと言われれば、それは分からないとしか言えない。犠牲者は多くなるが勝つには勝つだろう。そのために春用の訓練をし続けていたのだから。この練度がまだ低い冬用の訓練を施した兵隊で果たして攻略はできるのか? 戦略上考えたらここで成功させるのが最上だとは分かる。だが春まで戦争が無いと見込んでいたものたちがいるんだ、兵隊たちのなかにはな。それなのにこの白い世界に連れ出し、戦わせ、そして死なせるのだ。俺の命令によって」

 本営の中に見知った顔のものたちが入って来て全員揃ったところでバルツは最後に思った。

「賽は投げられた。もうくよくよするのはおしまいだ。俺に今必要なのは不安に満ちた泣き言ではない。決心がついた顔であり、そして自信をもって断言による命令、これこそが兵隊に死を命じるものの、義務だ」

 一度閉じた瞼が即座に開き前に立つ一人一人の男達の顔を見る。自分の言葉によって死を与えるものたちの顔を、バルツは忘れないようにした。

「予定通りこのまま攻略戦を発動させる。突撃分隊である諸君らの活躍によって作戦成功の成否がかかっている。この戦いの運命は各々の隊の勇気と根性に預けた。龍のために存分に戦ってくれ」

 一同は返事として龍への忠誠を大声で以って唱えたが、一人だけ相変わらず返事をしないものがいた。二番隊のジーナである。

 昔バルツはそのことで散々叱責をしたが今ではもうやらなくなった。無駄すぎて疲れるからであるが、今日のはいつものとは違った感じを受けた。

 いつもならこの瞬間は無感情で光の無い目をしているのに、今日のは無感情にはなれずにどこか苦し気であり、なにかを言いたげであった。

 そうか、やっとかとバルツは心中で唸った。やはり龍の護衛にして良かったと。あいつの心中ではいまはきっと……

 会議の最後に突撃分隊長を後ろの番号から一人ずつ前に呼び出しバルツは最終指示を出しそして準備に向かわせる。

 ジーナは二番隊であるために最後までその光景を見続けるのだが彼はこの時が好きであった。

 一人一人の隊員の名を隊長に言わせ自らの使命を宣誓した後にバルツが指示を伝え解散。戦闘前の最後の儀式であり、彼にとってはそれが将たるものの責務なのだろうと。

 それでいい、とジーナはその顔を見ながら思う。慈悲深いために誰よりも傷つくものが人に死を直接命令する。私達はそれでいくらかの納得をする。

 誰かがその役目を受け責を取らなければならない。あなたはそれを十二分に取ろうとしている。今のその兵隊の死を超越し勝つことしか頭にないという表情という仮面の下には、涙を血の色をした涙を流していると。

 いくら隠そうともそれぐらいのことは兵隊なら誰でもわかる。その心に兵隊は察し自分の命についていくらかの価値があることを意義付けがされたことを、知る。あなたが教えてくれたことだ。

 儀式は後ろ順々に進んでき最後の二隊だけが残ることとなった。一番隊が龍の御軍の最精鋭でありシアフィル解放戦線の部族関係者の隊であり、二番隊は懲罰的な部隊であると同時に完全志願の隊という奇妙な隊であるため、この隣りあわせが気にくわないのか気にくわないことなのか、一番隊は不自然に間合いを取ろうとしているのであった。

 あんな部隊は最末尾の番号を与えればいいものを、と陰口が叩かれ訴える声も上がっているというがバルツ将軍が受け流しているという噂があった。

 元々この隊は当然の如く最末尾の番号を振られていたが、戦いに次ぐ戦いでの活躍によって番号が上がり続けついにここまでやってこれたという思いがあるも、そういう制度にしそれを許可したのが他ならぬバルツであった。

 普通の並の将軍ならこんな部隊はどれだけ活躍しても使い捨てであり、待遇を絶対にあげることはしないことは誰もが分かっていた。好待遇にするほうがおかしいのだ。

 しかしバルツは合理的かつ最適格に部隊の入れ替えをした。全ては勝利のために。志願し活躍すれば望むものが与えられる、命を危険にさらす代償としてこの人は私に、龍へと近づけてくれる、と。

 やがて三番隊の隊長が去り二番隊隊長ジーナの番が回ってきてバルツの前に立つ。厳めしいその表情に向かって名を告げ隊員の名を諳んじる。

 その名を忘れることはあってはならないという無言の圧力のもと感じる、最もその緊張する時を終えジーナは二番隊の使命を宣誓する。

「我々二番隊は砦中央櫓に攻め上がり、制圧いたします。この度の御配置を感謝いたします」

 そこは砦防御の要所であり、難所中の難所であるのは誰にでもわかっていた。バルツは表情を一切変えずに、命じる。

「中央櫓の制圧を見込んで裏門の破壊部隊を突っ込ませる。失敗が許されないからこそお前たち二番隊を配置した。必ず制圧することを頼んだぞ」

 返事をし去ろうとするとバルツが引き留める。

「ジーナ。今はまだ信仰心が足りないために言えないのだろうが、突撃する前には何かしらを言うようにな」

 その時だけバルツの厳めしい表情が消えていた。

「お前はこの戦いで命を落とすかも知れない。言わなかったことで悔いを残すな、いいな」

 すると同時に二つの名がジーナの頭のなかで思い浮かんだ。どちらの名を言うべきなのか、何故言わなければならないのか、ジーナには分からないまま、戦いが始まる。
しおりを挟む

処理中です...