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第二章 なぜ私ではないのか

『印が欲しい』

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 そう告げた女のその瞳には怒りの色が宿りだした。金色ではない自分と同じ色の瞳で以って。

「君は呪われている。かつてもそしていまもだ。大切なものを全て捨て自分の死すら受け入れてまでも、この名を求めているだなんて。だから印は君を選ばなかった」

 無心のまま吸い込まれる様に男が近づいていくと女は今度こそ抜刀し切っ先を男の顔の前に突き出した。

「叔父さんの無念や義兄さんの悲運とか君は他者の業を背負い過ぎている。自分を失い忘れるぐらいにね。だから君は完全なる龍を討つものとなれたはずだ。歴代の他の誰よりも。候補者は君以外の誰もいないのは衆目を一致するところだった。僕以外ならば、だ」

 剣は喉元にかかり二人の視線は一致する。互いに同じ色、誰よりも知っている色、その本人よりもずっと知っている同色、だが今は非なる色彩。私たちはもうひとつではなくひとつにはなれない。

「けれども候補者がもう一人、この僕がいた。だから僕はジーナになることを望み、印もこちらを選んだ。理由は君には分からないだろうが力よりもその精神からだろうね。何はともあれ印は僕の願いが正しいと認めてくれた」

 濃い緑色の瞳。男はこれまで幾度となくその色に不思議な美しさを感じてきた。いまも、また。

「これを君は裏切りとみるだろう。そうだ僕は裏切った。業に囚われきった君を救うためにね」

 瞳の色が微かに薄く変わるも剣先は震えずに喉元を捉えきっている。切っ先を払えば喉笛は死の音色を吹き鳴らす。

「君が自分はジーナではないと受け入れ、僕をジーナだと呼べたのなら、僕たちの方を選ぶことができたのなら……この世界にいることができた」

 剣先は小刻みに震えだし瞳の色は限りなく薄さへ移り変わり見るものの魂を吸い込もうとするほどの透明さへ美しさに男の意識は流れていく。もう言葉のなかに入っていくだけ。

「だけど君は選ばなかった。もう手に入らないものに固執し呪いを身にまとった。全てを捨てたのは君だ。そして三年の時は君を変えず違うものになれず、ここにあの時と同じ心のまま、いる……僕の負けだ」

 女のその生気を失うほど澄み切った眼から涙が溢れだそうとしているのを男は、見る。

「だけどさぁ……ねぇ僕を勝たせてよ」

 溢れ溜まった涙が頬から地へと向かって長れ落ちて行く。

「お願いだ、泣かないでくれ」

 こちらが? と男は自分が泣いていることにはじめて気づきながら、女の頬にまた一筋の涙が伝い流れて行くのを見た。

 泣いている? 当然だ、と男はまず思った。女と同じ色の瞳をしているのだから、泣いているのなら、自分も泣くのだろうと。

 同じ量を同じタイミングを流すのだと、それはごく自然なことであろうと。そういう風に育ったのだから。いつも共にいたのだから。

「拭ってくれ」

 男は前に出ようとすると同時に剣は戻され代わりに女の手が伸びてきた。

 互いの腕が交差して指先は指先は目尻に頬に。拭うは涙と覚えるその痛み右へ左へ。同じ動きをし同じ量を拭ったのだろうと男には分かった。あちらも分かっているはずだとも、分かった。

「痛み苦しもうが傷つけようが、それが俺なんだ。知っているはずだ」

「知っているよ」

 女は言い捨てる。

「すまない」

「何が済まないというの? 口ばっかで改めようとしない癖に。すまないとそう言えば済むと思っているところは嫌いだって毎回言っているよね」

「分かっているが、俺は変えようがない」

「そういうのを馬鹿だと言うんだけど、いいや、君だし。諦めている」

 先に女の指から手に腕が男から離れ男はあとに続き、それから女は前を向いた。

「僕はただ君の呪いを解きたかっただけなんだ。だけど君は呪いから解放されずにこの地からもっと遠くに去り、東の地に行っても僕の名をかつての名で呼び続ける。もはや救い難く呪われた魂……呪身め」

 女は言葉を切り、止める。続く言葉を流れる時を止め、間を作り、心に刻ませる。この時を。

「そうだろ」
「そうだ」

 答えると男は自分の胸の鼓動が聞こえ、それを以って時が動き出したことを知ったような気がした。

 激しき月光である今宵、あまりにも多くのものが動き出していると男は思いながら女と同じ方向に顔を向ける。

「……匂うね。これはもうあの龍が来るな。こちらの様子を伺っていたようだが、近づいてきている。正面突破を狙ってくる」

 女はそう言うものの男にはその気配も匂いは感じられなかった。

「今までにない新種の毒龍だ。眷属の毒でさえうちの村の薬学では対応しきれていない。こううなると本体の龍の毒は計り知れない」

 男は足を前に出そうとすると女の叱責が飛んできた。

「前に出るのはジーナだ。だから君はサポートとして後ろに立て。君が認めず呼ばなくても、この掟は守ってもらう、いや守らせる」

 男は思わず女を見上げた。背の高さは男の方がずっと高いのに見上げる。男は前に出した足を一歩戻らせた。

「それに大丈夫だ。印の力は毒を通さず浄化させる。それは君がよく知っているだろ」

 女が代わって前に出ると男はその背中に尋ねた。

「ひとつ教えてくれ。さっきの話の一部は、嘘なんだろ?」

「嘘じゃない。僕は願ったよ、願ったんだ。だから叶った、それだけだ」

「だがその名になりたいと思ったことは」

「しつこい。過去に囚われた死体となるのなら、もう喋るな」

 男は反射的に瞼を閉じもっと暗い闇を見ようとした。今よりも暗い所へ彼女の心よりも深い闇へ。

 すると森が鳴き出した。木々が砕ける音が地鳴りと共にこちらに向かってくる。女の背中は瞬間混乱の動きを感じさせ、男は叫んだ。

「あれが毒龍なのか!」

「違う! 三頭目だ!」

 もう一段重ねられた変事に男が呆けると女が呼んだ。

「落ち着け。三頭がどうした! 有り得ないはずの二頭同時が出たのならこうなってもおかしくはないだろ。合図を出すから、一緒に行くよ」

 男は指示に従い剣に手を掛け構え、その合図を待った。

 言葉に従うことによってこんな状況であるのに男は頭の中で過去の記憶が廻り出す。

 二人で三人でいるときの合図はいつも自分が出していた、だが時々、何かの拍子で緊急事態に陥った時に、真っ先に指示を出すのは自分ではなく、彼女であったと。

 今のその声はあの時とまるで変わりなく自分の動きも変わりはなかった。

 手前の森が動き龍が姿を現した。それはよく見る黒い龍であり、新種の毒龍には到底見えないものであった。

 一直線にこちらに向かって駆けて来るその龍、いまだと男が思うと同時に女が言葉を発しながら地を蹴った。

「――」

 合図とは自分の名であり、久しく呼ばれなかった命であり、合図に導かれるように――も駈けた。

 前方より女がその緑の瞳から金色の光りを辺りに眩かし、印に熱がこもっているのだと後ろから分かるぐらいに空間を歪め、そのなかへ翼が生えたかのように跳び、翔んだ

 龍は光の呪縛によって動けず女が振り下ろす剣による数度の攻撃の間に、その光景を目の当たりにしながら遅れて跳ぶ男の心は一つだった。

 それはいつもの呪いであった。自分があの印に選ばれていたら、あの彼女も、自らの名も命も失わずに済んだのに。

 この手にあの印があれば、男は自らの手の無傷を恨みながら呪詛で心を満たし違う存在になった女を思う。

 印もあの娘も、失いたくなかった……いや違う。ひとつだけだ。

 女の剣がまたもう一度龍の顔を斬り、一時的に光が消えた。

 思うことはそのひとつ……印が欲しい。

 男がそう願うと同時に右の森から別の龍が口を開いて現れ、女をジーナをその口と牙で以って噛み喰らいついた。
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