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第3部 私達でなければならない

マイラとの会談

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「お前が龍を導くものとなることは確実だろうな」

 遂に待ちに待ち続けた言葉を聞いたルーゲンは涙が、出なかった。むしろ止めた。

 それはまだ早い。

 一つの可能性が開けたに過ぎないのだと自分に言いきかせる。

 打ち合わせとしてルーゲンはマイラ卿と中央周辺の街で会うこととなっていたが、この話が出る予感はあった。

 大切な話があるとマイラ卿からの手紙の一文はこれのことだとルーゲンは予想した。

 そうであるからそれを読んだその時からここまでずっと、自己抑制に努めた。

 その言葉を戴いたとしても感情を出すな。出してはならないのだと。

 私情を漏らすな、それは導くものとして相応しくないものだ。

 龍となるものも選ばれたその時は感激などしたりはしない。厳粛な面持ちでこれから待ち受ける重圧に怯え震えながら受諾するものだ。

 龍の騎士だってそう。偉大なる使命を背負うことに対し喜びよりも苦しみの方が勝る。

 使命とはそういうものであり求めるものではない。

 いつの間にか降され高貴なる義務に生きるものとなるのだ……と何度ルーゲンは思い心に決めたか分からなかった。

 ここでもそれが成功し自制心が勝ったと思いつつその口を開こうとする、と涙が一滴落ちたことが自分でもわかった。

 慌てて拭うと、指先は濡れてはいなかった。すぐに乾いた? そうではなく勘違い? まぼろし?

 マイラ卿がこちらを見ていることにここでやっと気づきルーゲンは後悔をした。瞼など擦らなければよかったと。

「涙か?」

 マイラが不思議そうに尋ねた。やはり流れてなどいなかったのだ。

「いえ目にゴミが」

「フフッ古典的過ぎるぞ。まっお前も散々苦労したのだから今までのことを思い出して泣くのも良いだろうな。そういう場合で泣くのもまた男だ。苦労が報われたということだからな」

「報わられるために命を賭けてきたわけではありません。全ては龍のために」

「高僧ルーゲン師としては完璧な受け答えだな。だが俺の眼は大分お見通しだぞなぁルーゲン」

 マイラが悪戯っぽく笑顔を向けてきた。これからきっと驚かせてくれるのだろうなとルーゲンは察した。

 この人はこうやって人を驚かせるのが好きな人だから。

「逃亡中だったあの大臣とその長男は自決したぞ」

「……そうなりましたか」

 そうだろうな、とルーゲンは思いながら興味なさげに返事をすると、マイラの笑みは濃く深くなった。

「笑っているぞルーゲン」

 言われて今度は口に手を当てるも口は広がっていないし目尻も垂れてはいない。

「眼が笑っているとでも言われるのですか?」

「そんな意地の悪い読み方などしない。そもそもお前は笑っていなかった。ちなみにさっきは俺は涙など見てはいない。仕草で勝手そう判断して境遇でそう言ってみただけだお前はあまりそういった感情を表に出さないからな」

 そんなことは、とルーゲンは言う前にマイラはそれを制した。

「いやいや言いたいことは分かってる。お前は不愛想ではなく常に微笑みと温かな眼差しで人に接している。だが俺はそれは内なるものを隠すためのものだと見ている。言っておくがこれは悪いことではないしその内容を俺に打ち明けなくてもいい。内に秘めているものがないぐらい空っぽなものなら悲しいしな。けれども俺はお前をそういうものだと見ている、とこれは俺からの打ち明け話だ。これから国政に関わる新たな相棒としてな」

 隠し事をしていることを知っている、か。こういうところはやはりこの人には敵わないなとルーゲンは長い息を吐いた。

「するとマイラ卿はこういう場合になったら歓喜の涙を流し雄叫びをあげれば良いとでも」

「俺は許す、がそれはルーゲン師は許さないのだろうな。お前はソグの高僧ルーゲン師という存在になりきり、そして龍を導くものとなる」

 そうですとルーゲンは心中で同意した。選ばれず私生児として僧院に預けられたものからそういうものとなる。

 自分の人生とはそういうものであり、そうでなければならなかった。自分でなければならなかった。

 あの日に自分は龍と会ったあの時から、死の淵に落ち行くあの一人の皇女に龍が宿ったその時から……

「お前ならなれる。俺は誰よりも賛成する、とにかくおめでとう」

 肩を叩きマイラは机の上に置かれた杯を呷りルーゲンも倣った。

「その龍を導くものは、龍の婿となるに相応しいですよね?」

 ルーゲンは深く踏み込んでみた。その反応が見たかった、仕返しともいえるもの、期待通りにマイラの顔が強張る。

「……俺はそう思う」

「すると思わない人もいる、ということでしょうか?」

「そうだな」

 杯を机の上に置くとマイラは重い雰囲気を放ちだす。一種の二重人格的なところがあるなとルーゲンはこれを見るたびに思った。

「こちらには色々な報告や噂が届く。例えばお前が龍身様との仲が良くなっているといった話とかがな」

「僕などにお目をかけて戴き光栄であります」

「いつもの謙遜だな。まぁそれは事実だとしてもだ、実は龍身様と最も近いところから、とあるしかるべきところからはそういう報告は来ていないのだ」

 しかるべきところ……ああシオン嬢の隠語だとルーゲンはすぐに察すると共に同情もした。

 この人は婚約者には滑稽なぐらい腰砕けで弱いというのがこれまたおかしなところで。

「そのしかるべきところからは、こと詳細な報告がいつも届かれるのでしょうか?」

「あれは筆まめだからな。かなりの長文がこちらに届く。そうであるからそこの欠落が気になってな」

「……こうもう申しては何ですが龍の婿とそのしかるべきところはどのような関係があるのでしょうか? 龍となるものは自分の相手は自ら選ぶのが慣例となっていますけれど」

「いつも、ならな。だが今回の龍のケースは通常とは違う。これはお前が龍の一族の一員となる可能性があるから言うが、あのヘイムの……」

 誰の名だ? とルーゲンは首を捻るとマイラが言い直した。

「あっ間違えた……気にするな。そう龍身様の話だ。結論から言うと今回の婿の件はそのしかるべきところとの合意が無いと婚姻は事実上不可能だ。しかるべきところの母親と龍身様の叔母は同一人物であり両者は親戚関係。もちろんそれだけではない。その叔母が父親が亡き後の龍身様の後見人となっていてな」

 何故母親がそうならなかったかとはマイラは言わずともルーゲンは重々承知であった。

 地方貴族の令嬢が中央に上京した際に見初められ……という陳腐な話をする必要もないし聞くこともないだろう。

「たしかその叔母上はあのソグ撤退作戦時に別れられましたね。見事な最期であったと」

「そうだ。砦の一室に残り時間を稼いでくれたという、実にあの人らしいと聞いた時は納得したものだ。その別れ際に後見人の権利をそのしかるべきところに全て預け託したとのことだ。一応表向きは俺が後見人面をしているが肝心なところは向うが何もかもを有している。お前ならソグの婚礼に関する風習を知っているだろう?」

 ルーゲンは記憶の片隅にそれがあることを思い出した。

 ソグの習慣では娘の婚姻は後見人の同意が絶対に必要となる、と聞いたことがあると。

 いまでは半ば形骸化されているもののそうか貴族間ではまだそれが強固に残っているのか、とルーゲンは息苦しくなった。

「事情が事情で、あのようなことをしてくださった後見人の権限は神聖にして不可侵だ。こちらとしてもそれを最大限に尊重しなければならない。それにしてもなぁルーゲン」

 雰囲気はより重く暗さも増した。シオン嬢のことが絡むと憂いがここまで深くなるとは、とルーゲンも引き摺られてか身体に重力を感じた。重々しさが両肩にかかる。

「なにか原因があって嫌われたりしたのか? 俺が見る限り可もなく不可もなくといった関係にしか見えなかったが。しかもあれはお前みたいなタイプを毛嫌いするものでもないのだがな」

 最後の障害が彼女とは……まさかこのような関係になるとは、とルーゲンは空咳を一つして身を軽くしようとした。

「あの方は仲の良い知り合いが自分から少しでも離れることを凄く嫌がるタイプだと僕は見ております」

「全く以てその通りだな」

 マイラは深く頷いた。

「そうであるので龍身様に近づき婿になろうと画策している男を嫌うのは道理ではございますね」

「道理だな」

 苦笑いしマイラは溜息をついた。

「そんなことだとは思っていたが、私情がいつまでたっても抜けきれないのもまことにあれらしい。ただの講師であった頃は何も問題が無かったからな。ルーゲンには問題は無く問題はあちら、と。しかし理由は簡単だが、根本的に解決しないなこれは」

「時間が解決してくれるかと僕は思います。それはつまり龍化さえ進めば龍の意思には抗いようが無くなるかと」

「うむ、そうかもしれないな。いま両者は意思の力が均衡した状態であり、反対の力は弱まりはすれ強くはならないだろう。何より他にルーゲン以外の候補はどこにもいない、この一点で決まりだろうしな」

 他の男の候補、と聞くとルーゲンの頭の中は一人の男の顔が浮かんだ……

「あのマイラ卿。お手紙にはジーナという名は書かれておりますか?」

 こんなことを聞いてどうするのか? と思いつつもルーゲンは尋ねた。緊張感が身体中を駆け巡る。

「ああ書いているぞ。例の龍の護衛の男だろう。何でも近々復帰するとのことじゃないか」

 もう既にマイラ卿に話をつけておりここからひっくり返すことは無理だなとマイラは理解した。

「俺は遠目から見ただけだが戦場の英雄で武骨そのもののようでいるが、彼女の手紙だと中々妙なユーモアを発揮する変な男らしいな。あれに新しい男の友達ができて俺は少しほっとした思いだ」

 自分に圧し掛かる重さの比重がそのぶん減るとでもいうのだろうか? 元気過ぎる妻がいる男の気持ちはよくわからないなとルーゲンは思った。

「そんなことを聞いて来てどうした? 気になるのか?」

 気になる? ルーゲンは気にならないと答えようとすると、どこかから恐怖が湧いてきた。

 そうではない、と指摘されたら、なにか仕草による合図が出たら、それは事実になってしまうのでは?

 そもそも気にしていないと答えることに、何故抵抗があるのか……

「はい、気になりますね。彼とハイネ嬢がとても仲が良くてです。もしかしたらそのことを書かれているかと思って」

「おっそうなのか。ちっとも重なりも交わりを感じさせない組み合わせだな。彼女も趣味を変えたのか? ちと変わりすぎだか、いや、そのことは手紙には書かれていないな」

「そうでしたか。ここだけの話あの御方はその二人の交際も反対し認めていないどころか妨害もしているようでして」

「なんということだ。しょうがないやつだな。その二人はそれに対してどうしている?」

「抵抗し頑張っております」

 ルーゲンがそう言うとマイラが笑った。今日一番の音量で楽しげに。

「それはそれはやるじゃないか。あれに抗うとはかなりの仲にまで発展していそうだな」

「お一人を除き誰もが認める相思相愛というところでしょう」

「素晴らしい。しかるべきところが反対しようが俺は賛成するとしよう。あのハイネ嬢もようやく落ち着くということか。しかしあの彼女がそういったタイプとな、意外だったが上手くいくといいが」

「正反対同士の方が上手くいくという例かもしれません」

 正反対の? 自分の言葉であるのにルーゲンはすぐに否定したくなった。正反対同士であるから引かれ合うなどそれは作り話だと。

「そうか? あまりに違うとさすがに上手くはいかないとは思うがな」

「僕も、そう思います」

 そうでなければ困るのだ。

「おいおいお前はどっちなんだ。まぁ自分の言葉を否定しないとそちらの関係も良くは無いだろしな。昔はともかくとして龍身様となられてからは落ち着いて至極大人しくなったものだ。まだシオンとは昔のようにふざけあいじゃれついてはいるが公務については至極真面目でそこは誰も心配はしないほどだ。繰り返すが昔なら考えられないほどにな。そういう御方であるのだからルーゲンと傾向がぴったりであり問題は無いだろう」

 ありがたい言葉だとルーゲンは感謝の言葉をそのまま述べた。そう、不安要素などない。

 龍化が進んだことによって導師と呼ばれだしこちらに向き合い出している。あの日の言葉と約束通り。

 あの時に龍は言ったのだ。お前は導くものであると。その約束はこれから果たされていく、間違いなく。

「聞き忘れていたが龍身様とそのジーナの関係はルーゲンはどう見る?」

「えっ?」

 大きな声と共に心も漏れだし、すると突発的にルーゲンは怒りを覚えた。

 それは眼の前にいて質問してきたマイラにではなく、自分の心を瞬間的にでも剥き出しにした、その存在に。

「あっはい。龍身様とジーナの関係は問題ありません。龍身様もジーナの冗談やカルチャーギャップを楽しまれておりますし」

 微笑みながらそう答える前にマイラの表情は怯みがあったが、すぐに戻る、今のは見間違えであると判断したのだろうか。

「シオン同様に面白がっているのなら良かった。なら安泰だな」

 安泰? いいえもう彼は……使命を果たしました……あの中央の中心において、彼はもはや……

「そうですね。ですけれどもマイラ卿。ジーナは……」

 ルーゲンは今日初めて笑顔をマイラに見せた。
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