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夏樹遥編

海の見えるこの町で、夏樹との出会い(1)

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私が遥と出会ったのは、私がこの喫茶店で働き始めてからのことでした。

 私は、黒と契約をして、始めた喫茶店の開店準備として、町の人たちに挨拶まわりをしたり、食材の調達先を探したりしていました。

 この当時は私が出来る軽食と、私の好きな紅茶を提供するお店にしようと考えて、色々な材料を試していました。

 その日は、料理の試作をして、ミントちゃんたちに食べてもらった後、私の分の昼食がないことに気がついて、珍しく外食をすることにしました。



「黒。どこかこの辺りでおすすめのお店はありませんか?」



「う~ん? そうだねぇ。一度葛城には行っておくと良いかもねぇ。この辺りなら間違いなく一番美味しいご飯を出してくれるよ~。僕もお腹空いたし行こうかな。ついてくるといいよ~」



 そう言うと黒は、黒猫の姿に戻って、喫茶店の外へと歩いていきました。

 私はおいていかれないように、お財布とスマートフォンだけを持つと、黒の後を追いかけました。



(黒、葛城っていうのはどんなお店なんですか?)



(ん~? そうだねぇ。十人くらいお弟子さんがいて、寡黙かもくな大将さんが居る小さな割烹ってところかな?)



(割烹ですか……。そんな高そうなところ行ったことないですよ……)



(大丈夫。僕が食べさせてあげるよ~。就職祝いってところかなぁ)



(む。それは素直に嬉しいですけど、黒ってお金持ってるんですか?)



(当たり前だよぉ。僕はこれでもあの喫茶店のオーナーだよ? お金持ってなかったら人も雇えないでしょ~?)



(ふむ、確かに)



 私は黒の話に納得をすると、空を見上げました。空にはわた雲が浮かんでいて、潮風が前髪を揺らしました。視界をちらつく茶色の前髪がすこしだけ気になって。



(そろそろ、髪を切りましょうかね)



(ん~? 切るなら前髪だけにするといいよ~。ヒナはハーフアップが似合ってるしねぇ)



(ん。そうですね。前髪だけ整えますか)



 黒はなぜか私の今の髪型を気に入っているようで、たまにこうして似合ってると言ってきます。私自身、気に入ってるので褒められて悪い気はしませんでした。



 そんなやり取りをしながら歩いていると、黒が立ち止まりました。どうやら、目的のお店に着いたようです。



(それじゃぁ僕はちょっと姿を変えてくるから、先に入っていてね~。『黒』いまのなまえだと分からないから、喫茶店の黒猫の紹介だ~って言えば分かるはずだから~)



(黒猫で通じるって大丈夫なんですか……? 正体がバレてしまっているのでは?)



(ここの大将はうちのお世話になっているからね~。もう知ってるんだ~)



(なるほど。そういう繋がりでしたか)



 そう言うと、黒は物陰の方へと歩いていきました。

 黒がさらっと言っていた通り、黒は私と契約するまでは別の名前がありました。

 猫神は、マスターと契約をする時に『名付け』をされることになっています。

 これは、名前で力を縛るというしきたりらしいですが、なんで力を縛るのかは聞いても教えてはくれませんでした。



 暖簾のれんをくぐって店内に入ると、落ち着いた雰囲気でカウンターとテーブルが数席といった様子でした。こういったお店に入るのが初めての私は、勝手に席に着いて良いものかどうか、立ったまま悩んでしまいます。



 私が立ったまま悩んでいると、ひと目でここの大将さんだと分かる方と、目が合いました。



「……」



「あ、えっと……」



 ただ見つめられるだけなので、私はますますどうしたものかと思っていると、厨房であろう奥の方から、若い一人の男性が出てきました。



「あっ、いらっしゃいませ。お一人様ですか? 大将、お客さんが来てるなら席を案内するくらいしないと……」



「……お前に任せる」



「あ、あのえっと。喫茶店の黒猫の紹介でして……。彼女も一緒に来ているのですが」



 私がそう言うと、大将さんは少しだけ目を大きくして、私を見ました。



「黒猫さんの紹介……。そうか、あんたが新しい店主か。カウンターに座ると良い。右の端が黒猫さんのいつもの席だ」



「あ、ありがとうございます。あの、まだお店も始められていませんけど、よろしくお願いします」



「あぁ」



 それだけ言うと、大将さんは厨房の方へと入っていきました。残された若い男性は、頬をぽりぽりと掻きながら話しかけてきました。



「えーっと。うちの大将は見たとおりちょっと無愛想ですけど、いい人なんで、その……」



「あぁ、いえいえ。大丈夫ですよ。お気遣いなく。えっと、メニューとかはどちらに?」



「あー、大将が厨房に入っていったんで、多分お任せでコースが出てくると思うので、そのまま待っていただければ」



「あぁ、そうですか。わかりました」



 私は、少しだけ自分で選ぶ時間も好きなんですけどね、と思いましたけど、きっと黒が食べている定番でもあったのでしょう。自分だけで来られるようになったら、その時に色々見てみたいと思いました。



「ヒナお待たせ~。大将には挨拶できた~?」



 そんな事を考えていると、黒が人の姿になって戻ってきました。



「はい。ご挨拶は済みましたよ。お料理はお任せだそうで」



「うんうん。僕はいつも大将のお任せだからねぇ」



 黒がにしし、と笑うと若い男性の頬がほんのりと赤くなるのが見て取れました。



「あ、あの。いらっしゃいませっ。その、俺、夏樹といいますっ。ここで修行させてもらっていて……」



「うんうん。知ってるよ~。若いのに大将の秘蔵っ子なんだから、凄いものだよねぇ」



「いやっ! そんな、俺なんてまだまだで……」



 私は、そのやりとりを見ながら、なんだか微笑ましいものを感じました。



「夏樹。サボってんじゃねぇ。さっさとこっち来い」



「あっ、うっす!」



 厨房から大将さんに呼ばれて彼も厨房の方へと入っていきました。入れ替わるように、着物姿の女性がカウンターに出てきて、柔らかく微笑んで私たちに話しかけてきました。



「いらっしゃいませ。黒猫さん。少し振りですね? お元気でしたか?」



「うんうん。元気だよ~。女将さんも元気そうだね~」



 やはり、古くからこの土地に居るだけあって、黒は町の人たちとは顔馴染みのようです。町の人たちの中で黒の喫茶店は『猫神様のお店』と認識されているので、黒が猫神だと分かっていても何も言わないのでしょう。



 少しすると、料理が運ばれてきました。前菜、お刺身、焼き物と続いて、締めはお蕎麦でした。



「うん。どれも相変わらず美味しいねぇ」



 黒がにこやかにそう言うと、厨房から大将さんが出てきて、最初の印象からは想像できないような柔らかい笑顔を浮かべて言いました。



「黒猫さんに半端な物は出せませんから」



「ふふふ、そんな気にしなくても良いのにぃ。それじゃ、今日はここらでお暇するね~。ヒナ、行くよ~」



「あっ、うん。あの、ごちそうさまでした。とっても美味しかったです!」



 黒は満足そうにお店を出ていくので、私はお代を払うのを忘れているのでは。と思って黒を慌てて追いかけました。



「黒っ、黒! お金払い忘れてますよ! これじゃ食い逃げに……」



「あはは。僕がそんなことするわけないでしょ~? ちゃんと、女将さんに渡してあるよ~。大将に渡しても返されちゃうからねぇ」



 私は、それを聞いて一安心しました。

 黒は猫に戻るね~。と言ってまた、お店の裏の方に入って行きました。



「私も、早く喫茶店を開く準備しないと……」



 私がそうつぶやくと、黒からのテレパシーが入りました。



(ヒナ~。ちょっとこっちの方に来て~)



(ん。まだ慣れませんねこれ。すぐ向かいますね)



 契約を結んだ相手はある程度の位置が分かるので、私は黒の気配を感じる方へと進んでいきました。すると、そこには既に黒猫に戻った黒がいて、その翠の瞳は前方をじっと見ていました。



「黒?」



「静かに。そこに隠れて、向こうを見てみなよ」



 いつもの間延びした喋り方ではない黒に驚きながらも言われたとおりにしてみると、そこには葛城のお弟子さんであろう人たちが三人集まっていました。



「くそっ! 夏樹の奴まだ十九の癖して俺たちを見下しやがって! なにが秘蔵っ子だ!」



「俺たちが何年間ここで修行してると思ってんだあいつ……。兄弟子をさしおいて生意気なんだよ……」



「ちっ。むしゃくしゃするな。いっそ一回あいつシメてやるか?」



 私は不穏な会話に身を乗り出して、止めようとしましたが、黒はそんな私を見ると、諌めるように言いました。



「ヒナ、今ヒナが出ていっても逆効果だよ。今はまだ、見守るしかない」



「でも、あの人達多分本当にやりますよ……?」



 私は、先程から眼を使って三人を見ていました。三人からは赤黒い色が視えて、彼らが本気で、あの夏樹さんを疎ましく思っていることが伝わってきます。



「ヒナ、落ち着いて。僕がヒナを呼んだのはあの三人を止めたいからじゃないんだ。人の心が弱る原因がどんなものか、知っておいて欲しくて呼んだんだよ」



「それじゃあ、このまま放っておくって言うんですか?」



「今は、ね。僕たちに出来るのは心を癒やすことだけだ。その原因を止めることは出来ないよ」



 私は、そう言われて、何も言い返せなかった自分に悔しさを感じて、唇を噛みました。

 そんな事をしている内に、彼らは裏口から店内へと戻っていきました。



「夏樹さんでしたか。彼に何もなければ良いのですが……」



 そうつぶやいた私の声は潮風に散らされて、空へとのぼっていきました。
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