貴妃の脱走

川上桃園

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貴妃の快走

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――人生は、一度きり……。一度くらい好きに生きたっていいじゃない。
 ほんの一時、かりそめでもいいの。
 命の使い方が決まっているのなら、それまでの間だけ。
 着飾るんじゃなくて、働いて。
 人形じゃなくて、生きていたい。
 私には、難しいことはわからないの、父様。
 父様が何を思っているのか、全然わからないの。
 でも、早口でこの国のことを熱心に語るのも父様だから、間違ったことはしないのじゃないかしら。
 だって、父様はうんと勉強してきたのだもの、そうよね。
 地方官吏で、中央に栄転することはなかったけれど、父様は一生懸命にお国のために働いていたのは誰もが知っていたことだもの。
 父様は幼い私の手を引いて歩いていたわよね。筆だこだらけの大きな手をよく覚えてる。
 私は父様に拾われた。お父様が何もわからず彷徨っていた私を見つけてくださった。
 他人のことなんてわからないけれど、あの時から私は、父様を優しい人だと思ってる。
 本当に、優しい人だったのに……。
 もしも、私に一つだけ後悔していることがあるのなら。無いものにできることがあるのなら。
 それは――私が皇帝の妃に選ばれてしまったこと。
 私じゃなく、他の誰かであるべきだった。よりにもよって……どうして、私だったの。
 わからないわ……父様なら、わかるのかしら。それとも、陛下なら知っている?
 あぁ、もう……考えたくない。
 ずっと、ずっと……深く、眠って……忘れてしまえるのなら、いいのに。



「ああー、もうだめだー、辛抱たまらんー、やだー、あぁ……あああああああぅ……バカヤローめ! ふんむぅ……はうあーあー、むむむむ……あああああああああー!」

 書類とにらめっこ。書類相手に文句を言い、唸った挙句に顔を上げて、奇声を発する。
 さらに顔も百面相。傍目から見れば、いかにもイっちゃってる人なのだが、彼のそんな面を知る者はごく限られている。そう、自室を一歩出た彼は、奇声も上げないし、以前のように壺に潜ってこんにちは、なんて奇行に走らない。それどころか、彼の叔父のように大層ふんぞり返り、できる男ですが、何か? 貴公子ですが、何か? とでも言いたげな顔をしている(ただし、当の叔父やお付きの宦官の前だと若干崩れる)。要は、血は水より濃いもの、よく似ている。

「おかしい……叔父上、おかしいんじゃないのか。こんな量を毎日毎日こなしていたとは……! この殺人的な作業量が……ああああああああああああーっ!」

 まともな独り言だと思ったら、簡単に壊れてしまった。頭を抱えて、机に突っ伏した。ごん、と勢いあまって額がぶつかる。
 あーあ。内心でため息を漏らしたのは、例によって彼のお付きの宦官である。ここまでずっと黙って、彼の独り言や奇声を聞かないように、突っ込まないように、と部屋に入る寸前で腐心していたのだが、いい加減にしてもらわないと、この憐れな皇太子のボロが広がっていきそうで困る。
 実際のところ、彼はきちんと皇帝から回されてきた仕事をこなせるぐらいには優秀な皇太子なのだが、内にたまった鬱憤をどうにか発散させないと駄目なタイプなのである。
 さらに言えば、皇太子になる前から、こんなんだった。勉学中に突然キチガイのように叫びだす。もはや、治せまい。

「失礼いたします、殿下」

 宦官はさも今入ってきたばかりを装って、中に入った。

「執務の方はいかがでしょうか。あまり根を詰めてもなんですし、お茶を淹れてまいりましょうか」
「いや、構うな」

 穆脩(ぼくしゅう)は顔を上げないままそう言い、今度はお行儀よくつらつらと筆を滑らせている。

「叔父上にとっては、こんな仕事はちょちょいのちょいだったのだろ? だったら、俺にできないはずがない! お茶を淹れるまでもなく、片付けてやる!」
「かしこまりました。では、また御用がございましたら、お申し付けを。私は出来た書状を担当の者に渡しに行ってまいります」

 積み上げられた書状の束を抱え、彼は出ていこうとする。

「……あ」
「?」

 声が聞こえた気がして、振り向く。だが、彼の主は仕事に集中しているようだ。
 顔を戻し、さらに数歩進む。

「あー……」
「殿下、お呼びでしょうか」
「う、うん。お呼びだ、お呼び……というより尋ねたいだけなのだが……叔父上は?」

 宦官はこれまでで知り得たことをすべて主に報告した。
 穆脩も、いつになく神妙な面持ちで耳を傾けている。
 聴き終えると、ふっと軽く息を吐き、ぼやくように、

「今回のことは……どうにも俺にとって居心地が悪いな……」

――叔父上にとっては俺が、俺にとっては叔父上が。互いの存在が互いの地位を脅かすのは、半分宿命だし、叔父上も俺も分かっていたはずでも……割り切れないな、今は……。

 皇帝は今、何を思っているのだろう――。

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