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俺がお前を不幸にするなら、いっそ死んだって良かった
しおりを挟む俺は、望まれない子どもだった。暴力と酒に染まった街で、娼婦だった母親が、顔も知らない男に孕まされた子ども。
「母さん」
「黙れ!お前なんか私の子じゃない!!」
ヒステリックな叫び声とともに、こちらに向かって物が飛んでくる。それが額に掠ったのか、でろりと流れる血で目が霞んだ。
母が連れてきた見知らぬ男に殴られ、母に罵られ、それでも愛を求めていた。お腹が空いて喉が渇く、でもそれより、心が渇いていた。温かい手で撫でて欲しい、褒めて欲しい、笑って欲しい。俺を、愛して欲しい。孤独な夜、見えない星に強く願った。──しかし、なんどそんなことを星に願っても、それが叶えられることはなかった。
ある日を境に、母が帰って来なくなった。どれだけ待っても、いくつ夜が過ぎても、帰ってこない。いつか戻ってきてくれるはず、そんな希望を胸に、仄かにタバコの匂いがするボロボロの毛布に顔を埋めて眠った。僅かに残った食料を少しずつ食べて飢えをしのいでいたが、それも数日のことだった。お腹が空いて堪らなくて、少し外に出ることにした。相変わらず治安の終わっている街では、ガラの悪い輩が屯していて、目をつけられたら碌な目に遭わないことがわかった。それでも、食料を探すため、できるだけ人目につかない路地裏でゴミ箱を漁る。
「近寄るんじゃねぇ!汚ぇガキが!」
怒号が聞こえたと思ったら、店から出てきた男に腹が勢いよく蹴飛ばされ、数メートル吹き飛んだ。壁にうちつけられた背中が痛い。衝撃で肩の関節も外れたのか、うまく動かない。痛みを逃がすような、自分の浅い呼吸が、ずっと聞こえる。
「くたばれ!」
そんな吐き捨てるような声が、痛みでボーッとする頭に響く。
通りすがりの周りの大人は、よくある事だと、皆見て見ぬふりをした。俺だって逆の立場ならそうしたに違いない。日の登らないここは、明日の暮らしもままならない奴らの掃き溜めだった。何もされないだけマシだ。今のうちに逃げなければ、もっと酷い目に遭うに違いなかった。判然としない視界の先に、汚いネズミが、誰かの吐瀉物に群がっているのが見えた。
きっと、傍から見れば、俺もこのネズミと差異はないのだろう。なんでこうなったんだ?生まれた時からこうだった。どうしようもなかったんだ。お前は悪くない、と俺の中の俺は、自分自身を慰める。そうだ、俺は何も悪くない。悪いのはこの世界だ。俺を生み出した、汚いこの世界だ。⋯⋯じゃあ別に、ここに、留まる意味もないか。そっと目を閉じる。何も見たくなかった。自分のやせ細った体も、欲と汚物に塗れた汚い路地裏も、自分の未来さえ──酷く喉が渇いていて尚、熱い涙が零れた。これでいいんだ。滲んだ視界には何も映らない。
「──大丈夫?」
ふいに、澄んだ声がした。あまりに綺麗な声だから、俺はあの後ポックリ死んで、天からお迎えが来たのだと思った。瞬きを繰り返すと、滲んでいた視界がやっと明瞭になる。
そこには──天使様がいた。金色の髪に、宝石のようにキラキラした深緑の瞳。⋯⋯?何か、聞かれている。ぼんやりとした頭では、よく分からない。でも、いいに決まってる。綺麗な天使様のいうことだ。なんでもいい。俺は、夢みたいな心地で、そっと、目の前に差しのべられた手を取った。
◆
「おい、起きろ」
「うーん⋯⋯もうちょっと⋯⋯」
布団が意志を持った生き物のようにモゾモゾと動く。中々に気持ち悪い動きだ。そして、中から聞こえる声からは、全然起きる気持ちが感じられない。
──全く、これで何度目だと思っているんだ。
頭に来た俺は、布団を無理やり引き剥がした。すると、星を散らしたようなふわふわのブロンドの髪と、その美しい造形が露になる。天使のような風貌をした彼は、外界の眩しさに、翡翠のように澄んだ目を何度か瞬いた。
「ほら、起きろっつってんだろ!」
背中を叩くと、主人は嫌そうな呻き声を上げる。
「んぅー⋯⋯クロ、酷いよ。僕、お前の主人なのに⋯⋯」
確かに、従者として見れば、俺の主人に対する言動はいただけないものだ。ましてや貴族と平民。外でやったら、即座に首が飛ぶ態度であることは間違いない。
「はぁ?ブランがそうしろって言ったんだろ。俺は命令に従ってるだけだ。」
「それはそうだけどさぁ⋯⋯」
睡眠を邪魔されたことにいじけながら、まだ眠そうに目を擦る少年は、俺の主人でこの館の次期当主だ。俺はこいつに十歳の時拾われ、こいつの側付きになった。その時、俺はこいつが独り立ちできるまで、傍で支えると誓ったんだ。それが拾ってもらった恩義を返すことだと思った。言葉遣いだって、ここに来た時に、きちんと従者教育を受けたから直せる。やろうと思えば、貴族がウヨウヨいる夜会に連れて行っても申し分ないくらいのマナーは身につけているつもりだ。だから、ちゃんとそれなりの言葉と態度で話していたが、こいつが頑なに嫌がるのでやめた。以前理由を聞いてみたところ、「なんか距離が遠くて嫌」らしかった。そんなふわふわした理由で毎回自分の首が飛ぶ心配はしたくないため、完全に二人の時だけしかこの態度はとらない。
「ほら、人呼んでくるからな。機嫌直して、お坊ちゃんっぽくしとけよ」
「えー、クロが着替えさせてよ」
「今から来るやつにやってもらえよ⋯⋯」
あまり周りの仕事を奪うと、怒られるのは俺なのだ。冷たく突き放そうとすると、ブランは縋るような視線をこちらに向けた。キラキラの瞳は、吸い込まれそうな美しさだ。⋯⋯クソ、俺はその顔に弱い。綺麗な顔というのは、あまりにも得だ。俺は根負けして、重いため息をついた。
「しょうがねぇなぁ⋯⋯」
確かにそれも傍付きの仕事の内には入るから、後から来るやつには許してもらえるだろう。寝間着用のシャツのボタンを外し、新しくシワの伸びたシャツを着せていく。普段はへにょへにょしているが、ちゃんとしたシャツを着ただけで、なんだかそれっぽく見える。イケメンってすげぇ。ちんちくりんの俺とは大違いだ。そんなことを思いながら、ブランを着せ替える。
「今日って何があるの?」
「今日は割と暇だな。数学と地学か?大体座学だが、剣術の指導もあるな。」
「うわぁ⋯⋯」
ブランは心底嫌そうに顔を歪めた。
「まぁ、頑張れよ。期待の次期侯爵なんだろ?サボるなよ」
「うぅ~⋯⋯クロが一緒に受けてくれたら頑張れるかも⋯⋯?」
ブランは強請るように、こちらを見た。さっきのことで味をしめたのだろう。俺だって、毎回同じ手に乗る訳じゃない。俺は、馬鹿げた提案を、失笑とともに退けた。
「なんでそうなるんだよ。一人でやれ。俺だってそこそこ仕事あるんだぞ?」
「わかってるけどさー」
そう言って、ブランはぶすくれた。いつも大人びた表情をしているために、ブランのこんな表情は珍しく映る。もしかして、俺が特別なのだろうか、なんて馬鹿な勘違いをしてしまいそうになる。俺が主人を慰めるための言葉を口にしかけた時、部屋の扉がノックされた。
「そろそろよろしいですか?」
他の侍従が待ちかねて、朝の手伝いに来たのだ。俺は、少し待ってもらうようにに伝えた。
「⋯⋯来なくて良いのに」
扉が閉まると、ボソリとブランが呟く。俺は軽く睨んでそれを諌めた。
「そういうわけにもいかねぇだろ。他の奴らだって、それが仕事なんだ。今から代わるから⋯⋯ほら、ちゃんとしろよ!」
着替えの仕上げに、ネクタイをしっかり締めると、主人は潰れたヒキガエルのような声を出した。その後に抗議の声が続くが、俺はそれを無視して、部屋の扉を開けた。
「ありがとうございます。では、俺はこれで失礼します」
ニッコリと笑い、一礼してから部屋を後にする。ブランはまだ納得のいかない表情をしていたが、切り替えられたのだろうか。
俺はブランの傍付きでありながらも、常に一緒にいる訳では無い。昔はべったりだったけど、特に最近は、普通の使用人と同じような仕事をしている。会える時間は、朝と夜、時間が合えば休憩時間などと、ごく僅かだ。二人きりならもっと少ない。
俺は執事長から指示を受けた通り、別館の掃除に洗濯、様々な雑務をこなした。乾いた洗濯物を運んでいると、窓からブランが剣術の稽古をつけられているところが見えた。俺に剣筋の善し悪しは分からないが、筋は良いと聞いたことがある。教官に食らいつき、汗を流しながら真剣に打ち込む姿は、とてもかっこよく映った。これじゃあ、ご令嬢がきゃあきゃあ言うわけだよな、とブラン宛に届いていた縁談の手紙の数を思い出す。断りの返事を書かされたこともあったっけ⋯⋯。主人はもう成人も近い。そろそろ、婚約者が決定する頃だろうか。確か、以前にこの話題について話したことがあった。
『⋯⋯はぁ、婚約者なんか要らない。終わり。あと、その話嫌だから二度としないで』
あの時、ブランはすごい嫌悪感を露わにしていた。きっと、まだ自由でいたいという意思の表れだったのだろう。
どこかのご令嬢が、ブランの傍に立っていて、彼が、その婚約者に笑いかける姿を想像する。
きっと、血筋の良い、綺麗な嫁さんなんだろうな。器量も良くて、上手く屋敷を取り仕切るんだろう。その時、俺はただの侍従として、きっと二人を精一杯支えるんだろう。それは、素敵なことだなと思う。
⋯⋯ブランとずっと一緒に居たいとか、好きでいて欲しいとか、そんな贅沢なことは言わない。無理だってわかってるから、高望みなんてしない。落胆したくないから、俺はそれを見てるだけでいい。⋯⋯ただ、幸せでいて欲しい。そう、お前が幸せなら、俺はなにも望まない。言い聞かせるように心の中で繰り返し、俺は自分の業務に戻った。
-----------------------------
──その晩、俺は旦那様に呼び出された。
内容は新しい仕事の斡旋。知り合いの商人のところに働きに行かないか、という打診だった。仕事の紹介とは言うものの、実質の解雇だ。
ブランは次期当主になるし、そのための婚約を控えている。それなのに、こんなに俺にべったりでは困る⋯⋯といったことがやんわり話された。無理矢理にでも離した方がショック療法的に治るだろう。続けて旦那様は言った。君には悪いと思っている、と。旦那様は終始申し訳なさそうだった。貴族なんていうやんごとない身分なのだから、俺を切り捨てて踏みにじっても構わないのに。あまりにいい人だ。
⋯⋯俺は、わかっていた。これらの理由は多分建前で、本当の理由は他にあること。きっと、旦那様も気づいていたのだろう、ブランが俺を見る目は親愛というよりも恋慕に近いこと。そして、俺がブランの気持ちに対し、満更でもない気持ちを持っていること。俺が貴族の令嬢なら、こうはならなかった。貧民街上がりの平民である上に同性。家の将来もかかってる結婚の相手としては最悪だ。愛人として迎えてもきっと揉め事になるし、俺は愛人になる気は無い。俺は、ブランの幸せの妨げにしかならない。誰よりもアイツの幸せを願っているのに、俺がいるとそれは叶えられない。それなら、離れた方が良いに決まってる。退職金という名の手切れ金も貰って、次の仕事の斡旋までしてもらった。むしろ、手厚いぐらいの対応だ。ほんとに、いい人だ。俺は旦那様に向けて言った。
「屋敷はやめます。ただ⋯⋯新しい仕事は結構です。今までありがとうございました。」
次の日、執事長と相談しながら、辞める日程を決めた。できるだけ早い方が良いだろう。その気持ちから、二週間後に屋敷を去ることにした。その日から、俺は内密にここを出ていく準備を始めた。ブランには、ギリギリまで言わないようにしようと決めた。むしろ、言わないで出ていこうとも考えていた。絶対に泣いてしまうと思ったからだ。退職する日から三日ほど前、他の使用人仲間には少しずつ伝えて、一応、ブランには言わないでくれと念押した。
⋯⋯けれど、誰かに話せばいつかはバレるものだ。その日は、突然だった。季節外れの雨が降る夜、俺の部屋の扉が、軽くノックされた。
「僕だ」
扉を開けると、ブランがそこにいた。一応本館と繋がっているとはいえ、夜に、護衛もつけず使用人棟まで来たのか。動揺を隠しながら言葉を募る。
「ブラン様、ここは使用人の部屋ですよ?夜風も冷えますし、こんなところまで──」
「そういうのいい。あと、その話し方やめて。人払いをしたから、今は二人しか居ないよ。」
言われてみれば、やけに静かだ。ブランは、冷ややかな目で俺を見た。その瞳はどこか怒っているようで、俺は用件を察した。
「⋯⋯クロ、辞めるってほんと?」
「⋯⋯そうだな」
俺は当然、とでもいうように興味なさげに頷いた。我ながら、自然な動きだったと思う。
「っ辞めないで」
引き止めるように、服の裾が握られた。顔を上げると、真摯な目が俺を射抜いていた。俺はその真っ直ぐさが見ていられなくて、そっと視線を逸らした。
「⋯⋯もう決めたんだよ」
「なんで?なにかあった?」
本当のことを言ったら、ブランはすぐに旦那様に抗議しにいくだろうということは、簡単に予想がついた。旦那様もこいつに甘いから、それを許すだろうということも。⋯⋯でも、きっと、それじゃだめだ。俺はブランから距離を取るために、少し体を後ろに引いた。
「なんでもいいだろ。⋯⋯まぁ、嫌になったんだよ。それで、俺はやめる。ただそれだけだ。」
嫌だ!とブランは叫んだ。いつも大人っぽく見える主人は、今だけ年相応の子供の顔をしていた。
「嫌だ。離れていかないで、これからもずっと傍にいて⋯⋯僕の⋯⋯」
「無理だ。」
ブランを突き放すようにピシャリと言った。主人は絶句していた。俺は嫌味ったらしく片方の頬を吊り上げた笑みを浮かべ、酷い言葉を続ける。
「無理に決まってんだろ。⋯⋯っつーか、俺はお前の傍にいたことなんて、一度もない。いいや、もう全部言う」
俺はお前を利用していただけ、金のために、傍にいるフリをしただけ、もっといい働き先が見つかった。だから、こんなところどうだっていい。お前に興味は無い。そんな言葉を冷淡に続けた。喉がきゅっと締まる。その時の苦々しい味には、気づかないフリをした。
「こんな馬鹿な勘違いをするなんて、お貴族様って甘っちょろいんだな。」
──俺は、お前が努力してきたことを知っている。座学も実技も、次期当主として厳しく育てられてきたのを知っている。お前の方が俺よりよっぽど賢いなんて当たり前だ。だから、そんな事も分かっていない俺の傲慢で無礼な言葉を聞いて、失望してしまえばいい。今までのことは、儚い幻だったのだと思え。なんなら激高して、その腰に携えた剣で、斬り殺してくれてもいい。どうせ、お前に拾われたあの時、死ぬ気だったんだ。お前が俺の命を救ったから、俺はお前のために生きてる。俺が側にいることで、お前を不幸にするなら、俺は死んだっていいんだ。⋯⋯だからさ、そんな顔しないでくれよ。
ブランは絶望に瞳を揺らし、呆然と俺を見つめた。その目は、どこか今に嘘だと言われるのを期待しているように見えて、ブランは声は出さないながらも、必死に俺に縋っているようだった。ブランは俺に反論することもなく、怒ることも無く、ずっと黙っていた。黙って、俺のことを見つめている。
「⋯⋯じゃあな、出てけよ。もうさよならだ。」
俺の方が沈黙に耐えられなくなって、そんな台詞一つで、ブランを部屋から追い出した。ブランが去った後の部屋は酷く静かで、窓ガラスに打ち付ける雨の音だけが聞こえる。俺は、顔を手のひらで覆った。
──きっと、これで良かったんだ
そう、自分に言い聞かせるように繰り返す。先程のブランの酷く傷ついた顔が思い出されて、そうでもしなければ、今にも泣いてしまいそうだった。
◆
俺が屋敷を出る最後の日、ブランは会いに来なかった。⋯⋯あれだけ酷いことをしたんだ。当然と言えば当然で、わかりきっていたことだった。なのに、何年も過ごした屋敷を振り返った時、不思議と涙が出ていた。──あの日、ブランに辞めないでと縋られた時、頷いてしまえば良かったのか。そしたらこの屋敷にも残れて、ブランとも離れずに⋯⋯なんて、甘ったれた考えが頭をよぎる。そんなこと出来るはずもなかったのに、ふざけた空想に浸る俺は馬鹿だ。ブランのためと言いながら、結局自分のために泣いている。最悪だ。こんな思考ごと腐り落ちて死んでしまえ、と自嘲の笑みを零す。俺は未練を振り切るように、屋敷を去る歩みを速めた。
これで本当にさよならだ。
◆
屋敷を出てから三日目、俺は憲兵に捕まっていた。理由は、俺が屋敷から出ていく時、宝石を盗んで出ていったから。きっと、先日質屋に持ち込んだ宝石の出処がバレたのだろう。そこそこきっちりとした店を選んでよかった。これで、既成事実ができた。侯爵家にとってみれば、俺は金が目当てのこそ泥。辞めさせてよかったと思われる。最低な従者と烙印を押されたかった。
「ほら、出ていけ」
「助かるよ」
そうして、卑しい生まれの、金にがめついマヌケな従者は、憲兵に見つかって、侯爵家から盗んできた宝石類を押収される。憲兵は腐った組織だから、全部返されるかは分からないが、侯爵家のものとなれば大層にちょろまかしたりはしないはずだ。俺は、手切れ金として渡された金を、賄賂として渡して牢から出た。宝石を換金した金は、既に孤児院に送っている。懐が軽いので、どこまでも行けそうだ。なんだかおかしくなってきた。愉快な気分だ。笑いを噛み殺しながら、街を出て人気のないところを進む。別に場所はどこでもいい。首を吊っても良いが、侯爵家の元従者が首吊って死んだなんて、あまりに外聞が悪い。だから例えば、森なんかが死体を獣に食われやすくてちょうどいい──そこに行って飢えてくたばる。これで終わり。これが俺に似合いのシナリオだ。
途中まで事は上手く運んでいたし、森に着くまで完璧だった。⋯⋯ただ、死にかけの時、薬屋の婆さんに拾われた。目が覚めたらふかふかの布団の上で、俺は混乱した。婆さんがやって来て、事情を説明してくれた。俺には拾われ癖でもあるのか、と自分の悪運の強さに辟易する。森に出ていってテキトーに死のうかと思ったが、婆さんの目が厳しく中々許されない。仕方が無いので、監視の目が緩まるまで、婆さんの仕事を手伝う生活をしていた。獣を狩ったり、薬草を取ったり、家事も手伝った。でも、婆さんの監視の目が緩まることはなく、俺がよく死にに行くので、むしろ厳しくなっていった。婆さんは執念深かった。森で俺が獣に襲われて食われようとしても、高い崖から落ちようとしても許さなかった。そのまま二年三年とどんどん月日が過ぎて、あの家で過ごした日々が遠い過去のものになっていく。だから、俺は慢心していた。
──ブランは、もう俺の事を忘れただろう。きっと、素晴らしい婚約者と結婚して、良い領主になっているだろう。そう当然のように思っていた。
再会は突然だった。薬屋の扉が叩かれ、腰の悪い婆さんの代わりにいつものように俺が出る。扉の前には小綺麗なローブを羽織った男達がいた。その真ん中、リーダーらしき奴がローブをとると、星屑を散らしたような、美しいブロンドの髪が風に揺れた。その姿を見て息を飲む。
「やっと見つけた」
こちらを見つめる、深緑の涼し気な瞳は嫌に見覚えがあった。
「なっ⋯⋯ブラン?」
「そう!覚えていてくれて嬉しい。忘れられてると思ったよ」
ブランは、少し頬を赤らめて笑った。見ないうちに、深窓の美少年は立派な美丈夫になっていた。
「お前、なんでここに──」
「クロを迎えに来たんだ」
迎えも何も、お前の家に俺の帰る場所は元々ない。そんな言葉を言う前に、ブランの手がこちらに伸びてきた。俺の腕を握る手は酷く冷たい。
「あの時言ったよね?クロはお金のために僕の傍に居たフリをしたんだって⋯⋯ねぇ、クロはお金持ちが好きなんでしょ?お金があれば、また傍にいてくれるんでしょ?だからね、僕頑張ったよ。クロノス銀行って知ってる?」
「⋯⋯は?」
クロノス銀行といったら国で一番の金融機関で、最近は他国まで幅を利かせ始めていることで有名だ。深い森の奥でも噂を聞くんだから余程のもので、今や国家に次ぐ、いやそれ以上の資産を持つとまで噂されているところだ⋯⋯有り得ない。信じられない。突拍子もない話だ。でも、今のブランならやってのけてしまう気がした。そのくらい、奴の瞳には異様な熱があった。
「そうだよね。こんなこと急に言われてもすぐ信じられないよね。じゃあ、とりあえずこれでどう?」
音を立てて、目の前に札束が積まれた。数えなくても、目玉が飛び出るくらいの額であることがわかった。
「今はこれしか手持ちがないけど、屋敷に帰ったらこの倍は出す。宝石でも家でも土地でも、なんでも買えるよ。好きに使って?」
⋯⋯本当にこいつは、俺が金のために自分の傍にいたと思っているのか。
自分がそう思わせるように動いたとはいえ、胸がキュッとして、泣きそうになった。自業自得だ。なのに、こんな時ばかり悲しむなんて、あまりに自分都合すぎて笑えてくる。俺の顔色が芳しくないのを見て、ブランは焦ったように言葉を紡ぐ。
「これだけじゃやっぱり足りない?そうだよね、確かに少なかったかも。でも、クロが望むならいくらでも用意するよ?」
俺は少しの沈黙の後、重い口を開いた。
「⋯⋯要らないし、お前のところには戻らない」
「え⋯⋯?」
ブランは本気で驚いているようだった。瞳がこぼれ落ちそうなほど、大きな目が見開かれている。
「なんで?なんでなんで??クロは、お金が好きで、そのために、僕のもとから離れたんじゃなかったの?じゃあ、じゃあさ、なんで、あの時──」
全てを悟ったような、暗く淀んだ瞳から、大粒の涙が静かに零れ落ちた。
「本当は、僕のことが、嫌いだった⋯⋯?」
「違う!」
絶望に打ちひしがれるブランの姿が見ていられなくて、俺は思わず強く否定してしまった。しかし、今更、取り消せるはずもない。誤魔化すように言葉を続ける。
「っお前、侯爵になったんだろ?それにそんなでかい銀行なんて、忙しすぎて俺に構ってる暇なんてないんだろうし、婚約者だって待ってるんだろ?早く戻れよ」
「⋯⋯婚約者?」
「そうだよ。いるんだろ?帰って、勝手に幸せになれよ」
何かをゆっくり考えているような、長い沈黙が流れる。
「⋯⋯はは、なんだ。ただの嫉妬だったんだ」
ブランは不意に楽しそうに笑いだした。その頬は紅潮していて、先程まで全てに絶望したような、鬱々とした面持ちをしていた人物と同じだとは思えない。
「僕に婚約者はいないよ。侯爵家も継いでない」
「は⋯⋯?」
乾いた息が漏れる。理解できない。だってお前、立派な領主になるために頑張ってたんじゃないのか。良い婚約の話も持ち上がっていたはずだ。どうしちまったんだ。どうして?全部、俺のせいなのかもしれない。そうだとして、俺はどうしたら良かった?俺は、あのまま一緒にいたらいけないと思った。俺は、ただ、ブランを幸せにしたかっただけなのに──
「クロ」
煩雑とした俺の思考を断ち切るように、名前が呼ばれる。その顔にはもう、一切の迷いが無かった。
「一緒に来てよ」
「⋯⋯っ?なんで?なんでだよ。だって、俺はスラム上がりの平民で、自分勝手にお前を傷つけて、お前の、幸せだって、こうやってぶち壊して⋯⋯どうして⋯⋯」
気づけば、自分の声は震えていた。知らぬ間に、涙さえでてきている。頬を伝う雫を、ブランは大切そうにすくい上げて、愛おしそうに笑った。
「──伝わってなかった?僕にはクロが居ればいいんだ。あの屋敷、覚えてる?ほら、小さい頃から一緒に過ごした、あの森に近いところだよ。」
歴史ある作りの綺麗な屋敷。眩いばかりの陽の光が、窓から一斉に差し込む廊下を、小言を垂れながら二人で一緒に歩いた思い出が蘇る。キラキラの髪が眩しくて、暖かい木漏れ日みたいで好きだった。こちらを見つめる瞳も、エメラルドのような輝きをもって、鮮やかに瞬いていた。離れないように、と手を繋いだ。指を絡めた時の温度を、自分の心臓の高鳴りを、今も鮮明に思い出せる。宝物のような美しい記憶。一度思い出せば、美しすぎてそこから抜けられなくなってしまいそうで、今まで頭の隅に追いやっていた。──なのに、この主人は無邪気に、いとも簡単にそれを目の前に広げてしまう。ずるい、と掠れた声が喉の奥から出た。
「ね、クロ。昔は主人と使用人だったけど、今度はそこで、二人で、ゆったり過ごそう?ね、きっと、幸せにするから、僕と一緒に来て。」
ブランは、俺を拾った時と同じ、天使のような優しい声で、綺麗な顔で、けれど少し泣きそうに笑った。流されていいのか迷う。俺の心が揺れていることを察したのか、ブランは、縋るような視線で俺を見つめた。宝石のように美しい俺の大好きな翡翠色の瞳。それが、縋るように淡く揺れて、俺を見つめた。
「──くそ。俺は、その顔に弱いんだ」
俺は泣きじゃくった酷い顔で笑うと、またその手をとった。
END
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