変異Ωの平凡侍従は、番の愛から逃げ出した

さるやま

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変異Ωの平凡侍従は、番の愛から逃げ出した

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町外れの教会で、僕は箒を片手に床を掃いていた。ステンドグラスの窓から差し込む陽の光に、空中に舞った埃が反射する。

暖かい光に照らされて、昔の記憶が脳裏に翻った。今みたいに心地よく陽の光が照らしていて、馨しいバラの香りが風に乗って、春も終わりに近い庭園を包み込んでいた。あの日、あの、最悪な日。

──その頃、僕はまだこの国の第二王子、アルバートの侍従として、彼に付き従っていた。





「アルバート様、あまり1人で出歩かれると危険ですよ。いつも言っていますが、護衛を付けてください」

自由奔放な主は、忠臣の小言を受けて微笑んだ。その陽の光のように眩い、柔らかそうなくせ毛はふわりと風に揺れ、楽しそうに細められた瞳には、深い海のような青色が差している。

「んー?大丈夫だよ」

「いや、何かあってからでは遅いですし、何かあって怒られるのは私なんですが⋯⋯」

最近は、特に執事長の目が厳しいのだ。今回のことだって、バレたら長い説教を食らうことは目に見えていた。まったく、次の王になるのだから、もっと自覚と責任感を持ってもらいたい。じっとりとした視線を向けると、そんなに怒らないでよ、と笑って軽く流された。

「⋯⋯みんな堅苦しいんだよ。急に次期国王ってさ」

アルバートは、わざとらしくため息を吐く。ガラリと彼を取り巻く状況が変わったのは、彼が8歳、そして彼の兄、第1王子のシルヴィ様が13歳の誕生日を迎えた時だ。この国では13歳が成人とされ、その際に第2性の診断が下される。第2性が何かはすごく重要視される。というのも、この国では発情期があるΩへの蔑視は激しく、子を孕むための母胎としてしか、その価値は認められていないからだ。⋯⋯そして、シルヴィ様はΩだったために、当然のようにアルバートに王位継承権が移った。アルバートが13歳を迎え、αであることが明白になると、次の王位は彼のものだという噂が、まことしやかに囁かれ始めた。

「フィオも、今は2人だけだから呼び名はアルでいいし、話し方ももっと砕けていいよ。寂しいし」

そう言って、アルバートはよく言えば人好きのする、悪くいえば胡散臭い笑みを浮かべた。

「はいはい。とりあえず護衛を呼びますね⋯⋯あ!」

護衛を呼び出すための笛型魔道具を取り出すと、アルバートは素早くそれを取りあげた。

「アルバート様!」
「だから、アルって呼んでって!ほら、折角の休みなんだ。ゆっくりしようよ」

睨むと、彼はいたずらっ子のように笑って、僕の手を引いた。連れていかれた先は、石の小道を進んだ先にある、王宮の外れの小さな庭だった。季節柄、色とりどりのバラが芳しく咲いていた。

「ほら、2人の秘密の場所、懐かしいでしょ?」

「⋯⋯その呼び方は恥ずかしいからやめてくださいと、何度も言ったでしょう」

秘密の場所、そう最初に呼んだのは確か僕だった。小さい頃、アルバートと授業を抜け出して王宮中を逃げ回った際、植物のツルで隠されたこの場所が、まるで2人を匿ってくれる特別な場所のように見えたからだ。今思えばあまりに安直で、子どもっぽくて恥ずかしい。昔の記憶に思いを馳せていると、ぶすくれたようにアルバートは言った。

「フィオだって、僕のことアルバート様って呼ぶでしょ?敬語だって、何度も嫌だと言ったはずだけど。」

そう来たか。僕は重いため息を吐く。そうして、周りに誰もいないことを確認して、そっと口を開いた。

「──わかったよ。僕も話し方を戻すから、今後はやめて欲しい」
「アルって呼んで」
「⋯⋯どうしたの、アル」
「フィオー!」

途端に笑顔になったアルバートは、僕に抱きついた。勢いに圧されて、2人で地面に倒れる。僕はアルバートの胸に顔を埋める形になった。香水なのか、甘い薔薇の匂いで身体中を包まれる。それがなんだかくすぐったい。

「怪我してない?」

自分で倒しておきながら、アルバートは労わるように僕の短い髪を撫でた。

「僕は痛くないけど、アルこそ大丈夫?」

僕の頭が無事なのは、アルバートの腕に庇われたからだ。下は芝生と土だけれど、だからといって痛くないわけではないだろう。従者として付き添っておきながら、主人に庇わせて怪我をさせるなんて大問題だ。摩るように腕をいたわると、アルバートはその長いまつ毛を何度か瞬かせた後に、頬を薔薇色に染め、薄い唇をふんわりと緩めた。

「すごく、痛いかも」
「⋯⋯」

どう考えても、腕がすごく痛い人がする表情ではない。僕は、呆れて添えていた手を離した。僕を搦めとろうとするアルバートの腕から抜け出し、仰向けになって、空を見上げる。こうしていると、小さい頃に戻ったようだった。

『王様になんてなりたくない』

いつか、彼がそう零したのも、確かこの場所だった。将来の国を担う存在として生まれ、そのように育てられる──彼は今までその肩に、どれだけの重圧を背負って、王子として生きてきたのだろう。僕はあの時、泣きじゃくる彼をなんと宥めたのだったか──

「フィオ」

囁くような声で名前が呼ばれる。いつの間にかぼーっとしていたようだ。声に応じて、僕はアルバートの方を向く。彼は、どこか寂しそうな顔をしていた。

「どこにも行かないでね」
「⋯⋯うん」

それは僕が決められることじゃないのだけれど、そんなことを思ったが口には出さなかった。そんなことはきっと、僕よりアルバートの方が分かっていると思ったからだ。今まで、彼の元から何人もの侍従が去っていった。それは裏切りによるものであったり、政局の変化によるものであったり、理由は様々だった。きっと、その度酷く胸を痛めたのだろう。この主人はすごく寂しがりやだから。──だから、僕のような取るに足らない侍従の服を、こんなにも力強く掴んでいるのだ。

「⋯⋯大丈夫だよ」

宥めるように、彼のお日様のような金髪を梳くように撫でる。僕の手の温かみが、彼に伝われば良いと思った。









従者の朝はすごく早い。明るくなる前に目を覚まし、朝の支度をしてから、主人のために働き始めるのだ。今日の業務はアルバートの傍付きではないため、起きる時間が少し早い。眠い眼を擦りながら、ベッドから這い出でるようにして、どうにか目を開ける。今日はどうも朝から調子が悪い。なんだか気だるくて、頭がふわふわして判然としない。それだけならまだ良かったが、昼になると、じくじくと熱が腹の底に溜まっているような不快感まで出始めた。こんな不調は初めてで、王宮の庭を掃いている途中であるのに、力が抜けて座り込んでしまった。脂汗がこめかみから頬を伝って落ちる。なんだか酷く暑い。床に這い蹲るようにして休むと、幾分かマシな気がした。少し目を閉じる。傍を通り抜ける涼しい風が、心地よく頬を撫でた。そうしてじっとしていると、どこからか靴音が近づいてきた。そして、それは僕の前で止まる。

「フン、臭いな」

誰だろう、キツイ香水の匂いと共に、自分の上に何者かの影がかかる。ぼんやりとして顔はよく見えない。鋭い声だけが頭に響く。

「こんなところで発情するなど、はしたない。全く⋯⋯Ωというものはまるで獣だな」

「⋯⋯おめ、が?私は、βで、」

言いかけると、顎が強引に持ち上げられ、鼻につく香りがより強くなったのがわかった。

「確かにΩにしては地味な顔だな。匂いにも色気がないし変に薄い⋯⋯まぁいい。いつも高級な料理ばかりでは変わり種も食べたくなるというものだ⋯⋯こちらへ来い」

腕を引っ張られて、引きずるようにどこかへ連れていかれる。なにをされるのか分からないが、なにかこのままではダメな気がする。回らない頭でもそれだけはわかった。ふらりと立ち上がり、ついて行く素振りを見せて油断を誘う。そうして相手の力が緩んだ時、一度に手を払って、めちゃくちゃに走り出した。

「貴様!」

後ろから怒号が聞こえる。僕、どうなっているんだろう。真っ直ぐに走れているかも分からない。景色がぐにゃぐにゃに歪む。誰か人がいる所へ行こう、人目のあるところ、だったら王宮、王宮の方へ、それだけを考えていた。体は熱く煮えていて、思考も混濁している。息も酷く荒くて、酸素も満足に吸えない。それでも、足を動かさなきゃいけない。がむしゃらに走り続けると、見慣れた中央広場の石畳が見えた。ここまで、くれば───

「あ」

僕は、安心してしまったのだろう。急に足に力が入らなくなって、体勢を崩した。ゆっくりと視界が傾いていき、僕は頭が石畳に打ち付けられるのを覚悟して両目を瞑った。

「フィオ!」

その瞬間、聞き馴染みのある声がして、薔薇の強い香りが、僕を包み込んだ。

「アル⋯⋯?」

華やかながらも、こちらに寄り添うような安らぐ匂い。僕を抱きとめた逞しい腕の主を見上げる。判然としない視界の中、眩い金髪が映った。アルバートだ。それに気づくと、僕はなんだか力が抜けて、地面に座り込んだ。安心して、自然と笑顔が零れる。僕の表情を確かめるように、優しく頬が撫でられる。大きくて、冷たくて心地いい手だ。もっと触れたいという思いでそれに擦り寄る。すると、先程よりも僕を取り巻く薔薇の香りが強くなったのを感じた。その後、彼はボソボソとなにか呟くがよく聞き取れない。⋯⋯?どうやら、抱き上げられたらしい。足元がふわふわする。

「すぐに人払いをしろ。誰も近づけるな」

事務的な声が頭上から聞こえる。暫く石畳を歩く靴の音がして、止まったかと思うと、薔薇の華やかな香りがした。その中でも一層アルバートの香りが強く、僕の意識を占拠した。

「初めから、ここにしようって決めてたんだ。2人の秘密の、思い出の場所だから、思っていたよりも──少し、早かったけれど」

ずっと、夢のように現実味がない。意識は朦朧としていて、アルバートの言っている意味が、あまりよく理解できない。
なにがなんだかよく分からず、呆けている僕に、アルバートは優しく微笑んだ。

「ずっと、こんな日を待ってた」

そっと艶やかな唇が、僕の肌に触れる。瞬間、先程よりも強く、今まで感じたことの無いほどの熱が、自分の体を包んだ。頭がぼーっとして、息ができない。ただ、苦しくはない。どこか切なくて、身体中の熱が、逃げ場を無くして渦巻いている。暑い。耳の辺りがぼわぼわする。

「⋯⋯?⋯⋯??なに、これ⋯⋯」
「フィオ、こっち」

差し伸べられた手が、酷く心地よさそうで、引き寄せられるように、頬を擦り寄せる。相変わらず、アルバートの手は冷たくて心地よい。抱き寄せられるまま、アルバートの首に腕を回すと、ご褒美のように大きな手で頭が撫でられる。それだけで、体が甘く震え、腰が砕けて立てなくなった。

「⋯⋯っ?どうしよ、なにこれ、こわいよ⋯⋯これ⋯⋯」

自分の体が自分のものでは無いみたいで、地に足の着いた感じがしない。誰かが僕の体を、意識を乗っ取っている。

「大丈夫だよ。僕がリードする」

頬に手が添えられ、耳の裏をくすぐるように優しく撫でられる。たったそれだけの触れ合いなのに、今まで感じたことのないほどの快楽が僕を包む。アルに触れられると嬉しくて、体は甘美な悲鳴をあげる。体の芯からでろでろに溶かされるような、そんな満足感と充足感がある。頭や頬だけじゃなくて、もっと沢山触って欲しい。そんな欲望のままに、熱の篭った目でアルを見つめ、その手に縋る。手が繋がれて、絡められて、それだけでどうして──どうしてこんなに気持ち良いんだろう。訳が分からない。言うことを聞かない体が怖くて、僕は泣き出してしまった。涙をすくいあげるように、頬が撫でられ、そのまま唇を重ねた。涙まみれのキスはしょっぱいはずなのに、何故か甘い。酸素が奪われていくのと同時に、思考も甘やかに溶けていく。

「んっ、んぅ、アル⋯⋯」
「ん、フィオ⋯⋯可愛い⋯⋯」

うわ言のように、空気を吐き出しながら、アルバートの名前を何度も呼んだ。それに応えるように、アルバートの手は僕の短い髪を攫い、キスを落とす。掌で大事に頭を撫でられると、抱きしめられているみたいで安心した。撫でられていた手が止まって、僕は顔を上げる。

「⋯⋯アル?」

返事の代わりに、すべすべで手荒れなど微塵も知らない指が、僕の項を優しく撫でた。その動きに、僕は彼が今から何をしようとしているのかを悟った。さっきまでモヤのかかったように曖昧だった思考が、途端に鮮明になる。

「⋯⋯い、嫌だ。ダメ。やめっ、やめて!いやっ⋯⋯」

突き放そうと胸板を強く押すも、びくともしない。ぶわりと、フェロモンの匂いが強まった。その甘ったるい香りに全身が包み込まれる。体の自由が効かない。まるで、アルバートに脳を支配されているみたいだ。それでも、最後に残った理性で、僕は体を捻って逃げ出そうとするが、彼の手は緩まない。今からここを噛む、とでも言うように指の腹で首の裏を柔く撫でられると、腹の奥がじくじくとして、甘美な心地がした。
自分の望みとは裏腹に、本能が叫ぶ。この瞬間のために今まで生きてきたのだ、と嬉しくて泣いている。試したことなどないのに、ほんの少し牙が触れるだけで、とてつもない快楽が得られることが分かるのだ。どうして抵抗できないんだ。僕は従者で、男で、なんの貴族位もない。こんなことダメだ。ダメ、どうしよう。肌に、熱を孕んだ息が当たる感覚がある。滑らかな舌が、汗を舐めとるように肌を撫でる。

「──っ」

首の裏にアルバートの硬い牙が、皮膚を破って、その形を刻みつけるように、強く突き立てられた。牙があたった場所から、体の末端に至るまで、感電でもするかのように快楽が血管を通って、全身が甘い喜びに震えた。
余韻で動けないでいる僕の耳元で、アルバートは囁いた。

「愛してるよ、フィオ」

柔らかな愛の言葉のはずだった。しかし、その言葉はまるで鈍器のような重さを以て、僕の頭に響いた。さっきまであんなに熱かった体が、芯から冷えていくのがわかる。

僕は、ただの侍従で、βのはずで、家も継げない子爵家の三男坊だ。どうしても、こんなことを言われてはいけない人間だった。

首筋を伝う生ぬるい血液が、徐々に冷えていって、背中までを濡らす。

呆然としていると、後ろから抱きしめられた。彼の筋肉の厚みや、その温もりが伝わる。僕を包み込むアルバートの香りが、さっきより余程甘く、心地よく感じる。特別な香り。僕は彼のものであり、彼は僕のものだ、という感覚がそこにはあった。そうした実感が、徐々に僕を飲み込んでいくのだ。お前は許されないことをした、と心の中で誰かが言う。

「好きだよ、フィオ。大好き」

何度か愛おしそうに噛み跡に舌が這わされ、流れる血液を舐め取った。その後、項に沢山の甘やかなキスが落とされる。僕は何もできず、何も言えなかった。ただ、その戯れを甘受する。噛まれたばかりの首の跡が痛みに疼いて、それが夢でないことを知らせてくる。どうしてか、また、涙があふれた。

──あの日、暖かい太陽の日差しが心地よい中庭で、僕らは番った。番ってしまった。






首についた証は次の日になっても消えず、薄まる気配もない⋯⋯当然だ。これは番契約なのだから。まだ、アルバートと繋がっているという感覚が確かにある。僕はΩだったんだ。そんなことが、今になってからわかった。今更もう遅いのに、と自嘲の笑みを零す。

僕はあの後、自分の部屋には帰らず、母の元を尋ねた。1人では、もうどうしたら良いかわからなかった。母は、様子のおかしい僕の姿と首裏のガーゼを見て、すぐにその理由に気づいたようだった。気づけなくてごめんね、と僕に縋るように泣いた。僕は母の背を抱いて、大丈夫と何度も口に出した。こんなの、気づけるはずがない。父も母もβで、出生時も、13歳の時の診断でもβだった。診断後に性別変異するのは非常に特殊な事例だ。自分だって気づいていなかった。

⋯⋯だからといって、知らなかったでは許されない。アルバートは次期国王だ。従者のΩと番ったなんて知れたら、向けられる目は厳しいものになるだろう。邪悪な淫売Ωが誑かしたのだと糾弾され、最悪、殺される。そんな舞台に立ちたくはない。こんなつもりじゃなかった。ただ、寂しがりな主人を、傍で支えられたらと、そう思っていた。⋯⋯けれど、もう無理かもしれない。どうしたって、僕は、ここに居られない。

それがわかっているから、母は僕の身を案じて泣いた。僕は母を通して、体調不良を理由にアルバートの侍従から暫く外れ、遠くの街で療養する旨を上司に伝えた。それから、母は秘密裏に伝手を使って、辺境の修道院に行けるよう手配してくれた。


王宮を出るなら、できるだけ早い方が良い。僕はほぼ身一つで馬車に乗りこんだ。昨夜から雨が降り出したようで、空は都合よく仄暗い。行き先は、着くのに3日も4日もかかる辺境の地だ。この雨のせいで、今回はもう少しかかるとのことだった。

僕が王宮を去ることも、そんな辺境の地に行くことも、アルバートには伝えないまま出てきた。

『どこにも行かないでね』

馬車に揺られながら、切なげにこちらを見つめる深い海のような瞳と、結局守れなかった約束を思い出す。蕩けるような口付けも、甘やかに紡がれた愛の告白も、項に触れた熱も、未だ消えない。

後ろを振り返ると、もう王宮は小さくなっていてよく見えない。ただ、湿った土にくっきりと轍が残っているだけだった。少し痛む心臓のあたりを握りしめる。この痛みも、アルバートとの記憶も、少し残った未練も、雨に流されて、全部消えてしまえば良い。水をはねながら、馬車は整備されていない道を進む。段々、雨音が強くなってきた。






何日かかけてやっと目当ての教会についた。石造りの、小規模な塔のような建物で、小さな村を見下ろすように、村を外れた丘の上にポツンと佇んでいた。確か、神父様が居るはずなのだけれど、扉を叩いても人がいる気配はない。

御者は少し休むと、軽くお別れを言って、また馬を走らせた。当然だ。彼には他に仕事がある。馬車が走り去って、やがて見えなくなって、そうして、僕は1人になった。

天気は、先日までの大雨が嘘のようにカラリと乾いていて、日差しが少し鋭いくらいだった。

とりあえず、教会の前で人が来るのを待つことにした。影に入っているので、日差しもそこまで眩しくない。特にすることもないので、小川にかけられた水車が回っているのをただただ見つめる。涼やかな風が頬を撫で、森からは、木々のざわめきと、よく分からない鳥の鳴き声が聞こえる。どこか懐かしい気持ちだ。長旅で疲れが溜まっていたのだろうか。瞼が少しずつ重くなっていく。船を漕ぐように、うつらうつらと体が揺れた。現実が暗闇に飲み込まれていく。

「あれ?見ない顔だね」

澄んだ声に目を開けると、見知らぬ美しい人が、その艶やかな長髪を風に靡かせていた。

「どちら様かな?」

蜂蜜のような円やかな瞳、亜麻色の髪。そして、金の装飾が施された白い服──

「⋯⋯?あ、えっと、神父様ですか?」
「そうだけど、私のことを知っているということは、誰かから聞いたのかな?」

清廉で美しく、しかし底知れぬ笑みを浮かべる男性は、やはり神父様のようだ。母から特徴は聞いていたが、半分眠っていたため、気づくのが遅れてしまった。

「はい、母から。僕の母はマグリットといって⋯⋯」
「マグリ?」

今まで仮面を被ったように動かなかった神父様の表情に、一瞬の綻びが見えた。

「はい。神父様とは幼なじみだと聞いてます。これは母からの手紙です。」

「そう、確かに君の髪はマグリと同じ──深い飴色だ。このサインも彼女のものだし⋯⋯そうか。おいで、歓迎するよ」

神父様はそう言って、扉を開けた。教会の中は繊細で美しいステンドグラスから漏れ出る光が、中央に立てられた石膏像に降り注いでいた。僕は素朴ながらも美しいその内装に圧倒されて、ため息を吐いた。

「ここが教会。毎日お祈りをするんだ。手紙にも書いてあるように、君にはここを維持するお手伝いをしてもらうことにしよう。」
手伝い、というのは清掃とかだろうか。そういったものは小さい頃からやっていて慣れているので助かる。

「次は家だね。こちらへおいで」

神父様は教会を出て、丘を下った。すぐ下に小川沿いの小さな家があった。普段、神父様はここで生活しているらしく、僕にはその一室を貸し出してくださるとのことだった。元々物置だったが、急いで家具だけを運び込んだそうだ。部屋には、採光のための小窓があり、簡易的なベッドと小さな机がある。仄かな木の香りがどこか懐かしさを感じさせる。

「汚いし、準備も簡素で申し訳ない。だが、しばらくはこれで我慢してくれ」
「いえ、充分です。ありがとうございます。」

はにかみながらお礼を言うと、神父様に変な顔をされた。後で聞くと、謙虚すぎて王宮での暮らしぶりが心配になったらしい。優しい人だ。





⋯⋯それからの生活は、穏やかで快適だった。相変わらず神父様の腹の底は読めないが、悪い人でないことは確かだった。自分を後回しにしがちな神父様の身の回りの世話をして、神殿のお手伝いもする。元々侍従として働いていた僕には、この仕事はとても合っていた。村の人たちも、都会の方に番がいるのだというと、チョーカーつきの僕でも快く受け入れてくれた。ここは、あまりにも優しく、緩やかな時間が流れていた。ずっと、ここに居られたら──そんなことを、教会の床を掃きながらふと思う。けれど、そんなこと、できるんだろうか。自分の影が、目の前を阻むように石畳の床に映った。

なんとなく、首裏を触る。そこにあるのは、無機質なチョーカーの質感だけだ。そうして、現実を思い出す。今は、優しい神父様と村の人達が僕をここに置いてくれているだけ。これからもずっと、迷惑をかけ続けることはできない。僕は、これからどうしたらいいんだろう。床を掃く手が止まった。こうして何もしないと、ここはとても静かだ。だからかもしれない。少し、考えすぎてしまう。

気を取り直して、床掃除を再開した時、教会の扉が勢いよく開かれた。

「⋯⋯っ、ちょっといいかな」

神父様だ。息も荒く、髪も乱れている。いつもの様子とはまるで違う。多分、なにかあったのだ。それもただ事ではないのだろう。

「⋯⋯さっき、マグリから早馬が来たんだ。どうも最近、王宮の兵士が近くを嗅ぎ回っているらしい。」
「そんな⋯⋯っ」

王宮の兵士は本来、王や国を守るためのものだ。そんな人達が目的もなく、こんな辺境まで来るなんて、普通はない。普通じゃないとしたら──指先から、体が冷えていくのがわかった。まさか、そんなはずは無い。

「そろそろ、この村にも来る頃だろう。だから、早く──」

神父様の言葉を遮るように、扉が開いた。一連の動きがスローモーションのように見える。なんで、いや、流石に、どうしてここまで、あまりにも早すぎる──信じ難い現実を、脳が受け入れてくれない。扉の先には数人の兵士たちと、その胸に飾られた王国の紋章。

「フィオ!ここにいたんだね!」

──そして、僕の姿を見つけて、花が咲いたように笑うアルバートがいた。

言葉がでない。まるで、周囲の時間が止まってしまったような心地だった。

「逃げよう」

神父様に手を引かれて、やっと頭が回りだす。そうだ、逃げなきゃ⋯⋯裏口に向かって、駆け出す。2歩、3歩と進んだところで、呻き声が聞こえた。不意に、つないでいた手が緩んで、ずしりと重さを増した。

「神父様!」

振り向くと、鮮やかな血が教会の床を濡らしていた。

「っ、私のことはいいから」

僕を安心させようと笑ってはいるが、額には脂汗がじっとりと滲んでいる。きっと、相当痛いのだろう。近寄ってみると、ふくらはぎのあたりにナイフがザックリと刺さっていた。

「酷い⋯⋯」

多分、後ろから刺されたのだ。そして、そんなことができるのは、ここに1人しかいない。

「フィオ」

静かな声が僕の名前を呼んだ。体が固まって動けないでいると。そのまま後ろから抱きしめられた。そっとその顔を盗み見ると、アルバートは、満足そうに笑っていた。何も無かったみたいな表情だ。なんで、そんな風に笑えるんだろう。口を開こうとしてやめた。一言でも発したら、無様に泣いてしまいそうな気がした。僕は、ぐしゃぐしゃの表情を隠すように俯く。

「なんだか、すっごい久しぶりだね。今までどうしてたの?僕はね、ずっとフィオのこと考えてたよ。ふふ、この抱き心地も懐かしいなぁ。温かいね、本物だ。ねぇ、フィオ。こっち見てよ。」

「⋯⋯やめて」

こちらに伸ばされる手を払い除けると、アルバートの表情が、一瞬揺らいだ。まるで、拒絶されるなんて、思ってもいなかったようなな顔だ。

「なんで?」

掠れた声は、ひどく幼くて、危うげな雰囲気を有していた。本当に何もわかっていないのか、僕は失望の眼差しで、アルバートを見つめた。

「なんでって⋯⋯アルバートが酷いことをしたから。神父様を治療して、謝っ──」
「どうして?そいつのことを庇うの?」

僕の言葉を遮るように、低く掠れた声が響いた。

「え?そういうことじゃ⋯⋯」

この人は、一体何を言っているんだろう。言葉は通じるのに、2人の間に越えられない壁があるような気がした。なんて言おうか考えていると、目が合った。泥のように濁った色をした瞳だ。その目が悲痛に歪んで、首裏の証に縋るように、チョーカーの上を指が滑った。その執拗な動きに、自分の背筋が粟立つのを感じる。

「フィオは、あいつに唆されたんでしょ?だから僕から逃げたんだ。──だって、ずっと一緒に居ようって、約束したもんね。ねっ?ずっと一緒にいるんだよ。だからさ、僕たちの愛を阻むものは壊すべきでしょう?」

パキリ、と首の後ろで、チョーカーの留め具が壊れる音がした。

「⋯⋯違うよ。」

僕の返事にアルバートが、息を呑んだのが分かった。

「全部、僕が決めた。」
「⋯⋯嘘、嘘でしょ?ねぇ」

僕の言葉を拒絶するように、アルバートは笑いながら問いかける。僕は答えなかった。

「神父様を治して」

僕の要求に、アルバートは口を閉ざした。重い沈黙の中で、青い瞳が揺れて、僕を見つめる。アルバートは、絞り出すように尋ねた。

「⋯⋯もし、断ったら?」

「僕は、アルのことを一生許せないと思う」

真っ向から、自分の固い意志を伝えるように見つめると、暫しの沈黙の末に、アルバートは諦めたように笑った。

「⋯⋯そう。じゃあさ、治したらフィオは一緒に来てくれる?」

それは、多分、番として王宮に来ないか、という問いかけだった。僕が茨の道だと、初めに避けた選択だった。

──けれど、もう逃げることはできない。

だって、アルバートはこの返答がどうあれ、僕を逃がさないつもりだから。今だって、優しく取り繕うふりをしながら、その瞳の奥には、獲物を前にした獰猛な獣のような、底の見えない執念深さが光っている。もし、断ったら、何をされるかわからない恐ろしさがそこにはあった。こうして見つかってしまった以上、今更、逃げようとしたって、すぐにつかまってしまうのがオチだろう。

実質の選択肢がない中で、最善を考える。これだけ周囲に迷惑をかけたのだ。最後の幕引きが選択できることを、最早喜ぶべきなのかもしれない。僕は、諦めの籠った深いため息を吐きだした。

「⋯⋯そうだね、アルの被害に遭うのは僕だけでいいや。」

途端に、アルバートの顔が明るくなる。今にも抱きしめてきそうな勢いだ。それを制止するように、言葉を続ける。

「⋯⋯でも、最後にもう一つだけお願い。もう、周りに迷惑かけないって約束して」

「わかったよ!約束ね。ふふ、嬉しいなぁ⋯⋯」

アルバートは蕩けるような笑みを見せて、すぐさま側近に指示を出した。そうかと思うと、指を絡めるようにして、僕の手をぎゅっと繋ぐ。先ほどまでの陰鬱な様子はどこへやら、晴れやかな表情だ。前のアルバートに戻ったみたいだ、と思った。態度が変わっても、神父様を傷つけた事実は消えないのに。僕は視線を落として、繋がれた手のひらを見つめる。自分で選択したものの、わからなくなっていたのだ。⋯⋯本当に、これでよかったのだろうか。いや、こうするしかなかった、そう思う度、苦い味が喉の奥に溜まっていくような気がした。

無意識に、治癒士が手当をしに行った神父様の方に視線をやる。ちょうど、患部に布を巻かれたところだった。

不意に、視界が切り替わる。強引に頭を持ち上げられたのだ。だんだん力の強まる指が、ギリギリと首の肉にめり込んで痛い。

「ねぇ、フィオの番は僕でしょう?」

目の前の青い瞳は、僕の意識を飲み込みそうなほど、深い色をしていた。文句を言う隙もなく、抱きかかえられる。アルバートは、僕を非難するような視線を向けたあと、そのまま首筋に鼻を寄せた。そうして、何度か軽いキスをした後、汗をなめとるようにして、首裏の跡を確かめた。その不思議な感覚に、僕の体は逃げようと動くが、両腕でがっちりと固定されていたために、少し身動ぎをする程度しかできなかった。尖った歯が、あたりをつけるように、何度か項に触れる。嫌、嫌、と這いずるように、アルバートの肩や首を掴んで縋るが、そんな抵抗は全て無意味だった。尖った牙が、薄い肌を貫く感触がある。体が、その悦びのあまり引き攣って震えた。

「あっ⋯⋯あぁ⋯⋯」

ヒートでもないので、最初の時のような突き抜ける快感はないが、じわじわと体がつくりかえられていくような湿った快楽があった。僕を包む、鼻腔を突き抜けるような華やかな薔薇の香りに、なんだか泣きそうになる。

「ふふ、可愛い。早く帰って続きをしようか」

僕は今どんな顔をしているのだろうか。アルバートは、満足そうに僕の血をなめとって、どこかへと歩みを進めた。先ほどの生ぬるい触れ合い一つで、ぼんやりと熱を持った僕の体では、わずかな思考さえ溶けてしまって、今、どこに向かっているかさえわからなかった。

「愛してるよ、フィオ。これからも、ずっと一緒にいようね」

ただ、鈍い頭の中に、歪んだ愛の言葉だけが響いていた。



END
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かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー AI比較企画作品

姉の代わりに舞踏会に行ったら呪われた第三王子の初恋を奪ってしまった

近井とお
BL
幼少期、ユーリは姉によく似ていることから彼女の代わりに社交の場に出席することが多々あった。ある舞踏会の夜、中庭に姿を眩ませたユーリに誰かがぶつかってくる。その正体は呪われていると噂の第三王子であったが、ぶつかられたことに腹を立てたユーリは強気に接し、ダンスを踊った後、彼を捜している気配を感じてからかいながら立ち去る。 それから数年後、第三王子は初恋の令嬢を探し始めたが、それはユーリに違いなく……。 初恋の相手を捜す第三王子×軽口令息

【創作BLオメガバース】優しくしないで

万里
BL
壮士(そうし)は男のΩ。幼馴染の雅人(まさと)にずっと恋をしていた。雅人は太陽のように眩しくて、壮士の世界を変えてくれた存在。彼の影を追うように、同じスポーツを始め、同じ高校に進学し、ずっと傍にいた。 しかし、壮士のヒートのせいで、雅人も充てられて発情してしまう。壮士は必死に項を守り、番になることを拒む。好きだからこそ、こんな形では結ばれたくなかった。壮士は彼の幸せを願って別の大学へ進学する。 新しい環境で出会ったのは、α・晴臣(はるおみ)。彼もまた、忘れられない人がいるという。 互いに“好きな人”を抱えたまま始まる関係。心の隙間を埋め合うふたり。けれど、偽りのはずだったその関係に、いつしか本物の感情が芽生えていく?

人生はままならない

野埜乃のの
BL
「おまえとは番にならない」 結婚して迎えた初夜。彼はそう僕にそう告げた。 異世界オメガバース ツイノベです

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