動物嫌いの婚約者……婚約破棄、助かりました ―幼い公爵令嬢は神獣たちにもふもふ囲まれて辺境で幸せに暮らします―

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7話 辺境へ

7話 辺境へ

婚約破棄の翌日から、フォルヴェール公爵邸は妙に静かになった。

前までは、リリアーナのいる場所にはどこか「どう扱えばいいのか」と迷う空気があった。けれど今は違う。

みんな、はっきり忙しいのだ。

執務室の前を人が何度も行き来する。父は朝から難しい顔をして、食事の時ですらほとんど喋らない。家令は書類を抱えたまま走るように動き、乳母まで落ち着きなくしていた。

リリアーナは、そういう空気に慣れていない。

「わたし、じゃま?」

朝の支度をしてもらいながら、ぽつりとそう聞くと、乳母は手を止めた。

「おじょうさまが邪魔なわけではありません」

「でも、みんな、いそがしそう」

「……ええ」

「やっぱり、婚約破棄ってたいへんなの?」

「たいへん、ではあります」

乳母はそこで少し迷うように視線を落とした。

「ですが、おじょうさまが気に病むことではございません」

「ほんとう?」

「はい。大人が決めて、大人が片づけるべきことでございます」

それはたぶん、乳母なりのやさしさだった。

でもリリアーナは、少しだけ考えてしまう。

婚約破棄されて、助かった、と自分は思った。でも、そのせいで大人たちがこんなに忙しいのなら、自分だけほっとしているのは悪いことなのかもしれない。

そんなふうに思ってしまって、胸の奥がちくりとした。

頭の上で、ぴよちゃんがぴよ、と鳴く。

「……だいじょうぶ?」

小さな声で聞くと、ぴよちゃんは当然のようにもう一度鳴いた。

言葉は分からない。でも、たぶん“大丈夫”だと言いたいのだろう。

足元ではミーちゃんが、今日は珍しく最初から部屋の中にいた。窓辺ではなく、椅子の下だ。ワンちゃんも、扉の近くではなくリリアーナのすぐそばに伏せている。

みんな、いつもより近い。

「どうしたの?」

聞いても、返ってくるのは鳴き声だけだ。

「ぴよ」

「にゃー」

「わん」

でもリリアーナにはなんとなく分かった。たぶん、みんな、ちょっとだけ自分を気にしている。

そう思うと、少しだけあったかい。

「わたし、へいきよ」

そう言って笑ってみせると、ぴよちゃんは頭の上で小さく跳ねた。ミーちゃんは目を細め、ワンちゃんは耳をぴくりと動かす。

そこへ、扉が控えめに叩かれた。

「おじょうさま」

家令だった。

乳母が扉を開けると、家令はいつも以上に硬い顔で一礼した。

「旦那様がお呼びです」

「おとうさま?」

リリアーナはきょとんとした。

父が自分を呼ぶことは、あまり多くない。叱る時か、何かを正式に言い聞かせる時くらいだ。

「すぐに、ですか」

「はい。執務室へ」

乳母が一瞬だけ眉を寄せた。けれど何も言わず、リリアーナの髪と服をもう一度整える。

「ぴよちゃんも、いっしょ」

「……そうでしょうね」

「ミーちゃんも」

「はいはい」

「ワンちゃんも」

「……はい」

乳母はもはや諦めたようにうなずいた。

こうしてリリアーナは、ぴよちゃんを頭に、ミーちゃんを後ろに、ワンちゃんを伴って執務室へ向かった。

廊下を歩く途中、使用人たちが少し驚いた顔をした。けれどもう、誰も露骨には止めない。

婚約破棄の日のあとから、この三匹は“ただの犬猫鳥ではないのでは”と、ぼんやり感じ始めた者もいるのかもしれない。あるいは単に、リリアーナから引き離せないと悟っただけか。

どちらにせよ、以前より道が開くようになっていた。

執務室の前まで来ると、家令が扉を開けた。

父は机の向こうではなく、来客用の長椅子のそばに立っていた。リリアーナを見ると、いつもよりずっと慎重な顔になる。

「来たか」

「はい、おとうさま」

リリアーナはぺこりと頭を下げた。ぴよちゃんが少しぐらついたが、落ちなかった。

父はその様子を一瞬だけ見て、それから小さく息をつく。

「座りなさい」

「はい」

言われた通り、長椅子に腰かける。ワンちゃんはそのすぐ横に伏せ、ミーちゃんは暖炉のそばへするりと移動した。

父は少しのあいだ黙っていた。

その沈黙が長くて、リリアーナはそわそわする。

「……おとうさま?」

「リリアーナ、お前は辺境へ行く」

思ったよりあっさり言われて、リリアーナは瞬きをした。

「へんきょう?」

「そうだ。フォルヴェール家が保有する北の離宮だ」

「どうして?」

「少しのあいだ、王都を離れた方がいい」

それは命令の形をしていたけれど、声はどこか言い訳めいてもいた。

リリアーナは首をかしげる。

「わたし、なにかした?」

「お前が悪いわけではない」

「じゃあ、どうして?」

父は答えるのに少し時間がかかった。

「王家との婚約がなくなったばかりだ。社交界はうるさい。余計な目や口から、お前を遠ざける必要がある」

「めんどうだから?」

「……そうだ」

少しだけ、正直な返事だった。

リリアーナは考える。

辺境。離宮。王都を離れる。

よく分からないけれど、今のお屋敷から別の場所へ行くのだということだけは分かった。

「どのくらい?」

「しばらく、だ」

「しばらくって、どのくらい?」

「……長くなるかもしれん」

その言葉で、ようやく少しだけ実感が湧いた。

ここを離れる。この部屋も、庭も、東屋も、猫がいっぱい来た花壇も、しばらく見られないのかもしれない。

胸が、少しだけきゅっとした。

「そう……」

リリアーナは俯きかけて、でもすぐにもう一つ大事なことを思い出した。

「あの」

父が目を向ける。

「みんなも、いっしょ?」

父の視線が、ぴよちゃん、ミーちゃん、ワンちゃんへ流れる。

少しの沈黙。

正直、そこで「だめだ」と言われるのではないかと、リリアーナは思った。

でも父は、静かに言った。

「……連れていけ」

「ほんとう?」

思わず、ぱっと顔が明るくなる。

父は苦い顔のまま、うなずいた。

「お前から離そうとしても無駄だろう」

「うん」

「うん、ではない」

叱られたのかどうか微妙な声だった。けれど、許してくれたのだと分かった。

それだけで、さっきまでの不安の半分くらいは消えてしまう。

「よかった」

心からそう言うと、父はほんの少しだけ視線を外した。

その顔はやっぱり厳しい。でも、以前よりほんの少しだけ疲れて見えた。

リリアーナは考えて、そっと聞く。

「おとうさま、たいへん?」

「……ああ」

「ごめんなさい」

「お前が謝ることではない」

返ってきた言葉は、思ったより強かった。

父は椅子に腰を下ろし、額を押さえる。

「婚約破棄を望んだのは向こうだ。こちらが気に病む必要はない」

「でも、いそがしい」

「忙しいのは事実だ」

「じゃあ、やっぱりごめんなさい」

「リリアーナ」

低い声で名前を呼ばれて、リリアーナは背筋を伸ばした。

父はしばらく娘を見ていたが、やがて小さく息をつく。

「お前は、自分が婚約破棄されたことを、どう思っている」

難しい問いだった。

リリアーナは考える。

悲しい。ちょっとだけ。でも、すごくではない。

嫌な人に嫌われた、という感じでもない。ただ、この子たちを嫌う人と結婚しなくてよくなった、という安心の方が大きい。

それを、そのまま言った。

「……たすかった」

父が、ぴくりと眉を動かす。

「たすかった?」

「うん」

「なぜだ」

「ぴよちゃんたちを、きらいなひとだったから」

リリアーナは、父が怒るかもしれないと思った。でも怒らなかった。

代わりに、なんとも言えない顔をした。驚きと、苦さと、少しの諦めが混ざったみたいな顔だった。

「お前は……」

「うん?」

「いや」

父は言葉を切って、ふとワンちゃんを見る。白銀の大きな犬は、父の視線を受けても微動だにしない。

それから暖炉のそばのミーちゃん。最後に、リリアーナの頭の上のぴよちゃん。

そして父は、ようやく小さく言った。

「辺境へ行け。あちらの方が、お前には向いているかもしれん」

「へんきょう、いいところ?」

「自然は多い」

「おにわある?」

「庭どころではない」

「おっきいの?」

「かなりな」

それを聞いた途端、リリアーナの目が少し輝いた。

自然が多い。庭どころではない。それはつまり、犬さんも猫さんも鳥さんも、たくさんいるかもしれないということだ。

「じゃあ、いいところかも」

父が、一瞬だけ目を細めた。呆れたのか、少しだけ笑いそうになったのか、リリアーナには分からない。

「支度は今日から始める。出発は三日後だ」

「みっかご」

「それまでに必要なものをまとめなさい」

「はい」

返事をしてから、リリアーナはもう一つ気づいた。

「おとうさまは、いっしょにいかないの?」

「行けん」

「そう……」

そこだけ、少し寂しかった。

父は忙しい。王都を離れられない。たぶんそういうことだ。

でも、別れるのだと思うと少しだけ胸がきゅっとする。

そんな気持ちが顔に出たのだろう。父は、ぎこちなく言った。

「離宮には信頼できる者を置く。世話は足りるようにする」

「うん」

「……時が来れば、戻す」

「ほんとう?」

「ああ」

その約束が本当かどうかは、リリアーナには分からない。でも今は、そう言ってもらえただけで少し安心した。

「じゃあ、いってきますするね」

「ああ」

「ぴよちゃんたちも、いっしょ」

「好きにしろ」

「うん」

リリアーナは立ち上がった。

そのとき、ワンちゃんもすぐに立つ。ミーちゃんは暖炉のそばから音もなく移動し、ぴよちゃんは頭の上で一度羽を揺らした。

父は、その一連を黙って見ていた。

「おとうさま」

「何だ」

「おしごと、がんばって」

「……ああ」

リリアーナはにこっと笑って、ぺこりと頭を下げた。

執務室を出ると、さっきまでより少しだけ足取りが軽くなっていた。辺境へ行くのは不安だ。でも、みんなと一緒なら大丈夫かもしれない。

それに、自然がいっぱいあるらしい。それは少し楽しみだった。

廊下の途中で、乳母が待っていた。顔を見るなり、すぐに様子をうかがう。

「おじょうさま」

「へんきょうへいくの」

「……そうでございましたか」

「みんなもいっしょでいいって」

「それは、ようございましたね」

乳母は本当にほっとした顔をした。

リリアーナは歩きながら、ぽつりと言う。

「おとうさま、つかれてた」

「はい」

「わたしのせい?」

「違います」

「ほんとう?」

「ええ。少なくとも、それだけではありません」

“それだけではない”という答えは少し難しかったけれど、“全部がお前のせいではない”と言われた気がして、少し楽になる。

「なら、よかった」

「おじょうさまは、本当に……」

「なあに?」

「いいえ」

乳母は最後まで言わなかった。

部屋に戻ると、リリアーナはさっそく荷物のことを考え始める。お気に入りの絵本。ふわふわの毛布。小さなクッション。ぴよちゃんが時々嘴でつつく木の玩具。ミーちゃんが日向ぼっこする時に使う柔らかい布。ワンちゃんには……ワンちゃんは大きいので、何を持っていけばいいのかよく分からない。

「ワンちゃんの、おきにいりってなに?」

聞くと、ワンちゃんは黙って頭を差し出した。

「それは、おて?」

首をかしげると、ぴよちゃんがぴよぴよ鳴き、ミーちゃんは半目になった。どうやら違うらしい。あるいは、いつものように、だいたい合っているのかもしれない。

「じゃあ、なでなでね」

そう言って頭を撫でると、ワンちゃんは満足そうに目を細めた。

ミーちゃんは窓辺へ移動し、外を見る。たぶん、辺境がどんなところかなんて少しも気にしていない。けれど、ついてくる気は満々なのだろう。

ぴよちゃんは頭の上から離れない。

リリアーナはそんなみんなを見回して、小さく笑った。

「みんな、たびじたくするのよ」

三匹はそれぞれ鳴いた。

言葉は分からなくても、それがちゃんと“聞いている”という返事に思えた。

窓の外では、庭の木々が春の風に揺れている。ここを離れるのは少し寂しい。でも、新しい場所へ行くのは少しだけ楽しみでもあった。

婚約破棄されて、辺境へ行く。

大人たちにとっては大変なことなのだろう。でもリリアーナにとっては、まだ、そこまで重くはない。

ただ、犬さんと猫さんと鳥さんと一緒に、知らない場所へ行く。それだけだった。

そしてそれは、ほんの少しだけ冒険みたいにも思えた。
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