7 / 32
7話 辺境へ
7話 辺境へ
婚約破棄の翌日から、フォルヴェール公爵邸は妙に静かになった。
前までは、リリアーナのいる場所にはどこか「どう扱えばいいのか」と迷う空気があった。けれど今は違う。
みんな、はっきり忙しいのだ。
執務室の前を人が何度も行き来する。父は朝から難しい顔をして、食事の時ですらほとんど喋らない。家令は書類を抱えたまま走るように動き、乳母まで落ち着きなくしていた。
リリアーナは、そういう空気に慣れていない。
「わたし、じゃま?」
朝の支度をしてもらいながら、ぽつりとそう聞くと、乳母は手を止めた。
「おじょうさまが邪魔なわけではありません」
「でも、みんな、いそがしそう」
「……ええ」
「やっぱり、婚約破棄ってたいへんなの?」
「たいへん、ではあります」
乳母はそこで少し迷うように視線を落とした。
「ですが、おじょうさまが気に病むことではございません」
「ほんとう?」
「はい。大人が決めて、大人が片づけるべきことでございます」
それはたぶん、乳母なりのやさしさだった。
でもリリアーナは、少しだけ考えてしまう。
婚約破棄されて、助かった、と自分は思った。でも、そのせいで大人たちがこんなに忙しいのなら、自分だけほっとしているのは悪いことなのかもしれない。
そんなふうに思ってしまって、胸の奥がちくりとした。
頭の上で、ぴよちゃんがぴよ、と鳴く。
「……だいじょうぶ?」
小さな声で聞くと、ぴよちゃんは当然のようにもう一度鳴いた。
言葉は分からない。でも、たぶん“大丈夫”だと言いたいのだろう。
足元ではミーちゃんが、今日は珍しく最初から部屋の中にいた。窓辺ではなく、椅子の下だ。ワンちゃんも、扉の近くではなくリリアーナのすぐそばに伏せている。
みんな、いつもより近い。
「どうしたの?」
聞いても、返ってくるのは鳴き声だけだ。
「ぴよ」
「にゃー」
「わん」
でもリリアーナにはなんとなく分かった。たぶん、みんな、ちょっとだけ自分を気にしている。
そう思うと、少しだけあったかい。
「わたし、へいきよ」
そう言って笑ってみせると、ぴよちゃんは頭の上で小さく跳ねた。ミーちゃんは目を細め、ワンちゃんは耳をぴくりと動かす。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「おじょうさま」
家令だった。
乳母が扉を開けると、家令はいつも以上に硬い顔で一礼した。
「旦那様がお呼びです」
「おとうさま?」
リリアーナはきょとんとした。
父が自分を呼ぶことは、あまり多くない。叱る時か、何かを正式に言い聞かせる時くらいだ。
「すぐに、ですか」
「はい。執務室へ」
乳母が一瞬だけ眉を寄せた。けれど何も言わず、リリアーナの髪と服をもう一度整える。
「ぴよちゃんも、いっしょ」
「……そうでしょうね」
「ミーちゃんも」
「はいはい」
「ワンちゃんも」
「……はい」
乳母はもはや諦めたようにうなずいた。
こうしてリリアーナは、ぴよちゃんを頭に、ミーちゃんを後ろに、ワンちゃんを伴って執務室へ向かった。
廊下を歩く途中、使用人たちが少し驚いた顔をした。けれどもう、誰も露骨には止めない。
婚約破棄の日のあとから、この三匹は“ただの犬猫鳥ではないのでは”と、ぼんやり感じ始めた者もいるのかもしれない。あるいは単に、リリアーナから引き離せないと悟っただけか。
どちらにせよ、以前より道が開くようになっていた。
執務室の前まで来ると、家令が扉を開けた。
父は机の向こうではなく、来客用の長椅子のそばに立っていた。リリアーナを見ると、いつもよりずっと慎重な顔になる。
「来たか」
「はい、おとうさま」
リリアーナはぺこりと頭を下げた。ぴよちゃんが少しぐらついたが、落ちなかった。
父はその様子を一瞬だけ見て、それから小さく息をつく。
「座りなさい」
「はい」
言われた通り、長椅子に腰かける。ワンちゃんはそのすぐ横に伏せ、ミーちゃんは暖炉のそばへするりと移動した。
父は少しのあいだ黙っていた。
その沈黙が長くて、リリアーナはそわそわする。
「……おとうさま?」
「リリアーナ、お前は辺境へ行く」
思ったよりあっさり言われて、リリアーナは瞬きをした。
「へんきょう?」
「そうだ。フォルヴェール家が保有する北の離宮だ」
「どうして?」
「少しのあいだ、王都を離れた方がいい」
それは命令の形をしていたけれど、声はどこか言い訳めいてもいた。
リリアーナは首をかしげる。
「わたし、なにかした?」
「お前が悪いわけではない」
「じゃあ、どうして?」
父は答えるのに少し時間がかかった。
「王家との婚約がなくなったばかりだ。社交界はうるさい。余計な目や口から、お前を遠ざける必要がある」
「めんどうだから?」
「……そうだ」
少しだけ、正直な返事だった。
リリアーナは考える。
辺境。離宮。王都を離れる。
よく分からないけれど、今のお屋敷から別の場所へ行くのだということだけは分かった。
「どのくらい?」
「しばらく、だ」
「しばらくって、どのくらい?」
「……長くなるかもしれん」
その言葉で、ようやく少しだけ実感が湧いた。
ここを離れる。この部屋も、庭も、東屋も、猫がいっぱい来た花壇も、しばらく見られないのかもしれない。
胸が、少しだけきゅっとした。
「そう……」
リリアーナは俯きかけて、でもすぐにもう一つ大事なことを思い出した。
「あの」
父が目を向ける。
「みんなも、いっしょ?」
父の視線が、ぴよちゃん、ミーちゃん、ワンちゃんへ流れる。
少しの沈黙。
正直、そこで「だめだ」と言われるのではないかと、リリアーナは思った。
でも父は、静かに言った。
「……連れていけ」
「ほんとう?」
思わず、ぱっと顔が明るくなる。
父は苦い顔のまま、うなずいた。
「お前から離そうとしても無駄だろう」
「うん」
「うん、ではない」
叱られたのかどうか微妙な声だった。けれど、許してくれたのだと分かった。
それだけで、さっきまでの不安の半分くらいは消えてしまう。
「よかった」
心からそう言うと、父はほんの少しだけ視線を外した。
その顔はやっぱり厳しい。でも、以前よりほんの少しだけ疲れて見えた。
リリアーナは考えて、そっと聞く。
「おとうさま、たいへん?」
「……ああ」
「ごめんなさい」
「お前が謝ることではない」
返ってきた言葉は、思ったより強かった。
父は椅子に腰を下ろし、額を押さえる。
「婚約破棄を望んだのは向こうだ。こちらが気に病む必要はない」
「でも、いそがしい」
「忙しいのは事実だ」
「じゃあ、やっぱりごめんなさい」
「リリアーナ」
低い声で名前を呼ばれて、リリアーナは背筋を伸ばした。
父はしばらく娘を見ていたが、やがて小さく息をつく。
「お前は、自分が婚約破棄されたことを、どう思っている」
難しい問いだった。
リリアーナは考える。
悲しい。ちょっとだけ。でも、すごくではない。
嫌な人に嫌われた、という感じでもない。ただ、この子たちを嫌う人と結婚しなくてよくなった、という安心の方が大きい。
それを、そのまま言った。
「……たすかった」
父が、ぴくりと眉を動かす。
「たすかった?」
「うん」
「なぜだ」
「ぴよちゃんたちを、きらいなひとだったから」
リリアーナは、父が怒るかもしれないと思った。でも怒らなかった。
代わりに、なんとも言えない顔をした。驚きと、苦さと、少しの諦めが混ざったみたいな顔だった。
「お前は……」
「うん?」
「いや」
父は言葉を切って、ふとワンちゃんを見る。白銀の大きな犬は、父の視線を受けても微動だにしない。
それから暖炉のそばのミーちゃん。最後に、リリアーナの頭の上のぴよちゃん。
そして父は、ようやく小さく言った。
「辺境へ行け。あちらの方が、お前には向いているかもしれん」
「へんきょう、いいところ?」
「自然は多い」
「おにわある?」
「庭どころではない」
「おっきいの?」
「かなりな」
それを聞いた途端、リリアーナの目が少し輝いた。
自然が多い。庭どころではない。それはつまり、犬さんも猫さんも鳥さんも、たくさんいるかもしれないということだ。
「じゃあ、いいところかも」
父が、一瞬だけ目を細めた。呆れたのか、少しだけ笑いそうになったのか、リリアーナには分からない。
「支度は今日から始める。出発は三日後だ」
「みっかご」
「それまでに必要なものをまとめなさい」
「はい」
返事をしてから、リリアーナはもう一つ気づいた。
「おとうさまは、いっしょにいかないの?」
「行けん」
「そう……」
そこだけ、少し寂しかった。
父は忙しい。王都を離れられない。たぶんそういうことだ。
でも、別れるのだと思うと少しだけ胸がきゅっとする。
そんな気持ちが顔に出たのだろう。父は、ぎこちなく言った。
「離宮には信頼できる者を置く。世話は足りるようにする」
「うん」
「……時が来れば、戻す」
「ほんとう?」
「ああ」
その約束が本当かどうかは、リリアーナには分からない。でも今は、そう言ってもらえただけで少し安心した。
「じゃあ、いってきますするね」
「ああ」
「ぴよちゃんたちも、いっしょ」
「好きにしろ」
「うん」
リリアーナは立ち上がった。
そのとき、ワンちゃんもすぐに立つ。ミーちゃんは暖炉のそばから音もなく移動し、ぴよちゃんは頭の上で一度羽を揺らした。
父は、その一連を黙って見ていた。
「おとうさま」
「何だ」
「おしごと、がんばって」
「……ああ」
リリアーナはにこっと笑って、ぺこりと頭を下げた。
執務室を出ると、さっきまでより少しだけ足取りが軽くなっていた。辺境へ行くのは不安だ。でも、みんなと一緒なら大丈夫かもしれない。
それに、自然がいっぱいあるらしい。それは少し楽しみだった。
廊下の途中で、乳母が待っていた。顔を見るなり、すぐに様子をうかがう。
「おじょうさま」
「へんきょうへいくの」
「……そうでございましたか」
「みんなもいっしょでいいって」
「それは、ようございましたね」
乳母は本当にほっとした顔をした。
リリアーナは歩きながら、ぽつりと言う。
「おとうさま、つかれてた」
「はい」
「わたしのせい?」
「違います」
「ほんとう?」
「ええ。少なくとも、それだけではありません」
“それだけではない”という答えは少し難しかったけれど、“全部がお前のせいではない”と言われた気がして、少し楽になる。
「なら、よかった」
「おじょうさまは、本当に……」
「なあに?」
「いいえ」
乳母は最後まで言わなかった。
部屋に戻ると、リリアーナはさっそく荷物のことを考え始める。お気に入りの絵本。ふわふわの毛布。小さなクッション。ぴよちゃんが時々嘴でつつく木の玩具。ミーちゃんが日向ぼっこする時に使う柔らかい布。ワンちゃんには……ワンちゃんは大きいので、何を持っていけばいいのかよく分からない。
「ワンちゃんの、おきにいりってなに?」
聞くと、ワンちゃんは黙って頭を差し出した。
「それは、おて?」
首をかしげると、ぴよちゃんがぴよぴよ鳴き、ミーちゃんは半目になった。どうやら違うらしい。あるいは、いつものように、だいたい合っているのかもしれない。
「じゃあ、なでなでね」
そう言って頭を撫でると、ワンちゃんは満足そうに目を細めた。
ミーちゃんは窓辺へ移動し、外を見る。たぶん、辺境がどんなところかなんて少しも気にしていない。けれど、ついてくる気は満々なのだろう。
ぴよちゃんは頭の上から離れない。
リリアーナはそんなみんなを見回して、小さく笑った。
「みんな、たびじたくするのよ」
三匹はそれぞれ鳴いた。
言葉は分からなくても、それがちゃんと“聞いている”という返事に思えた。
窓の外では、庭の木々が春の風に揺れている。ここを離れるのは少し寂しい。でも、新しい場所へ行くのは少しだけ楽しみでもあった。
婚約破棄されて、辺境へ行く。
大人たちにとっては大変なことなのだろう。でもリリアーナにとっては、まだ、そこまで重くはない。
ただ、犬さんと猫さんと鳥さんと一緒に、知らない場所へ行く。それだけだった。
そしてそれは、ほんの少しだけ冒険みたいにも思えた。
婚約破棄の翌日から、フォルヴェール公爵邸は妙に静かになった。
前までは、リリアーナのいる場所にはどこか「どう扱えばいいのか」と迷う空気があった。けれど今は違う。
みんな、はっきり忙しいのだ。
執務室の前を人が何度も行き来する。父は朝から難しい顔をして、食事の時ですらほとんど喋らない。家令は書類を抱えたまま走るように動き、乳母まで落ち着きなくしていた。
リリアーナは、そういう空気に慣れていない。
「わたし、じゃま?」
朝の支度をしてもらいながら、ぽつりとそう聞くと、乳母は手を止めた。
「おじょうさまが邪魔なわけではありません」
「でも、みんな、いそがしそう」
「……ええ」
「やっぱり、婚約破棄ってたいへんなの?」
「たいへん、ではあります」
乳母はそこで少し迷うように視線を落とした。
「ですが、おじょうさまが気に病むことではございません」
「ほんとう?」
「はい。大人が決めて、大人が片づけるべきことでございます」
それはたぶん、乳母なりのやさしさだった。
でもリリアーナは、少しだけ考えてしまう。
婚約破棄されて、助かった、と自分は思った。でも、そのせいで大人たちがこんなに忙しいのなら、自分だけほっとしているのは悪いことなのかもしれない。
そんなふうに思ってしまって、胸の奥がちくりとした。
頭の上で、ぴよちゃんがぴよ、と鳴く。
「……だいじょうぶ?」
小さな声で聞くと、ぴよちゃんは当然のようにもう一度鳴いた。
言葉は分からない。でも、たぶん“大丈夫”だと言いたいのだろう。
足元ではミーちゃんが、今日は珍しく最初から部屋の中にいた。窓辺ではなく、椅子の下だ。ワンちゃんも、扉の近くではなくリリアーナのすぐそばに伏せている。
みんな、いつもより近い。
「どうしたの?」
聞いても、返ってくるのは鳴き声だけだ。
「ぴよ」
「にゃー」
「わん」
でもリリアーナにはなんとなく分かった。たぶん、みんな、ちょっとだけ自分を気にしている。
そう思うと、少しだけあったかい。
「わたし、へいきよ」
そう言って笑ってみせると、ぴよちゃんは頭の上で小さく跳ねた。ミーちゃんは目を細め、ワンちゃんは耳をぴくりと動かす。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「おじょうさま」
家令だった。
乳母が扉を開けると、家令はいつも以上に硬い顔で一礼した。
「旦那様がお呼びです」
「おとうさま?」
リリアーナはきょとんとした。
父が自分を呼ぶことは、あまり多くない。叱る時か、何かを正式に言い聞かせる時くらいだ。
「すぐに、ですか」
「はい。執務室へ」
乳母が一瞬だけ眉を寄せた。けれど何も言わず、リリアーナの髪と服をもう一度整える。
「ぴよちゃんも、いっしょ」
「……そうでしょうね」
「ミーちゃんも」
「はいはい」
「ワンちゃんも」
「……はい」
乳母はもはや諦めたようにうなずいた。
こうしてリリアーナは、ぴよちゃんを頭に、ミーちゃんを後ろに、ワンちゃんを伴って執務室へ向かった。
廊下を歩く途中、使用人たちが少し驚いた顔をした。けれどもう、誰も露骨には止めない。
婚約破棄の日のあとから、この三匹は“ただの犬猫鳥ではないのでは”と、ぼんやり感じ始めた者もいるのかもしれない。あるいは単に、リリアーナから引き離せないと悟っただけか。
どちらにせよ、以前より道が開くようになっていた。
執務室の前まで来ると、家令が扉を開けた。
父は机の向こうではなく、来客用の長椅子のそばに立っていた。リリアーナを見ると、いつもよりずっと慎重な顔になる。
「来たか」
「はい、おとうさま」
リリアーナはぺこりと頭を下げた。ぴよちゃんが少しぐらついたが、落ちなかった。
父はその様子を一瞬だけ見て、それから小さく息をつく。
「座りなさい」
「はい」
言われた通り、長椅子に腰かける。ワンちゃんはそのすぐ横に伏せ、ミーちゃんは暖炉のそばへするりと移動した。
父は少しのあいだ黙っていた。
その沈黙が長くて、リリアーナはそわそわする。
「……おとうさま?」
「リリアーナ、お前は辺境へ行く」
思ったよりあっさり言われて、リリアーナは瞬きをした。
「へんきょう?」
「そうだ。フォルヴェール家が保有する北の離宮だ」
「どうして?」
「少しのあいだ、王都を離れた方がいい」
それは命令の形をしていたけれど、声はどこか言い訳めいてもいた。
リリアーナは首をかしげる。
「わたし、なにかした?」
「お前が悪いわけではない」
「じゃあ、どうして?」
父は答えるのに少し時間がかかった。
「王家との婚約がなくなったばかりだ。社交界はうるさい。余計な目や口から、お前を遠ざける必要がある」
「めんどうだから?」
「……そうだ」
少しだけ、正直な返事だった。
リリアーナは考える。
辺境。離宮。王都を離れる。
よく分からないけれど、今のお屋敷から別の場所へ行くのだということだけは分かった。
「どのくらい?」
「しばらく、だ」
「しばらくって、どのくらい?」
「……長くなるかもしれん」
その言葉で、ようやく少しだけ実感が湧いた。
ここを離れる。この部屋も、庭も、東屋も、猫がいっぱい来た花壇も、しばらく見られないのかもしれない。
胸が、少しだけきゅっとした。
「そう……」
リリアーナは俯きかけて、でもすぐにもう一つ大事なことを思い出した。
「あの」
父が目を向ける。
「みんなも、いっしょ?」
父の視線が、ぴよちゃん、ミーちゃん、ワンちゃんへ流れる。
少しの沈黙。
正直、そこで「だめだ」と言われるのではないかと、リリアーナは思った。
でも父は、静かに言った。
「……連れていけ」
「ほんとう?」
思わず、ぱっと顔が明るくなる。
父は苦い顔のまま、うなずいた。
「お前から離そうとしても無駄だろう」
「うん」
「うん、ではない」
叱られたのかどうか微妙な声だった。けれど、許してくれたのだと分かった。
それだけで、さっきまでの不安の半分くらいは消えてしまう。
「よかった」
心からそう言うと、父はほんの少しだけ視線を外した。
その顔はやっぱり厳しい。でも、以前よりほんの少しだけ疲れて見えた。
リリアーナは考えて、そっと聞く。
「おとうさま、たいへん?」
「……ああ」
「ごめんなさい」
「お前が謝ることではない」
返ってきた言葉は、思ったより強かった。
父は椅子に腰を下ろし、額を押さえる。
「婚約破棄を望んだのは向こうだ。こちらが気に病む必要はない」
「でも、いそがしい」
「忙しいのは事実だ」
「じゃあ、やっぱりごめんなさい」
「リリアーナ」
低い声で名前を呼ばれて、リリアーナは背筋を伸ばした。
父はしばらく娘を見ていたが、やがて小さく息をつく。
「お前は、自分が婚約破棄されたことを、どう思っている」
難しい問いだった。
リリアーナは考える。
悲しい。ちょっとだけ。でも、すごくではない。
嫌な人に嫌われた、という感じでもない。ただ、この子たちを嫌う人と結婚しなくてよくなった、という安心の方が大きい。
それを、そのまま言った。
「……たすかった」
父が、ぴくりと眉を動かす。
「たすかった?」
「うん」
「なぜだ」
「ぴよちゃんたちを、きらいなひとだったから」
リリアーナは、父が怒るかもしれないと思った。でも怒らなかった。
代わりに、なんとも言えない顔をした。驚きと、苦さと、少しの諦めが混ざったみたいな顔だった。
「お前は……」
「うん?」
「いや」
父は言葉を切って、ふとワンちゃんを見る。白銀の大きな犬は、父の視線を受けても微動だにしない。
それから暖炉のそばのミーちゃん。最後に、リリアーナの頭の上のぴよちゃん。
そして父は、ようやく小さく言った。
「辺境へ行け。あちらの方が、お前には向いているかもしれん」
「へんきょう、いいところ?」
「自然は多い」
「おにわある?」
「庭どころではない」
「おっきいの?」
「かなりな」
それを聞いた途端、リリアーナの目が少し輝いた。
自然が多い。庭どころではない。それはつまり、犬さんも猫さんも鳥さんも、たくさんいるかもしれないということだ。
「じゃあ、いいところかも」
父が、一瞬だけ目を細めた。呆れたのか、少しだけ笑いそうになったのか、リリアーナには分からない。
「支度は今日から始める。出発は三日後だ」
「みっかご」
「それまでに必要なものをまとめなさい」
「はい」
返事をしてから、リリアーナはもう一つ気づいた。
「おとうさまは、いっしょにいかないの?」
「行けん」
「そう……」
そこだけ、少し寂しかった。
父は忙しい。王都を離れられない。たぶんそういうことだ。
でも、別れるのだと思うと少しだけ胸がきゅっとする。
そんな気持ちが顔に出たのだろう。父は、ぎこちなく言った。
「離宮には信頼できる者を置く。世話は足りるようにする」
「うん」
「……時が来れば、戻す」
「ほんとう?」
「ああ」
その約束が本当かどうかは、リリアーナには分からない。でも今は、そう言ってもらえただけで少し安心した。
「じゃあ、いってきますするね」
「ああ」
「ぴよちゃんたちも、いっしょ」
「好きにしろ」
「うん」
リリアーナは立ち上がった。
そのとき、ワンちゃんもすぐに立つ。ミーちゃんは暖炉のそばから音もなく移動し、ぴよちゃんは頭の上で一度羽を揺らした。
父は、その一連を黙って見ていた。
「おとうさま」
「何だ」
「おしごと、がんばって」
「……ああ」
リリアーナはにこっと笑って、ぺこりと頭を下げた。
執務室を出ると、さっきまでより少しだけ足取りが軽くなっていた。辺境へ行くのは不安だ。でも、みんなと一緒なら大丈夫かもしれない。
それに、自然がいっぱいあるらしい。それは少し楽しみだった。
廊下の途中で、乳母が待っていた。顔を見るなり、すぐに様子をうかがう。
「おじょうさま」
「へんきょうへいくの」
「……そうでございましたか」
「みんなもいっしょでいいって」
「それは、ようございましたね」
乳母は本当にほっとした顔をした。
リリアーナは歩きながら、ぽつりと言う。
「おとうさま、つかれてた」
「はい」
「わたしのせい?」
「違います」
「ほんとう?」
「ええ。少なくとも、それだけではありません」
“それだけではない”という答えは少し難しかったけれど、“全部がお前のせいではない”と言われた気がして、少し楽になる。
「なら、よかった」
「おじょうさまは、本当に……」
「なあに?」
「いいえ」
乳母は最後まで言わなかった。
部屋に戻ると、リリアーナはさっそく荷物のことを考え始める。お気に入りの絵本。ふわふわの毛布。小さなクッション。ぴよちゃんが時々嘴でつつく木の玩具。ミーちゃんが日向ぼっこする時に使う柔らかい布。ワンちゃんには……ワンちゃんは大きいので、何を持っていけばいいのかよく分からない。
「ワンちゃんの、おきにいりってなに?」
聞くと、ワンちゃんは黙って頭を差し出した。
「それは、おて?」
首をかしげると、ぴよちゃんがぴよぴよ鳴き、ミーちゃんは半目になった。どうやら違うらしい。あるいは、いつものように、だいたい合っているのかもしれない。
「じゃあ、なでなでね」
そう言って頭を撫でると、ワンちゃんは満足そうに目を細めた。
ミーちゃんは窓辺へ移動し、外を見る。たぶん、辺境がどんなところかなんて少しも気にしていない。けれど、ついてくる気は満々なのだろう。
ぴよちゃんは頭の上から離れない。
リリアーナはそんなみんなを見回して、小さく笑った。
「みんな、たびじたくするのよ」
三匹はそれぞれ鳴いた。
言葉は分からなくても、それがちゃんと“聞いている”という返事に思えた。
窓の外では、庭の木々が春の風に揺れている。ここを離れるのは少し寂しい。でも、新しい場所へ行くのは少しだけ楽しみでもあった。
婚約破棄されて、辺境へ行く。
大人たちにとっては大変なことなのだろう。でもリリアーナにとっては、まだ、そこまで重くはない。
ただ、犬さんと猫さんと鳥さんと一緒に、知らない場所へ行く。それだけだった。
そしてそれは、ほんの少しだけ冒険みたいにも思えた。
あなたにおすすめの小説
完】異端の治癒能力を持つ令嬢は婚約破棄をされ、王宮の侍女として静かに暮らす事を望んだ。なのに!王子、私は侍女ですよ!言い寄られたら困ります!
仰木 あん
恋愛
マリアはエネローワ王国のライオネル伯爵の長女である。
ある日、婚約者のハルト=リッチに呼び出され、婚約破棄を告げられる。
理由はマリアの義理の妹、ソフィアに心変わりしたからだそうだ。
ハルトとソフィアは互いに惹かれ、『真実の愛』に気付いたとのこと…。
マリアは色々な物を継母の連れ子である、ソフィアに奪われてきたが、今度は婚約者か…と、気落ちをして、実家に帰る。
自室にて、過去の母の言葉を思い出す。
マリアには、王国において、異端とされるドルイダスの異能があり、強力な治癒能力で、人を癒すことが出来る事を…
しかしそれは、この国では迫害される恐れがあるため、内緒にするようにと強く言われていた。
そんな母が亡くなり、継母がソフィアを連れて屋敷に入ると、マリアの生活は一変した。
ハルトという婚約者を得て、家を折角出たのに、この始末……。
マリアは父親に願い出る。
家族に邪魔されず、一人で静かに王宮の侍女として働いて生きるため、再び家を出るのだが………
この話はフィクションです。
名前等は実際のものとなんら関係はありません。
王妃さまは断罪劇に異議を唱える
土岐ゆうば(金湯叶)
恋愛
パーティー会場の中心で王太子クロードが婚約者のセリーヌに婚約破棄を突きつける。彼の側には愛らしい娘のアンナがいた。
そんな茶番劇のような場面を見て、王妃クラウディアは待ったをかける。
彼女が反対するのは、セリーヌとの婚約破棄ではなく、アンナとの再婚約だったーー。
王族の結婚とは。
王妃と国王の思いや、国王の愛妾や婚外子など。
王宮をとりまく複雑な関係が繰り広げられる。
ある者にとってはゲームの世界、ある者にとっては現実のお話。
『愛人を連れて帰ってきた翌朝、名前すら呼ばれなかった私は離縁状を置いて旅に出ます。これからは幸せになります――そう思っていました。』
まさき
恋愛
夫に名前すら呼ばれず、冷たく扱われ続けた私は、ある朝、ついに限界を迎えた。
決定打は、夫が見知らぬ女性を連れて帰ってきたことだった。
――もういい。こんな場所に、私の居場所はない。
離縁状を残し、屋敷を飛び出す。
これからは自由に、幸せに生きるのだと信じて。
旅先で出会う優しい人々。
初めて名前を呼ばれ、笑い、温かい食事を囲む日々。
私は少しずつ、“普通の幸せ”を知っていく。
けれど、そのたびに――背中の痣は、静かに増えていた。
やがて知る、自らの家系にかけられた呪い。
それは「幸せを感じるほど、命を削る」という残酷なものだった。
一方その頃、私を追って旅に出た夫は、焦燥の中で彼女を探し続けていた。
あの冷たさも、あの女性も、すべては――。
けれど、すべてを知ったときには、もう遅くて。
これは、愛されていなかったと信じた私が、
最後にようやく“本当の愛”に気づくまでの物語。
虚弱で大人しい姉のことが、婚約者のあの方はお好きなようで……
くわっと
恋愛
21.05.23完結
ーー
「ごめんなさい、姉が私の帰りを待っていますのでーー」
差し伸べられた手をするりとかわす。
これが、公爵家令嬢リトアの婚約者『でも』あるカストリアの決まり文句である。
決まり文句、というだけで、その言葉には嘘偽りはない。
彼の最愛の姉であるイデアは本当に彼の帰りを待っているし、婚約者の一人でもあるリトアとの甘い時間を終わらせたくないのも本当である。
だが、本当であるからこそ、余計にタチが悪い。
地位も名誉も権力も。
武力も知力も財力も。
全て、とは言わないにしろ、そのほとんどを所有しているこの男のことが。
月並みに好きな自分が、ただただみっともない。
けれど、それでも。
一緒にいられるならば。
婚約者という、その他大勢とは違う立場にいられるならば。
それだけで良かった。
少なくとも、その時は。
私は側妃なんかにはなりません!どうか王女様とお幸せに
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のキャリーヌは、婚約者で王太子のジェイデンから、婚約を解消して欲しいと告げられた。聞けば視察で来ていたディステル王国の王女、ラミアを好きになり、彼女と結婚したいとの事。
ラミアは非常に美しく、お色気むんむんの女性。ジェイデンが彼女の美しさの虜になっている事を薄々気が付いていたキャリーヌは、素直に婚約解消に応じた。
しかし、ジェイデンの要求はそれだけでは終わらなかったのだ。なんとキャリーヌに、自分の側妃になれと言い出したのだ。そもそも側妃は非常に問題のある制度だったことから、随分昔に廃止されていた。
もちろん、キャリーヌは側妃を拒否したのだが…
そんなキャリーヌをジェイデンは権力を使い、地下牢に閉じ込めてしまう。薄暗い地下牢で、食べ物すら与えられないキャリーヌ。
“側妃になるくらいなら、この場で息絶えた方がマシだ”
死を覚悟したキャリーヌだったが、なぜか地下牢から出され、そのまま家族が見守る中馬車に乗せられた。
向かった先は、実の姉の嫁ぎ先、大国カリアン王国だった。
深い傷を負ったキャリーヌを、カリアン王国で待っていたのは…
※恋愛要素よりも、友情要素が強く出てしまった作品です。
他サイトでも同時投稿しています。
どうぞよろしくお願いしますm(__)m
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始