かわいいだけなのに、王都は大パニック ~婚約破棄されたお菓子令嬢と増える恐怖の毛玉騒動~

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第28話 地下牢のぬくもり

第28話 地下牢のぬくもり

 裁定は、思っていたよりも静かに下った。

 大騒ぎの中で叫ばれるようなものではなく、淡々と、冷たく、逃げ道を残さない形で。

 王太子リステルとの婚姻は解消。
 王家に連なる立場は失われる。
 そして、危険生物を王城へ持ち込み、複数の貴族家へ拡散させ、王都全体へ被害をもたらした責任を問われ、ルル・シュクレには収監が命じられた。

 その言葉が読み上げられた時、ルルは泣いた。

 最初は、「悪気はなかった」と。

 次に、「わたくしも収束に協力した」と。

 最後には、「そんなつもりではなかった」と。

 けれど、どの言葉も裁定を揺らしはしなかった。

 知らなかったことは、免罪にはならない。
 できたことは、罪を消さない。
 可愛いと思っただけでは、王都の損害は埋まらない。

 そのどれもが、もう紙の上に並べられていたからだ。

 私はその場に立ち会ったが、何も言わなかった。
 言うべきことは、もう前日までにすべて紙へ書き、整理し、提出していた。

 あとは裁く側が現実を読むだけだった。

 ルルは最後に一度だけこちらを見た。

 恨みとも、助けを求めるともつかない目だった。
 けれど私は、その視線を受け止めるだけで、何も差し出さなかった。

 ここで差し出せるものなど、もうない。

 裁定のあと、ルルは女官と兵に挟まれ、王城の地下牢へ送られることになった。

 その移動の途中、彼女は一度だけ足を止めた。

「待って」

 兵が眉をひそめる。

「何だ」

「ハンカチを落としてしまったの」

 それは、いかにも令嬢らしい言い訳だった。

 細かい刺繍の入った小さな布を胸元から出し、落としたふりをして、しゃがみこむ。兵も女官も、それ以上は気にしなかった。まさかその動きの一瞬で、彼女が袖の内側へ何かを忍ばせたとは思わなかったのだろう。

 ルルの指先が、震えていた。

 けれどそれは、恐怖のせいだけではなかった。

 小さく丸い、ふわふわしたぬくもりが、たしかに彼女の掌へ触れていたからだ。

 ――最後の最後に、一匹だけ。

 王城内の最終確認から漏れたのではない。
 彼女が、意図して隠していたのだ。

 鎮静区画の端で、布の影に丸くなっていた一匹。
 誰にも見られないように、ほんの少しだけ抱き上げて、袖へ滑り込ませた。

 理屈ではなく、本能に近かった。

 手放したくなかった。
 全部失っても、このぬくもりだけは。

 可愛いものを可愛いと思うことが、なぜこんな罪みたいに扱われるのか。
 そんな幼い反発すら、彼女の胸にはまだ残っていた。

 地下牢への階段は冷たかった。

 石壁は湿っていて、昼でも薄暗い。
 上階の王城がいくら整えられていても、その下は別の世界だ。空気はひやりと重く、金属の鍵の音だけが妙に響く。

「入れ」

 兵が短く言う。

 鉄格子の向こう、粗末な寝台と薄い毛布、壁際の小さな卓、それだけの部屋だった。

 ルルは一歩、中へ入る。
 振り返った時には、もう鉄格子が閉じられていた。

 がしゃん、という音が、妙に大きく響いた。

「……」

 兵たちはそれ以上何も言わなかった。

 慰めも、侮辱もない。
 ただ、罪人として処理するだけの顔をして去っていく。

 足音が遠ざかると、地下牢には急に深い静けさが落ちた。

 ルルはその場に立ち尽くしていた。

 ほんの少し前まで、王太子の隣に立つ未来を信じていたのだ。
 王城の庭を歩き、可愛いものを抱いて、愛される自分でいられると。

 それが今は、地下の冷たい石の上にいる。

「……寒い」

 ようやく口をついて出た言葉は、それだった。

 寒い。
 怖い。
 静かすぎる。
 そして、ひとりだ。

 その事実に耐えられなくなって、ルルは震える指で袖の中へ手を入れた。

 そこにいた。

 小さく丸くなった一匹が、彼女の掌の中でぴるっと揺れる。

「……よかった」

 思わず、そんな声が漏れた。

 毛玉は、うるうるした目で彼女を見上げた。責めるでもなく、問いかけるでもなく、ただそこにいる。

 その無垢さに、ルルは泣きそうになる。

「あなたまで取り上げられたら……わたくし、本当に一人になってしまうもの」

 彼女はそっと抱き上げた。

 やわらかい。
 あたたかい。
 どうしようもなく、可愛い。

 それだけで、胸の奥の冷たさが少しだけやわらいだ。

 鉄格子の外の冷たい世界と、このふわふわしたぬくもりだけが、別のものみたいだった。

 寝台に腰を下ろし、ルルは毛玉を胸元へ抱き寄せる。

「ここは寒いけど……あなたは温かい……」

 自然と、頬が寄る。

 すり、とふわふわの毛並みが肌をくすぐる。

 思わず目を閉じた。
 そうすると、ほんの一瞬だけ、いつもの自分に戻れた気がした。

 王城の庭で、可愛いものを抱いていた時の自分。
 誰かに微笑まれて、愛らしいねと言われる側の自分。

「みんな、ひどいわ……」

 ぽつりと零れる。

「あなたたちは、かわいいだけなのに……」

 毛玉は何も答えない。
 ただ、ルルの腕の中で丸くなっている。

 その時だった。

 ぽたん。

 小さな音がして、ルルは顔を上げた。

 地下牢の天井は古い。
 湿気を含んだ石の継ぎ目から、ときおり水滴が落ちるのだろう。

 今の一滴は、ちょうど寝台の端へ落ちた。

「……いやだ」

 ルルは、ほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。

 思い出したのだ。
 この子たちが何に反応するのか。
 何で増えるのか。
 どうすれば止まるのか。

 そして、ここには何がないのか。

 お菓子。

 菓子など、この地下牢にはどこにもない。

「だ、大丈夫よね……?」

 誰にともなくそう呟いて、ルルは毛玉をさらに胸へ押しつけた。

「一匹だけなら……大丈夫よね?」

 根拠はなかった。

 けれど、そう言わなければ不安に呑まれそうだった。

 毛玉は相変わらず、ただうるうるした目で見上げている。
 その目が、かえって彼女の理性を緩めた。

「大丈夫。あなたはいい子だもの」

 すり、ともう一度頬を寄せる。

「ここは寒いけど、わたくしがあたためてあげる」

 地下牢の冷たい空気の中で、そのぬくもりだけが異様に際立つ。

 それは慰めだった。
 同時に、破滅の続きでもあるはずなのに、ルルはそこから手を放せなかった。

 上では、王城の記録がまとめられている頃だろう。
 彼女が何をしたのか、どんな責任を負うのか、もうすべて紙にされて、誰かの机の上へ並んでいる。

 でもここには、そんな紙はない。

 あるのは冷たい石壁と、薄い毛布と、ふわふわの毛玉ひとつだけ。

 それで十分だと、思いたかった。

「今日は、もう寝ましょうね……」

 ルルは毛玉へ囁いた。

「明日になれば、きっと……」

 その先は、自分でも信じていないから続かなかった。

 何が“きっと”なのか、もう分からない。
 赦しが来るのか。
 誰かが助けに来るのか。
 あるいは、このまま少しずつ忘れられていくのか。

 ただ、今だけは考えたくなかった。

 毛玉を抱きしめ、寝台の端へ身体を寄せる。
 冷たい石牢の中で、そこだけが少しだけ温かかった。

 そして、見えないところで、湿った天井からまた一滴の水が育っていたことを、ルルはまだ気づいていなかった。
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