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第九章 戦いのシロツメクサ

01 巡る因果

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 始まりは、一匹の仔猫だった。

 私立の名門校。その体育館の陰になる、あまり人の近寄らぬ場所に迷い込んでいた猫に司が気付いたのは、三日前のことだ。
 仔猫は足が傷ついていて、元気がなかった。
 親猫に捨てられたのかどうかも定かではないが、一匹のみである。
 邸に猫は持ちこめないしきたりだった。犬は数匹飼われていたが、司の父は何故か猫嫌いで、猫だけは絶対に飼うことを許されなかった。

 かといって、学園の誰もが汚らしい捨て猫などには興味がなく、飼い主を探すことはままならなかった。

 この学園に通う者は良家の子息たちだ。家には血統書付きの犬猫がすでに飼われている。ノミやダニの寄生した、片足を引きずる黒猫を欲しがる者など誰もいない。見つかれば即、保健所行きだ。
 こっそり通販で購入した仔猫用ミルクを与え、そっとクシで梳いてやりながら、司はこの三日間、昼の休み時間のみならず、全ての休み時間を費やして猫を世話するようになっていた。
 飼えない猫の命を、こんな不確実な方法で、徒に一日、また一日と引き延ばす。それはおそらく、父が知れば鼻で嗤うであろう行為だ。最後まで面倒を見れないのなら手を差し伸べるな。そんな正論があることもよく解っていた。

 それでも司は、せめてノラとして生きる力がつけばと願いながら人知れずミルクを与え、帰る間際はカイロを毛布で巻き付けたものを寝床において、一方で里親を探した。
 だが、仔猫の健康状態は、日に日に悪化した。当然だが授乳回数も満足ではないし、戸外では保温にも限度がある。ノミも取っても取ってもイタチごっこで、夜に死んでしまう可能性は非常に高い。
 獣医に診せる金なら十分にある。司一人の意思で動かせる口座はすでに持っていた。

 だが──金はあっても、司には自由がなかった。

 帰宅時には必ず正門まで迎えがくる。毎日習い事があった。それは他の子息たちも例外ではない。巨大なロータリーは帰宅時には迎えのリムジンや高級車で溢れた。
 運転手の執事たちも、司の父には絶対服従だ。司が薄汚れた虫だらけの猫を抱え、獣医の元へ寄ってほしいと願い出たところで、それが許可されるわけがなかった。
 ミルクをペット用哺乳瓶に満たしては、掃除用具をしまう小屋の軒先で猫に与え、ノミ取り用のクシでそっと梳いてやる。それが司のここ三日間の日課だったが──いよいよ仔猫は体力を失いつつあった。

(ダメだ、やはり医者に診せなければ……)

 もう猶予がない。唇を噛みしめ、猫の前に途方にくれて跪く司の背後から、不意に声が降った。

「……君が世話してくれているのかい」

 驚いて振り向けば、作業服を着た、用務員にしては若い男が立っていた。
 虎刈りで浅黒い肌を持った大柄の男だ。

「残念だが、こいつ、もう長くはもたねぇぜ……」

 人懐っこく話し掛けながら、男も傍らにしゃがんでくる。司は瞳を眇めた。
 口惜しい気持ちが胸に溢れた。

「医者に……診せないと……」
「獣医、か」

 バツの悪そうな表情で、男が頭を掻いた。

「……可哀想ではあるんだけど、な。俺も家では飼えねえし。獣医は金がかかりすぎて、持っていけねえんだ」
「……」

 司は黙りこんだ。金ならある。この男に金を預けて、仔猫を託せないか。謝礼も出せばあるいは──一瞬そんなことを考えたが、年端もいかぬ見知らぬ子供から万札を何枚も差しだされることを、よしとする大人がそうは居ないことも、わかる。
 そしてこれは、単なる『おつかい』ではない。

「……俺に金と猫を預けようなんて、考えるなよ、お坊ちゃん」

 ふと、そんな司の心を見透かすように、低い声で男が呟いた。

「やるなら、てめえの手でやれ。飼う飼わねえは俺が決めることじゃねえから何も言わん。容体が落ちついてから里親を探すのもアリだしな。でもよ、少なくとも医者に連れてってその診断を仰ぐのは、少なくともこいつを助けたいと思う本人がやるべきだ。違うか」
「……はい」

 正論だ。司もそれに異論はなかった。
 司は立ちあがった。もうじき授業が始まる。

「明日、なんとかして、ボクが動物病院に連れて行きます」
「へえ。できんのかよ。お前さんもここの生徒なら、『お迎え』、あるんだろ?」

 多少皮肉げに男が尋ねる。迎えを遅らせて誤魔化しますと司が答えると、男はにっと笑った。

「がんばれよ」
「……はい」

 用務員に一礼し──その場を後にした司は、だから見ることはなかったのだ。
 残された用務員が、そっと、口端に昏い笑みを浮かべたそのかおを。

                    *   *   *

 行事の準備があるから迎えは2時間遅らせてくれと、若干苦しい言い訳を執事に告げ、司は放課後、再び体育館の裏手へと向かった。そんな準備など、本当はない。
 その日は生憎、雨だった。日本近くを通る熱帯低気圧の影響で、これから天候は荒れると予想されていた。
 仔猫はいた。だがいっそう弱っていた。目ヤニがべっとりとついているその様が、状態の悪化を如実に示していた。
 目ヤニを拭ってやりながらも、その痛々しさに、司は顔を歪めた。
 もっと早く決断すべきだった。もう遅いかもしれない。

「──よう」

 その声に横を見れば、掃除道具用の小屋から、昨日の男が出てくるところだった。
 司は男に軽く会釈し、再び仔猫に向き直った。傘を傍らに置いて黒猫へと手を差し伸べる。細かな雨が司を濡らしていった。

「……ごめん。遅くなったね。今から、医者に連れていくよ」

 そっと寝床代わりの布ごと、両の手で抱きあげたその刹那──後頭部にがっと強い打撃音と衝撃を覚え──司の意識は闇に沈んだ。

                    *   *   *

 体感では、2時間。
 ただし気を失っていた時間がそこにプラスされる。一体ここは学園からどこまで離れた場所なのだろう。司は考える。
 猿轡を嵌められ、後ろ手に縛られていた。全身雨に濡れて、ひどく寒い。気がつけば車のトランクの中だった。
 呼吸ができるよう、トランクは何かを噛ませてあるのか、扉が完全には閉まらず微かに開いている。
 息苦しさと後頭部の鈍痛、身体の底からわき上がる寒気で、司は吐き気に襲われた。
 なんとか吐き気を堪えつつ必死で喘いでも、酸素が肺に入ってくる感じがしない。熱のせいもあって、思考も鈍い。

(くそっ……)

 全部が、罠だったのだろう。
 誘拐など通常されるわけのない、完全な管理下に置かれた司の行動に、今日、2時間という隙が出来た。
 2時間、司の所在がわからなくても、邸の誰もが通報しないし、誰も不審に思わない──そんな空白の時間が生まれたのだ。
 偶然に今日、司を拉致するなんて、あまりにも出来過ぎである。
 青龍コンチェルンの御曹司という立場の司は、常に犯罪に巻き込まれる危険に晒され続けている。だからこそ、完全な送り迎えは毎日のように行われていたのに──今日、執事に遅れて迎えに来るように告げた隙を、犯人は狙った。
 あの、用務員風の男。

(……若かった……!)

 こんな職に就くには、違和感があるほど若かったではないか。それに見慣れぬ顔だったことも事実だ。ただ、学園はあまりに広くて、司の知らぬ用務員がいたとしてもおかしくは無かったから──油断した。
 トランクの中でガタガタと揺られる度に全身の骨が軋むように痛む。だが涙が滲んだのはそのせいではなかった。

(……あの、猫は)
 片足を引きずった、幼い猫。今思えば──
(あの男が……やったのか……!)
 横に転がされた姿勢のまま、司は悔しさと怒りに泣いた。

 それはほぼ確信だった。

 確かに司が仔猫を見つけたのは偶然だ。だが、犯人たちは多分知っていたのだろう──司が、昼休みは大抵一人で体育館裏手で本を読みながら過ごすことを。
 一人になれるささやかな時間が、多忙な司には必要だった。
 そんな司の行動パターンも調べた上で、傷ついた仔猫をあの場所に置いたのだとしたら?
 偶然傷ついた猫を捕えて、学園に持ちこんだならまだマシだ。

 あれが虐待による傷だとしたら──考えると臓腑が煮える思いだった。

 男は司が猫に情をうつし、医者に猫を連れていく為に執事の送迎時間を操作するその日を、待っていたのだろう。
 さりげなく接触し、司の決心を引き出しながら……。
 まどろっこしい方法だが、確実だ。
 青龍家では緊急時の行動の取り決めが数パターンあるし、司の携帯には青龍家関係の連絡先はまったく登録されていない。
 全ての主要な電話番号は、司の頭の中だった。
 司を直接脅して、迎えの時間をずらす電話をさせようとしても、黙って緊急連絡時の携帯番号へ繋げば、警察への手配は速やかになされる。犯人の意図通りに事を進めるのは難しい。
 こんな下衆な計画に使われた仔猫が、あまりにも哀れだった。
 だが一番許せないのは誰だろう? 仔猫一匹救ってやれぬ己が、青龍コンチェルンの次期トップだというのだろうか。馬鹿げている。

 あまりにも──酷い。

(……僕は、愚かだ……)

 司は猿轡の内側で喉を震わせ、人知れず慟哭した。
 当時、青龍司は8歳。
 向かうべき明日を、幼い彼はまだ知らなかった。

                    *   *   *

 ひゅっ、と自分の身体が急激に落下する浮遊感が、すみれを襲った。

(落ちる!)

 悲鳴が喉奥で凍った瞬間、それは来た。
 どっと身体に重力を感じる。同時に太腿の裏に冷たさを感じた。目を見開けば、辺りは暗い。
 闇に目が慣れてきたすみれは、息をひそめて立ちあがった。それを待っていたかのように、小雨が降りはじめる。

(……どこ……なの?)

 徐々に雨脚が強くなる夜の闇の中、本能的な恐怖を覚え、すみれの心臓がばくばくと鳴った。
 落ちつけ、と自らに言い聞かせながら、足についた土や草を払う。すみれは用心深く辺りを見回した。
 一見して、工場の敷地内、といった雰囲気の場所だった。

 2階建てのプレハブ建造物が、目の前にある。灯りはついていない。

 工場も夜だから停止しているのか、あるいは──廃工場なのか、辺りはしんと静まり返っている。塀の外で一定間隔に並ぶ街灯だけが、かろうじて塀の内部も照らしてくれているだけだ。
 どこか寂れた雰囲気が辺りに漂っていて、恐ろしい。すみれは肌寒さに震えながら、雨から逃れるようにプレハブの軒先に身をこっそりと寄せた。
 クローバーの丘から、一気にこの見知らぬ工場の中に送り込まれたすみれだ。おそらくは17年前の過去、ということになる。

(……司さんは……どこ……?)

 あの精霊の言葉によれば、司は今夜、危険に晒されるはずだ。
 精霊がまったく司と関係のない場所にすみれを送りこむとも思えない。ここは、おそらく、司と自分を繋ぐ場所だ。
 だが、このまま待っていていいのだろうか。それとも、動くべきか。
 惑いながらしばし辺りの雰囲気を確かめていると、やがて塀の外に車が停まる音がした。バタバタとドアを閉める音が響く。
 ぎくりとしてプレハブの壁にぴたりと身を寄せ、すみれはそっと角から顔を出し、辺りを伺い続けた。
 工場の通用門が、開くのが見えた。三人の人影が転がり込むように中に入ってくる。すみれは息を呑んだ。
 二人の男と、小さな子供らしき影。
 子供はどうやら後ろ手に縛られているのか、不自然に両腕を後ろに回して歩いている。一人の男に、腕を束ねている縄を掴まれているようだ。

「──おい」
 男のうち、子供から離れて歩いていた方の男が、低く脅すように怒鳴った。
「もたもたすんな!」
 歩けと言いながらも、その男が、突如、子供の膝裏を乱暴に蹴った。

「……っ!」

 すみれは悲鳴をあげそうになり、すんでのところで堪えた。
 無慈悲な打撃に、子供が呻き、その場に跪く。
 蹴った男が、さらに怒鳴りながら今度は子供のわき腹を蹴りあげた。暴行につぐ暴行で、子供が立てるわけが無かった。
 子供はさらに、くぐもった声を上げてその場に倒れ込んだ。
 雨までもが、そんな子供を天から容赦なく叩く。

(酷い……!)
 すみれは震えた。考えたくない。考えたくないが、これは。
(まさか、あれが……司さん、なの……)
 何故、あの子はほとんど声を上げないのか。
 不審に思って闇に目を凝らせば、うっすらと蹲る少年の口元が見えた。

 ──猿轡で塞がれている。

 その事実に気付いた瞬間、寒気が、すみれの背を走り抜けた。
 これはもう尋常な光景ではなかった。はっきりと、犯罪ではないか。
 身体が恐怖でがたがたと震えだすのを止められない。

(落ちつけ、落ちつけ……落ちつかなきゃ……!)

 飛び出して庇いたい気持ちと、今自分が飛び出せば間違いなく一緒に拉致されるだけだという理性とがせめぎ合う。
 ガチガチに身体を凍らせその場に佇みながら、すみれは恐怖のあまり生理的な涙を流した。悲しいとかそういう感情すら通り越してしまい、目の前の光景を、うまく、理解できない。
 心が、麻痺してしまいそうに──痛い。

「おい、兄貴! やりすぎだって!」

 兄貴と相手を呼ぶからには弟なのだろうか──司をひっぱっていた方の男が焦ったように声を上げる。
 ふん、と兄らしき男が傲然と鼻を鳴らす。とっとと入って来い、と言い捨てて先に入っていく彼を追うように、弟分の男が司の腕を縛っている紐を掴みあげた。

「ほら、立てよ……もたもたすんな」
「……っ」

 猿轡の内側の、苦しげな荒い呼吸音が微かにすみれの耳にも届いた。聞いているだけで、たまらなく辛い。
 そのまま司はふらつく足をなんとか動かし、弟分の男に引きずられるようにしてプレハブの一階に入っていったのだった。
 一階に、灯りがついた。

                    *   *   *

 スチール製の机の脚にきつく腕を回され、縛りつけられた司は、さらに両足も縛られ座らされていた。
 どこかの工場の事務所らしきそこは、だが内部も寂れ果てていた。埃っぽい空気が、司の鼻を詰まらせる。猿轡のせいで呼吸がただでさえ苦しいのに、鼻までも詰まりがちになり、司の意識はいよいよ混濁しはじめていた。咳き込んでも、痰を呑みこむことすらままならない。
 そして、寒い。とにかく、寒い。震えが止まらない。
 熱があがっている証拠だ。殴られた後頭部だけでなく、頭全体が鈍く痛んだ。さらに、蹴られたわき腹は尋常でなく痛んだ。子供相手にまったく容赦のない蹴りだった。肋骨の一番下あたりを、もしかしたら持っていかれたかもしれない。

「……兄貴、こいつ、すげぇ熱あんぞ……」

 弟らしき男が、司の傍らにしゃがみこみ、額の熱を確かめて舌打ちした。熱に潤む瞳で、司はその男を確認する。
 こちらは肌も生白く、それほど気が強い男には見えなかった。

「おい、兄貴。薬飲ませたほうがよくねえか?」
「……」

 一方、呼ばれた兄の方は、虎刈りの頭に浅黒い肌を持ったあの用務員風の男だった。
 気さくな雰囲気を削ぎ落した今、じろりと司を無言で見下し、熊のように歩み寄ってくる男からは相当な威圧感を感じたが──何より幼い司の肝を震えさせたのは、男の目だった。
 憎しみ、怨み。凝り固まったそれらの感情が、はっきりとその瞳の奥に燃えていた。何故今まで気付かなかったのだろう。
 深すぎるその憎しみが、完全に計画を推進するために、完璧に別人格を演じさせた──ということなのだろうか。

「……な、なぁ、兄貴……くす、り……」

 不穏な雰囲気を感じたか、弟が言葉を詰まらせる。
 そんな弟に構わず、男は、司の正面にうっそりと立った。

「……なんでこんな目に遭わされるのかわかんねえよな?」

 口元に浅い笑みを浮かべ、男が低く囁いた。

「説明なんかしてやらねえよ。お前は理不尽に苦しめばいい。俺らがかつて、お前らのやりようにどんだけ理不尽に苦しめられたか、おめーは知らねえだろ。罪のねえガキのお前を苦しめることで、おめぇのくそオヤジに教えてやんよ、金をクソほど持っていたって防ぎきれない、この世の理不尽ってやつをよ……」
「……」

 司は虚ろな眼差しで、そんな男の御託をただ受け止めた。
 朦朧とした頭でそれでも理解する。恨みから来る誘拐なのは確定だ。

(……まずい、な……)

 生還できる可能性はこの時点でさらに2割は減った、と司は頭の片隅で冷静に状況を分析した。
 金目当ての犯行なら、まだ受け渡しの時点での生存率は高いだろう。だが男の身体から吹き付けてくる怨みは、尋常ではなかった。
 この男が所属していたのは、グループ傘下の子会社の、さらに子会社の下請けといったところだろうか。
 例えば親の下請け工場が突然の首切りにあい、倒産と借金地獄に塗れたということは、十分に考えられた。

 ここがもしかしたら、潰れた工場そのものかもしれなかった。

 司は身体中に意識を走らせる。後ろ手に縛られているので、手で触って確かめることすらできないが、常に制服の内ポケットに入れていた携帯は、やはり無いように思う。手首の腕時計も奪われている。
 当然のように、持っていた鞄も失っていた。
 少なくとも携帯を身につけていれば、今頃、警察が位置を割り出してくれていたはずだったが、さすがにそう甘くはないようだ。

「助かる可能性を計算でもしてるんですか? おぼっちゃま」

 にやりと男が嗤った。直後、安全靴のつま先が、司の脇腹をさらに一発蹴りあげる。猿轡の内側でぐふっと呻きを上げ、司は目を剥いた。
 視野が一瞬、赤く明滅する。痛みを必死に逃すように、引き攣れた浅い呼吸を繰り返した。
 その場に横になることすら許されぬまま、悪寒と痛みを受け止めるだけで精一杯だ。

「お前の携帯はあえて学園の近くに捨ててきたよ。今頃河川敷あたりを必死に警察が捜査してるんじゃねえかなぁ」

 項垂れている司の顎を片手で捉え、無理やり上向けた男の眼差しに、溢れる狂気。

「……なぁ、和之、身代金目当ての誘拐で、金を実際に手に入れたやつがどのぐらい居るか、知ってっか」

 司の目を深く睨みながら、男は傍らの弟へと呼びかける。
 和之と呼ばれた弟がびくつきながら、おもねるように兄を見た。

「し、知らねえ……どんぐらいだよ……」
「ゼロだ」

 面白いニュースでも口にするように、男は口端を引きあげて嗤いながら答えた。

「戦後の誘拐で身代金を手にした奴はな、ただの一人もいねえんだよ! ゼロだ!」
「……へ……ま、マジかよぉ……」

 呆けたように弟が呟く。

(そうだ。ゼロだよ……)

 司は内心呻いた。
 金を手に入れた誘拐犯は、戦後、皆無だ。
 青龍家の跡取りとして、常に狙われる立場にある彼は、それを知っていた。ただ、極めて小額の誘拐というのは表沙汰にならずに、犯人と家族の直接のやりとりで内密に解決している可能性はある。
 おそらくそういう意味では、犯罪成功率は決してゼロではない。
 しかし、身代金の受け渡しというのは、巨額になればなるほど、極めて難しいのだ。金に拘るのなら、まだ銀行強盗のほうが成功率は高い。
 ハイリスクの割にリターンのほとんど無い犯罪、それが誘拐だ。

(嫌な流れだ……)

 司は内心で舌打ちした。少なくとも主犯らしき兄のほうは、己がしていることの愚かしさを、よく知っている。
 知った上で、司を拉致したのだ。
 それはつまり、拉致の目的が、金以外に存在することの証明だ。

「……別に金なんざ、どうでもいいんだよ」

 男はうすら笑いを貼りつけたままそう呟いた。

「俺はなぁ、あいつらに絶望を感じさせてやりてぇんだよ……」

 表情を変えぬまま、司の顎を、男は大きな手でわしづかみにした。
 そのまま、後頭部を机の脚に激しく打ち付けられる。二度、三度。
 鈍い打撃音が辺りを支配し──三度目でようやく、茫然としていた弟が慌てて兄を止めた。

「お、おい、兄貴。おい! やめろ! 死んじまうだろ!」
「死んだからどうだってんだ。オヤジもお袋も、もうとっくに死んだんだよ! 治療費もロクに出せずに死んだんだ! なぁっ!」

 四回目の打撃が止めになった。司はゆっくりと暗く遠ざかる意識の中で、どこか諦めにも似た感情に支配され始めていた。
 そう、因果は、巡るのだ……。
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