君の香に満ちて

マツイ ニコ

文字の大きさ
上 下
11 / 39
【二】雲影

しおりを挟む
 その翌夕、吉夜は供の者に花を抱えさせて帰ってきた。

「突然、どうしたのですか」
「町を歩いていて見つけた。……お前さんにお遣いを頼もうと思ってな」

 吉夜は笑って、色とりどりの菊花に目をむける。
 江戸でも人気があるというその花を、香代も吉夜の視線を追って眺めた。

「……もう、菊の季節なのですね」
「ああ、早咲きだそうだ」

 祝言の盃を交わし合ったときにはまだ夏の盛りだったが、もう秋になるのだ。
 菊花を見てしみじみとそう思っていた香代に、吉夜の目が向いた。
 その優しい目を、香代はまっすぐに見つめ返す。

「ここらで一度、なまぐさ坊主に会って来るといい。――明日、お前さんが行くと伝えておいた」

 つまり、この花は寺に供えてこいということだろう。
 香代は納得したが、生ける場所を考えると、花が多すぎるようだ。
 ふと思いついて、吉夜を見上げた。

「……少し、離れの床の間に生けてもよろしいでしょうか?」

 蓮本家の屋敷は、大きく二つに分かれている。
 若夫婦が生活する母屋と、義父である主膳が住む離れだ。
 香代が来るまでは、主膳も母屋に住んでいたのだが、当人の希望で離れに移ったらしい。
 家主が母屋に不在なのもどうかと、吉夜は自分たちが離れを使うことを提案したが、こうと決めた主膳は全くうなずく様子がなかったそうだ。
 香代が問うと、吉夜はすねるように口先をすぼめた。

「夫よりも義父の目を喜ばせるのが先か」
「そういうつもりではございません」

 吉夜はときどきこういう、子どもじみた戯言を言う。けれど、その目は優しく笑んでいた。
 眉尻を下げた香代に、吉夜は「そうだな」と笑う。
 顔を近づけると、手を伸ばした。

「それじゃ、俺はこっらの花を楽しむとしよう……」

 囁いて頬を撫でられれると、香代の顔はすぐに熱を持つ。

「ほら……白い花が色づいた」

 吉夜は口の端を引き上げて、香代の頬に軽く唇を寄せた。
 夫のたもとの香りを感じつつ、香代は気恥ずかしさにうつむく。吉夜はくつくつ笑った。
 ふたりになるたび、吉夜はこうして香代をからかう。
 香代とて、いい加減慣れようと思っているのに、なかなか慣れることができない。
 それどころか、心持ちはふわふわとうわついていくばかりだ。それがどうにも気恥ずかしかった。
 ――つまり、吉夜に心惹かれているということだとは、奥手な香代も自覚している。

(もしいつか、妻にふさわしくないと思われてしまったら……)

 忘れようと思っても、一瞬だけ香代を睨んだすみの目が忘れられない。
 自分のように鈍い女は、恋敵が現れれば、いつ吉夜に捨てられるとも知れない――
 香代は切ない想いを抱きつつ、ちらと吉夜の顔を見やった。けれど吉夜は、香代の晴れない表情を、気疲れのせいだと思っているらしい。

「馴染んだ場所に行けば、気も晴れるだろう」

 労うように肩を撫でる吉夜の手を、香代はむずかゆく思いながら受け止めた。

 ***

 翌日、香代は供に花を持たせて沈香寺へ向かった。
 久々に入った境内は、相変わらず焼香の豊かな香りで満ちている。
 いつものように胸いっぱいに吸ったが、吉夜が焚く香を知った今となってはそう物珍しくもない。
 婚前は特別に思えたこの香りが、物足りなくすら感じて、ひとり申し訳なく思った。

「――お香代!」

 本堂へ足を向けたところで、懐かしいガラガラ声が香代を呼んだ。
 振り向くと、ずかずかと大男が近づいてくる。
 供の者は初めて和尚に会うらしい。すわ弁慶か、とばかりに身構えるのを横目に、香代は改まって頭を下げた。

「和尚さま。ご無沙汰しております」
「本当に! すっかり無沙汰されておった!」

 和尚は否定するどころか、力強くうなずいた。
 恐縮する気配もないその言いぶりは相変わらずだ。
 香代の肩から自然と力が抜ける。
 笑った香代を見て、和尚は嬉しそうにうなずいた。

「うむ。とりあえず、いじめられてはいないようだな」
「はい、みなさんよくしてくださっています」
「それは残念だ」

 予想と逆の答えを返されて、香代は目を丸くした。
 和尚はもっともらしく腕組みをし、

「もし逃げ出したくなっていたら、わしが手伝ってやったものを」

 そう来るとは思っていなかったので、香代はつい噴き出した。

「また、そんなことを。……ここは縁切り寺でもありませんのに」
「うむ。しかしお主のためなら主旨を変えてもよい」
「仏様に叱られますよ」

 軽口を言い合うと、香代は供の者から菊を受け取った。
 美しい切花に、和尚がほうと目を細める。

「菊か。早いな。――わざわざ用意してくれたのか」
「はい、吉夜さまが」

 香代がうなずくと、和尚は嫌そうに太い眉を寄せた。香代はまたくすくす笑う。
 庭で待つという供の者を置いて二人で歩き出すと、和尚がうらめしげな目を向けてきた。

「幸せそうでなによりだ」
「和尚さまのおかげです」

 香代は軽く頭を下げたが、嫌味でもなんでもない。
 事実、和尚があのとき出かけていなければ、そして吉夜に留守を任せたりしなければ、自分と吉夜は会話することもなかっただろう。

「それか……仏様の導いてくれたご縁かもしれませんね」

 本像に手を合わせた香代に、和尚は何かもの言いたげな目をしたが、何も言わずに顔を逸らした。

「生け終えたら声をかけてくれ。いつものように、茶を一杯飲むくらいならいいだろう」
「はい、いただきます。団子も買って参りましたから、召し上がってください。和尚がお好きだと思ったので」
「おお、それは気が利くな」
「あと、吉夜さまからお酒も。お供えするようにと預かって参りました」

 吉夜の名前が出たとたん、またしても和尚が面白くなさそうな顔をした。
 香代はまた笑いを堪える。
 そういえば、と香代は顔を上げた。

「吉夜さまは……あのとき、どうしてこのお寺に?」

 沈香寺と吉夜の関係を、思えば香代はよく知らない。
 けれど、和尚とはあのとき既に顔なじみのようだったから、ときどき顔を出しているのだろう。

「もしかして、どなたか、縁のある方でも?」
「さあてな」

 和尚は香代をちらと見たが、すぐに目を逸らした。

「仏の俗名をすべて覚えているようじゃ、和尚にはなれなかろうさ」

 和尚は低く答えて、奥へと行ってしまった。

 ***

 花を生け終えると、香代はいつも通り寺務室を訪ねた。
 が、そこには誰もいない。首を傾げて和尚を探す。
 和尚は奥の、納屋のような小部屋にいた。声をかけようと息を吸うと、若い香りが鼻孔に広がった。

「……お焼香?」

 火にかけていなくとも、量が量なので香りが強い。
 和尚は香代の声に気づいて顔を上げた。

「ああ。少しでも効きのいいものをと頼まれてな、わざわざ京から取り寄せた」
「ずいぶんたくさん……」

 和尚の膝の周りには、木片のかけらの山がいくつも置いてある。

「さる方のお身内が床につかれておってな。前に一度、わしが読経をしたら少し落ち着かれたものだから、今一度頼みたいと……医者にもかかっているようだが、取れる手は尽くしたいとの仰せだ」

 どこの者かはぼかしているが、言葉の選び方を聞けば、一定以上の家格と察しがつく。
 香代があいづちを打ちかねていると、和尚は口元に人差し指を立てた。

「……いずれは耳にするだろうが、この件は内密にな。相手がお香代だからこそする話だ」

 香代はさもありなんと思いつつ、こくりとうなずいた。
しおりを挟む

処理中です...