君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【三】暗雲

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 翌日、実家を訪れた香代は、奥の間で横になっている兄に気づいてうろたえた。

「あ、兄上……!? どうなされたのですか!?」

 慌てて部屋へ駆け上がると、辰之介は振り払うように手を振る。

「大事ない。……少し、足を滑らせて転んだだけだ」
「こ、転んだだけで、そのような大けがをするはずが――!」

 辰之介は腕に添え木をし、顔にも地面に擦り付けられたような傷がついている。
 見れば、足首も腫れていた。
 痛々しさに顔が歪む。

「兄上……」
「香代……どうしてお前が、ここにいる」

 香代が伸ばした手を、辰之介はそれとなく避けた。
 厳しい表情で香代を見つめる。

「こんなところに来ている場合ではなかろう。蓮本家へ戻りなさい」
「そんな……」

 あまりの言い方に、香代は気色ばむ。

「嫁いだ妹は、兄の心配もさせてもらえないのですか」

 非難がましく応じたとき、美弥が中に入ってきた。
 二人をなだめ、辰之介に向き直る。

「辰之介さま、お身体に障りますよ。お医者さまも安静にとおっしゃったではないですか」

 辰之介はむすっと唇を引き結び、香代から顔を逸らした。
 もう香代と何も話すまいというのだろう。辰之介の横顔からは、もう目も合わせまいという意思が感じられた。

「香代ちゃん……こっちに」

 美弥が小声で香代を呼び、袖を引いた。
 うながされて土間へ向かう。
 兄妹で言い合っているうちに、まあ坊はまた子守と散歩に行かせたらしい。
 香代は義姉の手を掴むと、声を潜めて口早に言った。

「義姉上。いつの間にこんなことに? 知らせをくださればすぐにでも参りましたのに」
「わたしもそう言ったんだけどね……香代ちゃんには心配をかけたくないって言うんだもの」

 叱責するような口調になった香代に、美弥は申し訳なさそうに肩をすくめた。
 美弥の顔を見て、香代は我に返った。
 今辛いのは香代ではなく、義姉の方なのだ。

(こんな言い方をすべきじゃない……)

 驚きのあまり、気がはやってしまった。
 落ち着くためにひと呼吸置いて、改めてゆっくりと口を開いた。

「……本当に、足を滑らせただけなのですか」

 静かに問うと、美弥はうつむきがちに首を振った。

「分からないの……わたしもそんなわけはないと思うのだけれど……あの人が何も言おうとしなくて」

 美弥に目で促され、香代は土間から外に出る。
 庭にある畑へと歩きながら、美弥は小さな声で続けた。

「いくら疲れていたからって、飲んでもいないのに転んであんあ怪我をするとは思えないでしょう?」

 「それにね……」と言いにくそうに口に手を添え、香代に耳打ちした。

「あの人、最近、身体にあざを作って帰ることがあったの」
「……あざ?」

 眉を寄せて繰り返すと、美弥はうなずく。

「ええ……それも、着物で隠れるところばかり……」

 はぁ、と美弥はため息をつき、両手で顔を覆った。

「……まあ坊が産まれて、わたしに興味がなくなったのかと思っていたけれど、そうじゃなかったの……わたしに肌を見せたくなくて、隠していたのよ……」

 そう言われて、香代は思い出した。
 久々に寺で会ったとき、義姉が兄を閨に誘う香を欲しがっていたこと――

「それなのに、わたしはなんて暢気に……辰之介さまがどれだけ苦しい想いをしているか知りもせず……」

 顔を覆った義姉の手が震え始める。香代はそれを、見つめることしかできない。
 「どうしよう」と涙声で美弥は言った。

「ねえ……香代ちゃん……あのひとに何かあったら、わたし……わたし……」

 美弥の声が震え、涙声に変わっていく。
 抱きついてきた美弥を支えながら、香代は初めて気づいた。
 いつでも明るく、前向きに笑っていた美弥。
 香代は今まで、それが美弥の気性なのだと思い込んでいた。
 けれど本当は、美弥は努めてそう振る舞っていたのかもしれない。
 香代を励まし、辰之介を支えるために――美弥は人知れず、不安を飲み込み、楽しいことだけを口にして、笑って見せていたのかもしれない。

「……義姉上……」

 香代は息を飲み込んで、美弥の身体を抱きしめた。
 美弥の背中は震え、嗚咽を飲み込んでいる。

(強くて明るい人とばかり思っていた……)

 自分にはないものをたくさん持っている義姉だと尊敬していた。
 けれど本当のところは、自分と同じくただのひとりの女なのだ。
 義姉の背中を撫でる香代の胸は痛んだ。

 ***

 香代はそのまま家に向かう気にならず、沈香寺に向かった。
 和尚はまだ不在のようだ。
 境内はどことなく匂いが薄まり、焼香も間に合わせのものを使っているように感じた。
 本堂で手を合わせると、墓地の方で音がした。
 足を向けてみれば、また寺男が地面を掃いている。

(和尚さまは、やっぱりまだ……)

 目を伏せたとき、隅にある墓に気づいた。
 無縁仏の合葬墓だ。
 その前に供えてあるのは、不釣り合いなほど美しい菊の花だった。
 これほど美しく、大きさが揃っているとなれば切り花だろう。

(無縁仏なのに……どうして?)

 香代は不思議に思って近づいた。
 香代に気づかないはずもないのに、寺男は無言で手を動かし続けている。

「あの……この花は、お寺で用意を?」
「いいえ」

 無口な寺男はやはり、そう答えただけだった。その間も、箒を動かす手は止めない。
 お勤めの邪魔だと言われているようで、香代は肩をすくめた。
 花が乱れているのを軽く整え、寺男に礼を言って墓地を離れる。

(今日、ではなさそうな……昨日? おととい?)

 無縁仏と言いながら、誰か縁者がいるんだろうか。
 不思議に思ったが、境内を出た頃にはもう、心は吉夜と兄夫婦のことに向いていた。

(これ以上、悪いことが起こらないといいのだけど……)

 香代の不安を裏書きするように、その夜、吉夜はとうとう帰らなかった。
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