君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【四】暁闇

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 それから三日が経っても、吉夜は帰って来なかった。それどころか主膳も帰らなくなり、下人たちは困惑顔で、香代に事情を尋ねてきた。
 聞かれたところで、香代にも分からない。とはいえそう答えるわけにもいかず、

「大丈夫です、お二人ともきっとすぐ戻られます」

 と笑みを取り繕った。
 気がかりなのは吉夜たちのことだけではない。兄の辰之助もだ。
 足の腫れは引いたようだが、相変わらず香代の来訪を拒んでいて、何も話そうとしなかった。
 美弥の不安げな表情も変わらず、香代ができることといえば、ただ神仏に祈ることだけだ。
 主膳のために床の間に花を生け、吉夜と兄のために沈香寺へ参拝に上がる。
 しばらく会わなかった和尚と、久々に会ったのもその折だった。

「おお、お香代! 変わりないか」

 嬉しそうに手を挙げた和尚は、ひとまわり小さくなったように思える。
 久々に会う顔にほっとしつつも、香代は心配になった。

「和尚さまは……少し痩せられましたか?」
「ああ、少しな。だが、大事ない」

 和尚は笑った。その声は掠れているが、確かに元気そうだ。
 香代は少しほっとした。

「ここ十日ほど、ろくに休まず読経していたからな。けれどもう帰っていいと言われて、昨日寺に戻ったところだ」
「読経……」

 和尚の衣から立った香りに、香代ははっと顔を上げた。

「このお焼香……もしかして、読経は十和田さまのお宅で?」

 いつだか、十和田兵吾と遭遇したとき、不釣り合いな焼香の香りがしたことを思い出す。
 藩の重臣の家族が不調になった、という和尚の話とも合致していた。

「ああ……まあな」
「もしや……奥方さまになにか?」

 嫡子である兄に何かあれば、兵吾にももう少し緊張感があるだろう。十和田家を訪問した際、奥方に会えなかったことも、体調が悪かったのなら納得がいく。
 主膳と吉夜が香代に届けさせた香は、身体にいい効果を与えるものだったのかもしれない。
 表向き新妻の挨拶としたのは、表だって見舞いにくい理由があったのだろうと察してはいた。
 和尚は肯定するでも否定するでもなく、うむ、とあいまいに答えた。
 他家の内情を話すのは気が引けるのだろう。さもありなんと、香代は微笑んだ。

「でも、和尚さまがお帰りになったということは、容体は落ち着いたのですね」
「まあ……そんなところだ」

 和尚ははっきり答えないまま、「少し歩こう」と香代を本堂の外へ連れ出した。
 山門に続く紅葉も色づいていたが、墓地に向かう庭の木々にも、秋らしい色が混ざり始めている。
 足元では、並んだススキが稲穂のような房を揺らしていた。

「……妙なことになっているらしいな」

 和尚は不意に言った。香代は返事の代わりにうつむく。
 和尚の耳にも、吉夜の噂は届いているらしい。
 藩内での吉夜の噂が、どんな尾びれ背びれをつけているのか、香代は知らない。けれど外に出た香代に向けられる好奇の目は、日に日に遠慮を失くしている。詳しく聞かずとも、ろくでもない噂になっていることは察しがついた。
 吉夜が女を孕ますわけはない――けれど、女を孕ませた男を明らかにする方法もない。
 その手の下世話な話ほど、人々が好むことを香代は知っている。十年前、男達に乱暴されかけた後、香代はもう傷物だと噂が広がった。辰之介とその友達が訂正して収まったが、それにもしばらくかかったように覚えている。
 年端もいかない下士の娘ですらそうなのだ。それが藩の重臣の跡目で、結婚したばかりの男の話となれば、誰もが好き勝手に話を膨らませるに違いない。
 風が吹いて、髪を撫でていった。
 和尚が帰ってきて焚いたものか、懐かしい焼香の香りが心を落ち着かせてくれる。

「あまり根を詰めるな。きっと仏様が導いてくださる……」

 はい、と香代はうなずいた。和尚は香代へ向けていた顔を上げ、遠くを見やる。
 視線の先には、前に菊花が飾られていた、無縁仏の合葬墓があった。
 今は和尚が飾ったものか、また違う花に変わっている。

「落ち着いたら、夫婦で参られよ。……あの若造に渡したいものがある」

 和尚は静かな表情でそう言った。

 ***

 日暮れ前に帰宅すると、下男が香代宛ての文を持って来た。
 見れば、主膳の手によるものだ。
 開いてみれば、時間がない中急ぎ書いたらしい筆跡で、今日もまた帰れそうにないこと、いつ帰れるか分からないことが告げられている。
 細かいことは分からないながら、「ご詮議」という文字があった。

(やっぱりなにか、お調べを受けている……)

 「吉夜が早まらないように見張っている」というようなことも書いてあるから、吉夜は早く決着をつけたいと気が急いているのだろう。それを主膳がたしなめている――そんな二人の様子が分かっただけでも、少し心が落ち着いた。
 主膳は他に、ふたり宛てに届いた文を、陣屋に届けるよう指示していた。
 届いた文は、下女がまとめて文箱に入れている。
 途中で失くしてしまっては困るから、陣屋に届けさせるにあたって、香代が差出人を確認し、紙に控えておくことにした。
 香代はすずりと筆を借りに、吉夜の書斎を訪ねた。
 吉夜不在の母屋からは、あれだけ豊かだった香の匂いが薄まっている。それは最も香りの濃かった吉夜の書斎も同じだ。
 少しずつ、少しずつ、消えていく香りが、夫の気配を薄めていくようで切なくてならない。
 香代は吉夜がしていたのと同じように、文机の前に腰を下ろして墨を摺った。
 持って来た文を膝の横に並べ、順に名前を書き綴る。
 血縁筋の者。勤めを同じくする者。家格の同じ者――一件一件書き記し、ある一通にたどりついたところで、香代は手を止めた。

 ――はすもと様。

 流れるような字で書かれたそれは、どう見ても女手の文だ。
 痛みを感じるほど強く、心臓が鼓動する。

(これは……?)

 香代は迷った。
 差出人は書かれていない。達筆、といえる筆遣いは、それなりの家の女だろう。
 香代は一度文を机に置き、息をついた。
 吉夜が町外れに女を探している――
 兵吾から聞いた言葉が、頭の中に浮かんでいた。

(もしかして……この人が、そうなのでは……?)

 心臓がどきどきと脈打っていた。胸元に手を当てると、指が小さな塊に触れる。
 吉夜からもらったお守りだ。
 香代の目はまた、女手の文へと落ちた。
 この女が誰なのかは分からない。
 けれど、なんの意図もなく届くにしては、あまりに時機が良すぎる。

(それなら……なにか知っている人なのかもしれない)

 香代は唇を引き結び、文を開いた。
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