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13 糸口
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8時まで後15分。樹が本当に来るかどうかは分からない。忙しい立場であるのも事実、からかい半分でさらっと口から出てしまった可能性も否めない。それでも8時を目安に仕事を終わらせようとしている自分にかおるは滑稽さを感じた。
けれどそんな感情は心の10%を占めるか否かだ。今夜の恭祐へのセッティングの方がよっぽど気になってしまう。全てがリクエスト通りに進んでいれば、雰囲気の良いレストランで恭祐と今日のお相手にはとても素晴らしい時間が訪れているはず。かおるはそうなるべくセッティングを進め、そうならないことを切望している。もう何年もこの矛盾は続き、かおるはそこから出れずにいた。
「三上、出れるか?」
声の主は樹だった。矛盾の海に飲み込まれそうになっていたかおるに声を掛けたのは。しかも何気なく樹は『出れるか』と尋ねた。本音が言えるなら、矛盾からは出れないだ。
「秋山さん…」
「予定より、ちょっと早いけど、出よう」
せかされながらも、かおるはしっかりPCの電源を落とし、書類はキャビネットに入れ施錠した。
「何が好き?」
「…」
「オレ、何か変な質問した?」
「あ、いえ、何も。ただそんな質問をされるとは思っていなかったので、面喰ったって言うか、何ていうか…」
「普通は聞くだろ、メシ誘った興味のある人間には」
「…」
一日に2回も男性から同じようなことを言われたことに、かおるは心の中で驚いていた。そして、樹の言葉。樹はストレートに興味があるという表現を用いた。では恭祐は…今まで何年もそんなことを言われたことはなかった。…好きな店というその表現。
『何が好き』厳密にとらえるならば樹の言葉とはニュアンスが違う…
「そんなに考えることないだろう。好きなものを言えばいいだけなんだから」
「いえ、本当に考えていなかったから思いつかないんです」
恭祐がどういうつもりでああ言ったのか考えていたとはさすがに言えない。
「普通男が食事に誘ったら必ず聞くだろう」
「あの、そういうものなんですか?」
その言葉、その何の陰りもない瞳で聞き返すかおるに、樹はすぐに理解してしまった。かおるにそんなことすら経験がないことを。
考えてみれば、上司があの恭祐では男女問わず用もないのに易々とここには立ち寄らないだろう。だから、かおるがその手の申し出を受けたことがないのはもっともに思える。
しかし、社外では?雰囲気、声、何より飾り立てなくてもきれいでかわいらしいかおるにこの場以外で男が声を掛けない訳がない。
が、やはり上司があの恭祐では、仕事三昧で遊びに行く暇もそうそないだろう。だとしたら、もう何年もかおるは夕方からの男の視界に入っていないことになる。
「もしかして、会社で、いや、社外も含めてこういう風に男にメシを誘われたことがないのか?」
分かっているのに、樹は聞かずにはいられなかった。
「はい」
小さな声で小さく頷くかおる。樹はこんなに近くに求めるべき女性が他の誰にもふれられることなくいたことに、誰かれ構わず感謝したい気持ちになった。
樹が最終的に聞きだしたかおるの好きなもの、それは堅苦しい雰囲気ではないところでゆったりと食べるおいしいもの、だった。
結局具体的ではないリクエストに、樹は古くからある優しい照明に包まれた洋食屋にかおるを連れてきた。
「ここなら、肩肘をはることなくゆったりと過ごせるし、味も確かだ」
「すみませんでした。具体性に欠ける抽象的なリクエストばかりで」
「いや、十分だったよ」
かおるは樹へ媚を売るような口調で『秋山さんが好きなお店』とか『秋山さんがお勧めのお店』等とは言わなかった。ただ、かおるが何を欲しているか示しただけだ。確かに具体性はないが、これからの樹にとっては重要な情報になる。明らかに。
かおるのリクエストは毎日の反動のようだった。仕事の性質上、毎日が緊張の連続なのは分かる。更には、上司が誰よりも仕事に厳しい恭祐だ。
そして、付け加えるなら…
樹は知っていた。恭祐が仕事や立場を抜きにしても、かおるに特に厳しいことを。恭祐に聞いたこともないので、理由など分からない。だけれども事実は事実。
樹はかおるが辞める理由を結局今まで聞き出せずにいた。仕事や上司が嫌ならばとうに辞めていただろう。仲の良い人事の人間に探りを入れてみたが、寿ではないことが分かった程度。
次の組織編成でかおるの役割は今よりも大きなものになる。遣り甲斐も大きくなるし、仕事量に見合った報酬だって手にすることが出来たはずだ。
だから、何故今なのか分からない。
ここまで、あの難しい恭祐に仕え、周りからも正当に評価され、誰もが納得した上で次のポジションを手に入れようとしていたのに。
何故、今、会社での全てを捨てようとするのか。
その答えがかおるのリクエストに隠されているような気がした。
恐らく目の前に見え始めた成功よりも重圧や緊張からの解放を望んでいるのかもしれない。
もしも、自身を解き放つ術を見い出せれば、かおるは仕事を今後も続けていく気になるのだろうか。
けれどそんな感情は心の10%を占めるか否かだ。今夜の恭祐へのセッティングの方がよっぽど気になってしまう。全てがリクエスト通りに進んでいれば、雰囲気の良いレストランで恭祐と今日のお相手にはとても素晴らしい時間が訪れているはず。かおるはそうなるべくセッティングを進め、そうならないことを切望している。もう何年もこの矛盾は続き、かおるはそこから出れずにいた。
「三上、出れるか?」
声の主は樹だった。矛盾の海に飲み込まれそうになっていたかおるに声を掛けたのは。しかも何気なく樹は『出れるか』と尋ねた。本音が言えるなら、矛盾からは出れないだ。
「秋山さん…」
「予定より、ちょっと早いけど、出よう」
せかされながらも、かおるはしっかりPCの電源を落とし、書類はキャビネットに入れ施錠した。
「何が好き?」
「…」
「オレ、何か変な質問した?」
「あ、いえ、何も。ただそんな質問をされるとは思っていなかったので、面喰ったって言うか、何ていうか…」
「普通は聞くだろ、メシ誘った興味のある人間には」
「…」
一日に2回も男性から同じようなことを言われたことに、かおるは心の中で驚いていた。そして、樹の言葉。樹はストレートに興味があるという表現を用いた。では恭祐は…今まで何年もそんなことを言われたことはなかった。…好きな店というその表現。
『何が好き』厳密にとらえるならば樹の言葉とはニュアンスが違う…
「そんなに考えることないだろう。好きなものを言えばいいだけなんだから」
「いえ、本当に考えていなかったから思いつかないんです」
恭祐がどういうつもりでああ言ったのか考えていたとはさすがに言えない。
「普通男が食事に誘ったら必ず聞くだろう」
「あの、そういうものなんですか?」
その言葉、その何の陰りもない瞳で聞き返すかおるに、樹はすぐに理解してしまった。かおるにそんなことすら経験がないことを。
考えてみれば、上司があの恭祐では男女問わず用もないのに易々とここには立ち寄らないだろう。だから、かおるがその手の申し出を受けたことがないのはもっともに思える。
しかし、社外では?雰囲気、声、何より飾り立てなくてもきれいでかわいらしいかおるにこの場以外で男が声を掛けない訳がない。
が、やはり上司があの恭祐では、仕事三昧で遊びに行く暇もそうそないだろう。だとしたら、もう何年もかおるは夕方からの男の視界に入っていないことになる。
「もしかして、会社で、いや、社外も含めてこういう風に男にメシを誘われたことがないのか?」
分かっているのに、樹は聞かずにはいられなかった。
「はい」
小さな声で小さく頷くかおる。樹はこんなに近くに求めるべき女性が他の誰にもふれられることなくいたことに、誰かれ構わず感謝したい気持ちになった。
樹が最終的に聞きだしたかおるの好きなもの、それは堅苦しい雰囲気ではないところでゆったりと食べるおいしいもの、だった。
結局具体的ではないリクエストに、樹は古くからある優しい照明に包まれた洋食屋にかおるを連れてきた。
「ここなら、肩肘をはることなくゆったりと過ごせるし、味も確かだ」
「すみませんでした。具体性に欠ける抽象的なリクエストばかりで」
「いや、十分だったよ」
かおるは樹へ媚を売るような口調で『秋山さんが好きなお店』とか『秋山さんがお勧めのお店』等とは言わなかった。ただ、かおるが何を欲しているか示しただけだ。確かに具体性はないが、これからの樹にとっては重要な情報になる。明らかに。
かおるのリクエストは毎日の反動のようだった。仕事の性質上、毎日が緊張の連続なのは分かる。更には、上司が誰よりも仕事に厳しい恭祐だ。
そして、付け加えるなら…
樹は知っていた。恭祐が仕事や立場を抜きにしても、かおるに特に厳しいことを。恭祐に聞いたこともないので、理由など分からない。だけれども事実は事実。
樹はかおるが辞める理由を結局今まで聞き出せずにいた。仕事や上司が嫌ならばとうに辞めていただろう。仲の良い人事の人間に探りを入れてみたが、寿ではないことが分かった程度。
次の組織編成でかおるの役割は今よりも大きなものになる。遣り甲斐も大きくなるし、仕事量に見合った報酬だって手にすることが出来たはずだ。
だから、何故今なのか分からない。
ここまで、あの難しい恭祐に仕え、周りからも正当に評価され、誰もが納得した上で次のポジションを手に入れようとしていたのに。
何故、今、会社での全てを捨てようとするのか。
その答えがかおるのリクエストに隠されているような気がした。
恐らく目の前に見え始めた成功よりも重圧や緊張からの解放を望んでいるのかもしれない。
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