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36 涙が落ちる訳
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時刻は7時半。恭祐が出席した最後のミーティングが終わるであろう時間だった。かおるが把握している限り、問題が起きそうな議題ではないのであと少しで恭祐は戻ってくるだろう。
そしてそれは見透かしたかのように現実になる。かおるの予想通り、恭祐がデスクへ戻ってきた。スケジュールが予定通り上手く進んだということだ。
今日もまた一日が順調に進んでくれたことにかおるは心の中で安堵した。あとは頃合いを見計らって、恭祐から追加の指示がないか確認するだけだ。
「お預かりするものはありますか?」
「これは、サマリーシートを作ってくれ。」
「はい。」
「進捗と照らし合わせて、遅れそうなところには適切なアクションをとっておくように。特に印を付けてあるところはフォローも必要だ。」
渡された内容を見て、かおるは瞬時に9時前にここを出るのは難しいと感じた。
樹にはこの段階で断る方が誠意的に思える。しかし、誘ってくれた気持ちを汲むならば食事は無理でもコーヒーくらいは一緒に飲めないか聞いてみてもいいのかもしれない。しかし、この仕事が終わってからでは遅い時間になってしまう。
何か良い選択肢はないだろうか…。
考えるよりは、とにかく今は仕事を片付けることに集中しようとかおるは思った。一分一秒でも早く終わればと。
だから恭祐がデスクを離れたことにかおるは気付かなかった。そして10分くらい経った頃、難しい顔をしながら樹を伴って戻ってきたことにも。
しかし、呼びかけられれば流石に気付く。更には声のトーンから良い状況でないことも。
「三上、デリバリー用メニューを持って来てくれ。」
「はい。」
かおるがデリバリー用メニューを差し出すと、恭祐はその中からハンバーガー店のものをピックアップし樹に見せた。
「ここでいいか?」
「ああ。しっかり食っとくか。こんな時間だから、かおるも何か食っておいたら。」
「あ、でも、」
かおるは返答に困ってしまった。
樹がかおるに食事を取るように言ったのは、会社を出るのが9時を過ぎてしまうことを間接的に伝えたかったのだろう。そのことは分かるのだが…、かおるは仕事が終われば帰るだけ。何時間も残るわけではない。
「オレの奢りじゃ食えない?」
「そういう訳じゃ…、ただ時間はまだ八時前ですし。」
「十分夕飯の時間だろう。やっぱり嫌だからか?」
樹が戯けながらかおるを脅す。そのやり取りに恭祐は何か黒い感情がこみ上げるのを覚えた。
「まだ、働いているんだ、オレの財布から3人分だせばいいだろう。」
「お、太っ腹だな、恭。」
今朝の朝食やこういう軽食用に、かおるは恭祐から現金を預かっている。嫌われているのに、信用はされているのか時折不思議に思うこともあるが。
恭祐が言う財布とはその現金のことだ。
そこからは、恭祐の分だけでなく仕事で遅くなってしまった者たちの為にも使われる。恭祐はそういう心配りを当然のように行う。
けれども、どんなに遅くなろうとかおるはその財布の対象になったことがなかった。
かおるが遅いのは、仕事が出来ないから。正当な働きをしている者だけが対象となるのだから当然だろう。
恭祐の思っていることが分かっているかおるには、改めて言われる必要もない台詞だった。
だから、かおるは即座に自分の分は止めようと思った。
恭祐の仕事に関わる人間で、かおるだけがその対象に一度もならなかった事実から考えても妥当な判断だろう。
「かおるはどれにする?」
「あ、えっと、」
樹の質問はかおるの心の中を見透かしているようだった。
どうして見透かされてしまうのだろうか。それに、今こうして夕食を取れるようにしてくれたのも…自分だけでなくかおるも仕事が伸びるのを察してくれているということだ。
かおるは泣きたい訳ではないのに、目じりに涙が溜まってくるのが分かった。
何年もずっと辛かった。仕事が辛いことも確かにあったが、何より辛かったのは恭祐の態度。
その態度が軟化することはないと分かった瞬間から、これ以上酷くならないよう緊張し続けて…
「これとか、これ、うまいよ。…その前にコーヒー一杯、もらえないかな。」
「はい。」
恭祐の席を離れると、樹は囁くような優しい声で『どうかした?』とかおるに質問した。
「何がですか?」
「泣いている。」
「泣いてなんか、」
「泣いてはいないね、でも、涙が零れた。」
「ごめんなさい。…だから、コーヒーって、」
「飲みたかったんだ、かおるがオレの為だけに淹れてくれるやつが。」
「今から、落とします。出来たらお持ちしますので、若林さんの席に先に、」
「先は、こっちだろ。」
樹は静まり返ったミーティングルームにかおるを押し入れると、強く抱きしめた。
「泣きたければ、泣くのが一番いい。」
「泣きたくなんて…、ないです、ただ、秋山さんが、…だから気が緩んで、そしたら、そしたら…、どうしてか、涙線も緩んで、それで、涙が、」
「オレが悪くていいから、オレのせいにしていいから、少しの間、自分を休ませてあげるといい。もう、無理は止めよう。ごめん、もっと早くに声を掛けなくて、もっと早くに気付いてあげられなくて。」
そしてそれは見透かしたかのように現実になる。かおるの予想通り、恭祐がデスクへ戻ってきた。スケジュールが予定通り上手く進んだということだ。
今日もまた一日が順調に進んでくれたことにかおるは心の中で安堵した。あとは頃合いを見計らって、恭祐から追加の指示がないか確認するだけだ。
「お預かりするものはありますか?」
「これは、サマリーシートを作ってくれ。」
「はい。」
「進捗と照らし合わせて、遅れそうなところには適切なアクションをとっておくように。特に印を付けてあるところはフォローも必要だ。」
渡された内容を見て、かおるは瞬時に9時前にここを出るのは難しいと感じた。
樹にはこの段階で断る方が誠意的に思える。しかし、誘ってくれた気持ちを汲むならば食事は無理でもコーヒーくらいは一緒に飲めないか聞いてみてもいいのかもしれない。しかし、この仕事が終わってからでは遅い時間になってしまう。
何か良い選択肢はないだろうか…。
考えるよりは、とにかく今は仕事を片付けることに集中しようとかおるは思った。一分一秒でも早く終わればと。
だから恭祐がデスクを離れたことにかおるは気付かなかった。そして10分くらい経った頃、難しい顔をしながら樹を伴って戻ってきたことにも。
しかし、呼びかけられれば流石に気付く。更には声のトーンから良い状況でないことも。
「三上、デリバリー用メニューを持って来てくれ。」
「はい。」
かおるがデリバリー用メニューを差し出すと、恭祐はその中からハンバーガー店のものをピックアップし樹に見せた。
「ここでいいか?」
「ああ。しっかり食っとくか。こんな時間だから、かおるも何か食っておいたら。」
「あ、でも、」
かおるは返答に困ってしまった。
樹がかおるに食事を取るように言ったのは、会社を出るのが9時を過ぎてしまうことを間接的に伝えたかったのだろう。そのことは分かるのだが…、かおるは仕事が終われば帰るだけ。何時間も残るわけではない。
「オレの奢りじゃ食えない?」
「そういう訳じゃ…、ただ時間はまだ八時前ですし。」
「十分夕飯の時間だろう。やっぱり嫌だからか?」
樹が戯けながらかおるを脅す。そのやり取りに恭祐は何か黒い感情がこみ上げるのを覚えた。
「まだ、働いているんだ、オレの財布から3人分だせばいいだろう。」
「お、太っ腹だな、恭。」
今朝の朝食やこういう軽食用に、かおるは恭祐から現金を預かっている。嫌われているのに、信用はされているのか時折不思議に思うこともあるが。
恭祐が言う財布とはその現金のことだ。
そこからは、恭祐の分だけでなく仕事で遅くなってしまった者たちの為にも使われる。恭祐はそういう心配りを当然のように行う。
けれども、どんなに遅くなろうとかおるはその財布の対象になったことがなかった。
かおるが遅いのは、仕事が出来ないから。正当な働きをしている者だけが対象となるのだから当然だろう。
恭祐の思っていることが分かっているかおるには、改めて言われる必要もない台詞だった。
だから、かおるは即座に自分の分は止めようと思った。
恭祐の仕事に関わる人間で、かおるだけがその対象に一度もならなかった事実から考えても妥当な判断だろう。
「かおるはどれにする?」
「あ、えっと、」
樹の質問はかおるの心の中を見透かしているようだった。
どうして見透かされてしまうのだろうか。それに、今こうして夕食を取れるようにしてくれたのも…自分だけでなくかおるも仕事が伸びるのを察してくれているということだ。
かおるは泣きたい訳ではないのに、目じりに涙が溜まってくるのが分かった。
何年もずっと辛かった。仕事が辛いことも確かにあったが、何より辛かったのは恭祐の態度。
その態度が軟化することはないと分かった瞬間から、これ以上酷くならないよう緊張し続けて…
「これとか、これ、うまいよ。…その前にコーヒー一杯、もらえないかな。」
「はい。」
恭祐の席を離れると、樹は囁くような優しい声で『どうかした?』とかおるに質問した。
「何がですか?」
「泣いている。」
「泣いてなんか、」
「泣いてはいないね、でも、涙が零れた。」
「ごめんなさい。…だから、コーヒーって、」
「飲みたかったんだ、かおるがオレの為だけに淹れてくれるやつが。」
「今から、落とします。出来たらお持ちしますので、若林さんの席に先に、」
「先は、こっちだろ。」
樹は静まり返ったミーティングルームにかおるを押し入れると、強く抱きしめた。
「泣きたければ、泣くのが一番いい。」
「泣きたくなんて…、ないです、ただ、秋山さんが、…だから気が緩んで、そしたら、そしたら…、どうしてか、涙線も緩んで、それで、涙が、」
「オレが悪くていいから、オレのせいにしていいから、少しの間、自分を休ませてあげるといい。もう、無理は止めよう。ごめん、もっと早くに声を掛けなくて、もっと早くに気付いてあげられなくて。」
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