どうかあなたが

五十嵐

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51 挑発*

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家につくと、樹はまず風呂の支度をした。そして、キッチンでコーヒーを淹れる。カフェオレが好きな割には牛乳なんてものは随分買ってないので、ただ湯を注いだだけのインスタントコーヒー。

「この一杯でかおるの気持ちが多少落ち着けばいいけど。適当な量だからそれなりかもしれないな。ホントはハーブティとか、もっと気のきいたものがあればいいんだけどね。」
「そんなことありません。ありがとうございます。樹さんが、わたしに淹れてくれたと思うと嬉しいです。」

言葉では嬉しいと言いつつも、かおるの表情は硬い。けれど、樹はかおるの言葉の使い方に変化を感じ驚いていた。
ただ『嬉しい』と言うわけではなく、コーヒーが飲めることに対してでもなく、しっかりと誰の行為に嬉しさを感じているか言葉にしてくれている。

「喜んでもらえて何よりだよ。もう少ししたら、風呂も用意出来るから、ゆっくり浸かるといい。落ち着けるだろう。」
「あの、…今日は傍にいてくれるんですよね。その、お風呂、…一緒に入ってもらえますか?」
「やっぱ、今日、変だ。どうかしてる、かおる、不安定なんだね。」
「不安定?分からないです、それすらもう。でも、不安定なら、尚更、一緒にいて下さい。」
「自信がないんだ。何もしないっていう。でも、自分で言ったことは守りたい。結婚式を挙げて、心が満ち足りている瞬間の君を愛したいんだ。」
「いいです。樹さんの理想通りでなくても。」
「オレはかおるの心の不安定さに付け入ることはしたくない。」
「でも、お願い、傍に、傍にいて下さい。」

かおるの心はどうにも安定しないようだった。風呂にゆっくり浸かり落ち着くことを薦めたのに、樹が落ち着きをなくすような提案をしてくる次第だ。
密室に裸で二人きりだなんて、危険な状況に陥りかねない。前回のシャワーだけの時も既の所で回避したにすぎないというのに。けれど、やはり一人にするよりはと樹は心を決めた、自分の本能と戦おうと。

「分かった、傍にいるよ。傍にいるのも何もしないのも約束だし。」
「…ありがとうございます。」
「案外大胆なんだな。風呂に入るってことは真っ裸になるって分かってるんだよな?」
「前回、お互いに全部見てますから。それに、見ようっていう意志をもたなければ景色になりませんか?」
「それは…、無理がある。」
「でも、当分会えませんし。」




どうしてこんなことを言っているのか、かおるにも自分が理解出来なかった。しかし、樹はどこまでも優しく甘い。全ての約束を守ろうとしてくれている。

樹がそう言ってくれることを見越してかおるは甘えたのだろうか。それとも、有言実行を貫こうとする樹に何かを賭けたのか。

ちょっと濃いめのコーヒーを飲んでいると、電子音が響き風呂が沸いたことを知らせてくれた。
「沸いたみたいですね。」
「うん。ホントに二人で入りたい?」

本当の対極は嘘なんだろうかとかおるは思った。それとも誤魔化しなのか。
嘘であるならばかおるは樹と風呂に入りたくない、になるのだろう。でも、そうではない。

きっと、誤魔化しが今の状況には当てはまる。真実を隠そうとしているのだから。これは危ない橋を渡る前の最後の賭け。樹の何かが切れ最後をむかえたら、その行為が、事実が、橋の落下へとつながる。橋を渡る前に落ちる、すなわちそれは失敗ということだ。
では、渡れてしまったら?かおるは明日から恭祐に支配され、今までよりもより一層近くにいることになる。橋ではなく、自分が壊れるのを助長するのかもしれない。
だったら、樹が最後までしてくれる方がいいのだろうか。そしてもう離れたくないとでも言い、会社を辞めてしまうほうが…。
賭けにあるのは成功か失敗。結果を考えるとどちらが成功で、どちらが失敗なのか。

分からないことを知る為に、かおるは樹がコーヒーを飲み干すのを見計らって『入りましょう』とソファから立ち上がった。
「先に行ってて。後から行くから。」
「一緒に行きましょう。なんだか、樹さん、そう言って結局来ない気がします。」
「脱衣スペースでお互いに服を脱ぐのは緊張するかと思って。かおるが入ってからオレも入ろうと思ってた。」
「わたしが樹さんを脱がせます。この間のお返しです。」
「えっ?」
「服、わたしが脱ぐのお手伝いします。」
「…分かった。脱いだらオレが先に入る。その後、どうするかは、かおるの自由だ。」
「…はい。」

樹はかおるに逃げ道を与えたのだろう。でもかおるは、その道を進んだとしても、本当の意味での逃げにはならないと知っている。
樹を引く手にじっとりと汗が滲む。その汗が自分のものなのか樹のものなのか、かおるにはもうどうでもいいことだ。脱がせるのも、裸になるのも、狭いスペースで二人きりになるのも、危険な橋を渡れなくする為の仕掛け。


脱衣スペースの明かりは白熱ランプがいくつか取り付けられていた。それが洗面所の鏡にも映り、一層照明の光を際立たせる。
かおるはその中で樹を正面から見つめ、呟いた。

「わたし、樹さんとの距離を縮めはじめて、どんどん自分が弱くなっている気がします。」
「いいんじゃない、別に強くある必要はないんだから。ただ、重要なのは自分が自分らしくあることじゃないかな。かおるは今、本来の自分に戻ろうとしているだけだよ。」
「そうなんでしょうか。」

会社を辞めるのは、逃げる為。でも、考えようによっては、恭祐という存在を知らなかった頃の自分に戻る為かもしれない。
けれど、人間は一度知ったことを都合よくそこだけ記憶から取り除くことが出来るものなのだろうか。本当に戻れるのか不安になる。

「大丈夫、そういう転換期には不安定になりやすいものだから。そんな時に、オレがいきなりプロポーズして、ごめん、タイミング悪くて。でも、そんな時だからこそ、頼って欲しい。」
かおるは返事をする代わりに、樹の体に手を伸ばしワイシャツのボタンを一つずつ外し始めた。



樹はその手の動きに、血流が股間に集まるのを感じた。臍周辺を通過した手は、ワイシャツを抜き取る為にベルトにかけられている。この行為がセックスに繋がるものではないと頭は分かっているのに、本能の象徴である陰茎は期待から立ち上がり始めてしまった。このままでは、前立て部分にシミを滲ませてしまう。
かおるは手伝うと言ったが、上半身だけだろう。流石に下半身は色々な意味で辛い。

ところがかおるは違う意味で樹を裏切った。
「今日は、わたしが、」
そう言うと、ワイシャツとアンダーシャツを脱がせて露になった樹の乳首に舌を這わせたのだった。

「それは、ダメだ。」
樹もいい歳だ。当然、セックスにおいて色々な経験はしている。おもちゃ遊びが好きな女、痛ぶられるのが好きな女、奉仕好きな女、その時々で楽しんできた。けれど、かおるからの愛撫は今までと何かが違う。一昨日されたことと同じことをしているのだろうが、樹の本能という火に油を注ぐようだ。樹は自らの手で陰茎を扱きたくなった。いや、そうしなければ目の前にある特別な花園に勢いよく押し進み、花を散らしてしまうだろう。

「わたしじゃ、気持ち良くはなれないですか。」
「違う。すごくいいから、困る。」
樹はかおるの手を取り、熱く滾った陰茎へ導いた。驚いたのだろうかおるの手が一瞬ピクっと震える。
「すごく良いと、ここが獰猛になる。約束を守らないと。」

かおるは弱い自分を助けようとしてくれている樹を追い込むことで、救われようとしていることに気づいてはいなかった。
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