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54 ご褒美
「おはようございます」
いつもと同じ朝。かおるに向けられた恭祐の視線は、すぐにまたモニターへ戻る。
その一瞬で、かおるが樹の部屋から出社したことを恭祐が気付くはずはないだろう。そもそもその視線が物語るように、恭祐はかおるに微塵の関心も持っていない。
たとえ、かおるが樹の家から出社してきたと知っても何も思わないし言わないはず。ただ、かおるだけが知られたことで落ち着かなくだけだ。
そんなことは分かっている。分かっているのに、恭祐より早く出社することでかおるは心を落ち着けいつも以上に平静を装おうとした。それなのに、既に恭祐は出社していのだ。
だから、返事などないと分かっているのに、挨拶をしたのだった。
当然、この時間にここにいる恭祐が朝食をとっていないことは明らか。かおるは荷物を置くと、恭祐の朝食を買いに出かけた。心を落ち着けれるには丁度良い時間に思えたので。
「ここに置いておきますので、どうぞ」
「ああ」
先ほどは気付かなかったが、近くで見た恭祐の顔色はあまり良くなかった。
理由は考えるまでもない。働き過ぎなのは、予定を組んで傍で見ていたかおるには嫌という程分かってしまう。
けれど出発当日だと言うのに、予定をつめてまで行く出張の内容をかおるはまだ聞かされないでいた。
評価は元より、もう恭祐の顔色を窺う必要はない。ならば聞いてしまえばいい、とかおるは思った。
「本日の予定を再確認致します」
かおるはまずは事務的なことから話し始めた。事実確認をしなくてはいけないことがいくつかある。
「車の手配は12時のままで大丈夫でしょうか?ご昼食はいかがしますか?」
「車は11時に変えてくれ。空港のラウンジの方が落ち着いて仕事ができそうだ。それにその時間に出れば、昼食も向こうでとれる」
「畏まりました。では、昼食は空港傍のホテルのレストランを予約しておきます」
「そうしてくれ」
「それと、到着後に手配しておくこと等はございますか?今回、特にわたしは何もしていませんが。仕事の準備を含めて何かありましたら、おっしゃって下さい」
「到着後は少し遅くなるが、夕食を共にするぐらいだ。服はオレのリクエスト通り用意したか?」
「はい」
「それならいい」
恭祐はこれ以上話す気がないと分かる話し方でかおるに返した。
よほど疲れていたのか、恭祐は空港傍のホテルへ向かう車中で一度も目を開けることはなかった。本人には悪いが、恭祐が眠り続けていることはかおるにとっては非常にありがたい。
この限られら空間と時間の中でも、恭祐はいつもと同じように無言だったはず。だとしたら、移動中はずっと沈黙が支配することになっただろう。ただ音の無い時間が続く沈黙ならまだしも、そこには重い空気とピリピリとした感覚が流れ続ける。
簡単に予想がつく状況にならなかった現実に、かおるは感謝をした。そして、もう1つ…。上司を気にかける素振りで寝顔を伺うことが出来ることにも。
いつもは恐怖を感じる恭祐の寝顔は、意外にも穏やかだった。様々な恭祐の表情を捉えてきたかおるが初めて見る、まるで別人のような。
でも、恭祐が眠ったのはその移動の間だけ。
ボーディング開始ぎりぎりまで、恭祐はラウンジで仕事をし続けていた。
空港到着後、かおるは何度かメールチェックをした以外、特に何もすることがなかった。それは搭乗してからも同じ。わざわざ機内でWi-Fiサービスを購入してまでする仕事なんてない。
名目上は出張で仕事中だが、終わりに向かっているかおるには特に急ぎですることはない。せいぜい小峯への引き継ぎ書類に手を加えるくらいだ。
座席も、気を使ってくれたのかどうかは分からない。もしかすると近くにすらいたくなかったのかもしれないが、恭祐とかおるの席は同じビジネスクラスのエリアでも対角線上に一番端と端だった。
恭祐からの解放、そして樹と築き始めた関係からか、機内食を食べ終わるとかおるは深い眠りについた。
「おはようございます」
「まだ同日の夕方だ。時計の時差調整はしていないのか」
入国審査、税関を過ぎ、到着ロビーまで出てきたかおるは恭祐の顔を見ると開口一番朝の挨拶をした。
つい出てしまった習慣だったが、恭祐の指摘は最も。出張である以上、時差調整も事前にすべきだったのに出来ていないことへの叱責だ。到着時に機内アナウンスで現地時間も伝えられていた。
「申し訳ございません」
しかし、最初の冷静かつ冷たい口調の言葉だけでかおるの謝罪に対し恭祐は何も言わなかった。そのまま振り返るとついて来いと言わんがばかりに歩き始めてしまったのだった。
そんな素っ気ない会話と態度。けれどかおるにしてみれば、恭祐が待っていてくれた上に、例え訂正だとしても言葉のキャッチボールをしたことになる。
なぜこんなちっぽけな事で喜んでしまうのか。
「ボケっとしていないで、急いだらどうだ」
「申し訳ございません」
再び掛けられた言葉。どんな言葉であれ、気に掛けてもらえることがかおるは嬉しかった。
タクシーの窓の外のニューヨークは既に夕暮れだった。
今日はこのままホテルにチェックインして、恭祐と共に食事をとる。本当にそれだけでいいのだろうか。
それとも、その食事の場でとんでもない量の仕事を言いつけられるのだろうか。色々な不安はあるものの、窓の外に広がる眺めは刺激的なものだった。
そして街の中心へ向かえば向かう程、映画やテレビで見たことがありそうな景色へと変わっていった。
生まれて初めて見るマンハッタンの夕暮れ。しかも、恭祐と共に。
かおるには、これは仕事を辞める前に神様がくれたご褒美に思えた。
ホテルもコーポレート特約で予約できる中の最上級だった。ホテル自体のグレード、ロケーション、ロビーの重厚な雰囲気、どれもが素晴らしい。
かおるは、自分にこんなことがあってもいいのだろうかと考えずにはいられなかった。
ポーターにチップを渡し、小声で何か話をした恭祐がかおるに振り返った。
「90分、与えよう。今夜の食事はここのメインダイニングだ。オレに恥をかかせない姿で来い」
「はい」
ポーターと話している時とは全く違う口調で、恭祐がかおるに今夜の食事に関することを伝えたのだった。
いつもと同じ朝。かおるに向けられた恭祐の視線は、すぐにまたモニターへ戻る。
その一瞬で、かおるが樹の部屋から出社したことを恭祐が気付くはずはないだろう。そもそもその視線が物語るように、恭祐はかおるに微塵の関心も持っていない。
たとえ、かおるが樹の家から出社してきたと知っても何も思わないし言わないはず。ただ、かおるだけが知られたことで落ち着かなくだけだ。
そんなことは分かっている。分かっているのに、恭祐より早く出社することでかおるは心を落ち着けいつも以上に平静を装おうとした。それなのに、既に恭祐は出社していのだ。
だから、返事などないと分かっているのに、挨拶をしたのだった。
当然、この時間にここにいる恭祐が朝食をとっていないことは明らか。かおるは荷物を置くと、恭祐の朝食を買いに出かけた。心を落ち着けれるには丁度良い時間に思えたので。
「ここに置いておきますので、どうぞ」
「ああ」
先ほどは気付かなかったが、近くで見た恭祐の顔色はあまり良くなかった。
理由は考えるまでもない。働き過ぎなのは、予定を組んで傍で見ていたかおるには嫌という程分かってしまう。
けれど出発当日だと言うのに、予定をつめてまで行く出張の内容をかおるはまだ聞かされないでいた。
評価は元より、もう恭祐の顔色を窺う必要はない。ならば聞いてしまえばいい、とかおるは思った。
「本日の予定を再確認致します」
かおるはまずは事務的なことから話し始めた。事実確認をしなくてはいけないことがいくつかある。
「車の手配は12時のままで大丈夫でしょうか?ご昼食はいかがしますか?」
「車は11時に変えてくれ。空港のラウンジの方が落ち着いて仕事ができそうだ。それにその時間に出れば、昼食も向こうでとれる」
「畏まりました。では、昼食は空港傍のホテルのレストランを予約しておきます」
「そうしてくれ」
「それと、到着後に手配しておくこと等はございますか?今回、特にわたしは何もしていませんが。仕事の準備を含めて何かありましたら、おっしゃって下さい」
「到着後は少し遅くなるが、夕食を共にするぐらいだ。服はオレのリクエスト通り用意したか?」
「はい」
「それならいい」
恭祐はこれ以上話す気がないと分かる話し方でかおるに返した。
よほど疲れていたのか、恭祐は空港傍のホテルへ向かう車中で一度も目を開けることはなかった。本人には悪いが、恭祐が眠り続けていることはかおるにとっては非常にありがたい。
この限られら空間と時間の中でも、恭祐はいつもと同じように無言だったはず。だとしたら、移動中はずっと沈黙が支配することになっただろう。ただ音の無い時間が続く沈黙ならまだしも、そこには重い空気とピリピリとした感覚が流れ続ける。
簡単に予想がつく状況にならなかった現実に、かおるは感謝をした。そして、もう1つ…。上司を気にかける素振りで寝顔を伺うことが出来ることにも。
いつもは恐怖を感じる恭祐の寝顔は、意外にも穏やかだった。様々な恭祐の表情を捉えてきたかおるが初めて見る、まるで別人のような。
でも、恭祐が眠ったのはその移動の間だけ。
ボーディング開始ぎりぎりまで、恭祐はラウンジで仕事をし続けていた。
空港到着後、かおるは何度かメールチェックをした以外、特に何もすることがなかった。それは搭乗してからも同じ。わざわざ機内でWi-Fiサービスを購入してまでする仕事なんてない。
名目上は出張で仕事中だが、終わりに向かっているかおるには特に急ぎですることはない。せいぜい小峯への引き継ぎ書類に手を加えるくらいだ。
座席も、気を使ってくれたのかどうかは分からない。もしかすると近くにすらいたくなかったのかもしれないが、恭祐とかおるの席は同じビジネスクラスのエリアでも対角線上に一番端と端だった。
恭祐からの解放、そして樹と築き始めた関係からか、機内食を食べ終わるとかおるは深い眠りについた。
「おはようございます」
「まだ同日の夕方だ。時計の時差調整はしていないのか」
入国審査、税関を過ぎ、到着ロビーまで出てきたかおるは恭祐の顔を見ると開口一番朝の挨拶をした。
つい出てしまった習慣だったが、恭祐の指摘は最も。出張である以上、時差調整も事前にすべきだったのに出来ていないことへの叱責だ。到着時に機内アナウンスで現地時間も伝えられていた。
「申し訳ございません」
しかし、最初の冷静かつ冷たい口調の言葉だけでかおるの謝罪に対し恭祐は何も言わなかった。そのまま振り返るとついて来いと言わんがばかりに歩き始めてしまったのだった。
そんな素っ気ない会話と態度。けれどかおるにしてみれば、恭祐が待っていてくれた上に、例え訂正だとしても言葉のキャッチボールをしたことになる。
なぜこんなちっぽけな事で喜んでしまうのか。
「ボケっとしていないで、急いだらどうだ」
「申し訳ございません」
再び掛けられた言葉。どんな言葉であれ、気に掛けてもらえることがかおるは嬉しかった。
タクシーの窓の外のニューヨークは既に夕暮れだった。
今日はこのままホテルにチェックインして、恭祐と共に食事をとる。本当にそれだけでいいのだろうか。
それとも、その食事の場でとんでもない量の仕事を言いつけられるのだろうか。色々な不安はあるものの、窓の外に広がる眺めは刺激的なものだった。
そして街の中心へ向かえば向かう程、映画やテレビで見たことがありそうな景色へと変わっていった。
生まれて初めて見るマンハッタンの夕暮れ。しかも、恭祐と共に。
かおるには、これは仕事を辞める前に神様がくれたご褒美に思えた。
ホテルもコーポレート特約で予約できる中の最上級だった。ホテル自体のグレード、ロケーション、ロビーの重厚な雰囲気、どれもが素晴らしい。
かおるは、自分にこんなことがあってもいいのだろうかと考えずにはいられなかった。
ポーターにチップを渡し、小声で何か話をした恭祐がかおるに振り返った。
「90分、与えよう。今夜の食事はここのメインダイニングだ。オレに恥をかかせない姿で来い」
「はい」
ポーターと話している時とは全く違う口調で、恭祐がかおるに今夜の食事に関することを伝えたのだった。
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