どうかあなたが

五十嵐

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56 勘違い

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飲みやすかったワインのせいだろうか、それとも案外アルコールが効いていたデザートのせいだろうか、翌朝かおるは微かな頭痛を感じながら目覚めた。

出張を言い渡される前までは、あのホテルでの昼食が恭祐と共に取る最初で最後の食事だと思っていた。しかし昨夜からは、そうすることが当たり前のように恭祐と共に食事を取っている。

朝食も昨日言われた時間通りに入り口で落ち合い、共にした。会社に着いた頃には、頭痛はこの緊張感からかもしれないと思える程気疲れしていた。

初めての訪れたオフィスとは言え、メールや電話ではやり取りをしている人ばかり。お陰でオフィスは過ごしやすかった。
かおるの仕事は、もう恭祐に係わることのサポートくらいしかない。新組織に関する仕事は既に小峯が加わりだしている。メールだって恭祐が宛先のものに、申し訳程度にかおるのアドレスがCCに加えられているにすぎない。たった一人の送信者を除いては。

『文章にするとそれはそれで恥ずかしいな。長時間のフライトの後だから、うまく体を休めろよ。何かあったら時差は気にせず、電話でもメールでもしてくれ。』

樹からのメールに目を通しながら、かおるは自分の中にある矛盾に気付いてしまった。こんなにも分かりやすいことなのに、どうして今まで鳴りを潜めていたのかと思う程の矛盾に。

かおるに対する恭祐と樹の態度は全く違う。それは、二人が一本の磁石のS極とN極のように。
だから、樹といる時に反対側にいる恭祐が時折見えてしまうのは、二人が一直線上にいるのだから仕方ないと思っていた。それなのに、恭祐と食事をしている最中も、出勤途中でも反対側にいるはずの樹の姿をかおるは見なかった。
これを人は矛盾と言うのだろうか。それとも…、恭祐から受ける恐怖はかおるを完全に支配し、外へ逃がさないように囲ってしまっているのだろうか。

時刻は午前10時を少し過ぎたところ。日本は深夜。それでもかおるは声を聞きたいと思った。いや、聞かなくてはいけない、何故かそう思えた。

『どうかした?オレからかけ直すから、ちょっと、』
「ううん、このままで、切ってかけ直す時間、もったいないですから。声を、声を聞かせて下さい。だから、このまま少し話してもいいですか?」
『何かあったんじゃ、』
「本当になにもないんです。…ううん、ありました。樹さんから、メールが来てたんです。でも、メールだから文字しかなくて。だから、こうすれば声が聞けると思って。文字、じゃなくて、声が聞きたくて、時差があるのは分かってるのに。」
『いいよ、どうせ起きているんだから。それに嬉しい。オレもかおるの声が聞けて。どう、ニューヨークは?』
「よく分からないです。でも、テレビで見ていたのと同じで、ちょっと不思議な感じがします。それと、聞いていた通り、みんな歩くのが早いです。タクシーっていうか、キャブは本当に黄色だし。何より、みんなどこで着替えてきたのか、夜になると全然服装の感じが変わってて。」
『そっか。早いって言えば、シンガポールの地下鉄のエスカレーターも日本より全然早い。』
「シンガポール?」
『オレが案内出来る得意な国。インド人街にあるショッピングビルとか、郊外の美味しい中華とか連れてってあげられるかな。ニューヨークの上品なレストランよりチリクラブを手掴みで食べよう。』
「そうですね、わたし、会社辞めるから色々計画できるんですね。あ、そんなに長くは抜けられないので、もうそろそろ切りますね。でも、その前に、…大好きです。」
『あ、待って。オレは、愛している。体、気を付けて。』

樹の声、言葉は、かおるの足元をふわふわさせると同時に、心にしっかりとした何かを与えてくれた。お陰で、恭祐との買い物に対し既に湧き始めている恐怖にも立ち向かえそうだ。何より、恭祐越しに樹の姿を思い浮かべなかったのは矛盾ではないとかおるに思わせてもくれた。

そう、恭祐の放つ恐怖があまりにも多大すぎて全てを遮断してしまうという考えが正しいと。
そして、『大丈夫』とかおるは自分に言い聞かせた。



オフィスがあるビルのエレベーターはアールデコ調の造りで、まるで古いタロットカードの絵柄に出てきそうなモチーフが階数表示のところに飾られている。
そのせいなのか、かおるはタロットにJusticeというカードがあったことを思い出した。正義や正しい決断を表すカード。数ある種類の中で、どうしてそれを今思い出したのだろうか…。

不思議に思いつつも、中に入り行き先ボタンを押した瞬間に答えが分かったような気がした。エレベーターに乗ったのなら、行きたい階へは自分の意思でその階のボタンを押し、向かう。
かおるも、まさに今、行くべき場所への階数ボタンを押す時が来ているのだ。樹という正しい決断をする為。気持ちに決着をつける為。

向かうべき場所は樹。恐怖から完全に解き放たれて、愛情を選ぶ、それが当然の選択。間違ったボタンを押してしまえば、簡単に辞職願が伝わる前日までの溜息と矛盾と切望を繰り返していた状況へ戻ってしまう。
そして、もう1つ思い出した。タロットにはそんなに詳しくはないが、カードの中の人物は片手に天秤を持っていたと。

天秤のそれぞれの皿に愛情と恐怖を乗せたら、どちらが重いのか。
恐怖に正面から向き合う為の仮面をかぶり続けていたかおるは、樹の愛がそれをはずす勇気をくれたことを知っている。だから、愛が重い、そう結論付けた。

けれども、仮面の下の本当のかおるの答えは違う。ずっと恐怖にさらされ、耐えることで心の深い部分にその重みを刻みこまれ続けた。そもそも仮面を作ったのは恐怖。そして、はずしていないから愛が重いというきれいごとを受け入れたに過ぎない。

かおるは正しく理解していなかった、自分がどれだけ恐怖に敏感になり、すぐに引き込まれてしまうかと言うことを。

席に戻ると、久し振りに会う同僚と楽しそうに話す恭祐の姿がかおるの目に映った。恐怖など微塵も感じられない楽しそうな姿だ。このこともかおるにとっては不幸だったのかもしれない。外せてなどいない仮面を、外すことが出来たと勘違いしてしまったのだから。
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