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73 風通し
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「ありがとう、大地」
「いつも思うけど、半年そこらで随分描いたんだね」
「そうね。あの頃は学生だったから、時間もバイタリティもあったもの」
「こうして見ると、かおるさんて咲良さんになんとなく似ているとつくづく思うよ」
「厳密に言うと咲良さんの若い頃かしら」
「若い頃?」
「そう、若い頃」
最近続いていた好天に、奏絵は保管してある油絵に風通しをしていた。土曜で会社が休みということもあり、大きめなサイズのものは大地が専用の保存箱から出してくれる。自分の絵をこんなに厳重に保管しているのは、これらが賞を取ったとか卒業制作だったからではない。大切な思い出だからだ。
「この頃の咲良さんは、もうやせ細り始めていて…。家族の肖像を絵で求めた理由はそれだったの。咲良さん、若い頃に撮った写真をわたしに見せて、絵の中の自分は出来るだけ健康そうに描いて欲しいって。写実主義の大家には怒られそうだけど、絵の中の恭ちゃんと秀一さんはありのまま。咲良さんだけ、見えていた姿に過去を重ねて描いたの」
「いいんじゃない、どれも幸せそうに見えるから」
「でしょ。わたし、嘘を描いたつもりはないのよ。だって咲良さん、命の灯火が消えようとしていても、幸せそうだったもの。でも、咲良さんもわたしも、近いうちに必ずやってくる現実を恭ちゃんに説明出来ないのが辛かった。」
「今は?、今は辛くないの?オレの存在のせいでこの家は歪んでる」
「何も歪んではいないわ」
奏絵は手袋越しに絵をなぞり、あの頃のことを脳裏に思い浮かべた。路上でハガキくらいから画用紙サイズ程度の絵を売っていた頃を。たまたま通りかかった咲良に色使いが優しい絵だと声を掛けられたのが若林家の家族の肖像画を描く切欠だった。
美大を卒業したら全員が芸術家になる、残念ながらそんなことはない。
自称であればそうかもしれないが、金を稼ぐとなると話は違ってくる。美大生にとって卒業後の給料をもらえる手堅い職業は教師や、企業の中のデザイン部門といったところだろう。しかし、卒業後そうなれるのはほんの僅か。
当時の奏絵も当然僅かに入ることなく、大多数だった。社会の歯車になるよりは芸術に生きると友人達と夢を語り合い、職を得ることなく卒業年度をむかえていた。
けれども現実問題として、芸術に生きる前に人として生きていなければ絵も描けない。分かっていても、親からの仕送りは生活費よりも高価な画材に消えていく。かと言って、高価な画材を使用して描かれた絵は道端で売ったことろで二束三文。生きて行く為に、奏絵はアルバイトを掛け持ちで行っていた。その一つに、後に奏絵の運命を変えることになる建築事務所があったのだ。
建築事務所では、施工主へ渡す完成予想図を水彩画で描くという仕事と完成模型を作るという二つの業務を行った。建築のことなど何も分からなかった奏絵は、その事務所で建物の図面には意匠・構造・電気設備・機械設備があると教えられた。本音は建築に興味など無かったが、説明を聞くのも仕事と思い耳を適当に傾けた。
最初はそんな程度。ところが、奏絵は徐々に説明をしっかり聞くようになった。何故なら、奏絵が絵を担当する大賀透のデザインに興味を持ったのだ。
大賀透は意匠図面を引く一級建築士で、当時三十一歳。意匠とは奏絵の理解では建築デザインのことで、他のどの図面を引く人間よりも自分に近く思えたのだ。
デザイン画に対して透は妥協がなかった。クライアントへおまけで付けるようなものにもかかわらず。その妥協のない姿勢に奏絵は好感を抱いていた。
透は建造物の色だけでなく背景色や空の色にも拘った。奏絵はその意見を聞く度に、透が建造物をメインに絵を思い描いているのだと感じていた。
配色が自分の持つイメージと重なると、何となく嬉しく思ったものだ。勿論、意見が食い違うこともあったが、それは良い作品の為。お互いに色々な意見をぶつけ合うことで、立場や年齢を超え二人の距離は芸術を通し近くなっていった。そうあくまでも芸術を通し、そこに男女としての近さは無かった。
若林家の家族の肖像画を描き始めて、数ヶ月経った頃奏絵は咲良からまるで明日の天気を聞くかのように質問された内容に驚いた。
「何ヶ月?」
「こちらで絵を描き始めてから、もう五ヶ月近く経ちましたね」
「違うわ。奏絵ちゃん、赤ちゃん、いるわよね。わたしだって一児の母なのよ、こう見えても」
「いつも思うけど、半年そこらで随分描いたんだね」
「そうね。あの頃は学生だったから、時間もバイタリティもあったもの」
「こうして見ると、かおるさんて咲良さんになんとなく似ているとつくづく思うよ」
「厳密に言うと咲良さんの若い頃かしら」
「若い頃?」
「そう、若い頃」
最近続いていた好天に、奏絵は保管してある油絵に風通しをしていた。土曜で会社が休みということもあり、大きめなサイズのものは大地が専用の保存箱から出してくれる。自分の絵をこんなに厳重に保管しているのは、これらが賞を取ったとか卒業制作だったからではない。大切な思い出だからだ。
「この頃の咲良さんは、もうやせ細り始めていて…。家族の肖像を絵で求めた理由はそれだったの。咲良さん、若い頃に撮った写真をわたしに見せて、絵の中の自分は出来るだけ健康そうに描いて欲しいって。写実主義の大家には怒られそうだけど、絵の中の恭ちゃんと秀一さんはありのまま。咲良さんだけ、見えていた姿に過去を重ねて描いたの」
「いいんじゃない、どれも幸せそうに見えるから」
「でしょ。わたし、嘘を描いたつもりはないのよ。だって咲良さん、命の灯火が消えようとしていても、幸せそうだったもの。でも、咲良さんもわたしも、近いうちに必ずやってくる現実を恭ちゃんに説明出来ないのが辛かった。」
「今は?、今は辛くないの?オレの存在のせいでこの家は歪んでる」
「何も歪んではいないわ」
奏絵は手袋越しに絵をなぞり、あの頃のことを脳裏に思い浮かべた。路上でハガキくらいから画用紙サイズ程度の絵を売っていた頃を。たまたま通りかかった咲良に色使いが優しい絵だと声を掛けられたのが若林家の家族の肖像画を描く切欠だった。
美大を卒業したら全員が芸術家になる、残念ながらそんなことはない。
自称であればそうかもしれないが、金を稼ぐとなると話は違ってくる。美大生にとって卒業後の給料をもらえる手堅い職業は教師や、企業の中のデザイン部門といったところだろう。しかし、卒業後そうなれるのはほんの僅か。
当時の奏絵も当然僅かに入ることなく、大多数だった。社会の歯車になるよりは芸術に生きると友人達と夢を語り合い、職を得ることなく卒業年度をむかえていた。
けれども現実問題として、芸術に生きる前に人として生きていなければ絵も描けない。分かっていても、親からの仕送りは生活費よりも高価な画材に消えていく。かと言って、高価な画材を使用して描かれた絵は道端で売ったことろで二束三文。生きて行く為に、奏絵はアルバイトを掛け持ちで行っていた。その一つに、後に奏絵の運命を変えることになる建築事務所があったのだ。
建築事務所では、施工主へ渡す完成予想図を水彩画で描くという仕事と完成模型を作るという二つの業務を行った。建築のことなど何も分からなかった奏絵は、その事務所で建物の図面には意匠・構造・電気設備・機械設備があると教えられた。本音は建築に興味など無かったが、説明を聞くのも仕事と思い耳を適当に傾けた。
最初はそんな程度。ところが、奏絵は徐々に説明をしっかり聞くようになった。何故なら、奏絵が絵を担当する大賀透のデザインに興味を持ったのだ。
大賀透は意匠図面を引く一級建築士で、当時三十一歳。意匠とは奏絵の理解では建築デザインのことで、他のどの図面を引く人間よりも自分に近く思えたのだ。
デザイン画に対して透は妥協がなかった。クライアントへおまけで付けるようなものにもかかわらず。その妥協のない姿勢に奏絵は好感を抱いていた。
透は建造物の色だけでなく背景色や空の色にも拘った。奏絵はその意見を聞く度に、透が建造物をメインに絵を思い描いているのだと感じていた。
配色が自分の持つイメージと重なると、何となく嬉しく思ったものだ。勿論、意見が食い違うこともあったが、それは良い作品の為。お互いに色々な意見をぶつけ合うことで、立場や年齢を超え二人の距離は芸術を通し近くなっていった。そうあくまでも芸術を通し、そこに男女としての近さは無かった。
若林家の家族の肖像画を描き始めて、数ヶ月経った頃奏絵は咲良からまるで明日の天気を聞くかのように質問された内容に驚いた。
「何ヶ月?」
「こちらで絵を描き始めてから、もう五ヶ月近く経ちましたね」
「違うわ。奏絵ちゃん、赤ちゃん、いるわよね。わたしだって一児の母なのよ、こう見えても」
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