どうかあなたが

五十嵐

文字の大きさ
75 / 90

73 風通し

しおりを挟む
「ありがとう、大地」
「いつも思うけど、半年そこらで随分描いたんだね」
「そうね。あの頃は学生だったから、時間もバイタリティもあったもの」
「こうして見ると、かおるさんて咲良さんになんとなく似ているとつくづく思うよ」
「厳密に言うと咲良さんの若い頃かしら」
「若い頃?」
「そう、若い頃」

最近続いていた好天に、奏絵は保管してある油絵に風通しをしていた。土曜で会社が休みということもあり、大きめなサイズのものは大地が専用の保存箱から出してくれる。自分の絵をこんなに厳重に保管しているのは、これらが賞を取ったとか卒業制作だったからではない。大切な思い出だからだ。

「この頃の咲良さんは、もうやせ細り始めていて…。家族の肖像を絵で求めた理由はそれだったの。咲良さん、若い頃に撮った写真をわたしに見せて、絵の中の自分は出来るだけ健康そうに描いて欲しいって。写実主義の大家には怒られそうだけど、絵の中の恭ちゃんと秀一さんはありのまま。咲良さんだけ、見えていた姿に過去を重ねて描いたの」
「いいんじゃない、どれも幸せそうに見えるから」
「でしょ。わたし、嘘を描いたつもりはないのよ。だって咲良さん、命の灯火が消えようとしていても、幸せそうだったもの。でも、咲良さんもわたしも、近いうちに必ずやってくる現実を恭ちゃんに説明出来ないのが辛かった。」
「今は?、今は辛くないの?オレの存在のせいでこの家は歪んでる」
「何も歪んではいないわ」

奏絵は手袋越しに絵をなぞり、あの頃のことを脳裏に思い浮かべた。路上でハガキくらいから画用紙サイズ程度の絵を売っていた頃を。たまたま通りかかった咲良に色使いが優しい絵だと声を掛けられたのが若林家の家族の肖像画を描く切欠だった。

美大を卒業したら全員が芸術家になる、残念ながらそんなことはない。
自称であればそうかもしれないが、金を稼ぐとなると話は違ってくる。美大生にとって卒業後の給料をもらえる手堅い職業は教師や、企業の中のデザイン部門といったところだろう。しかし、卒業後そうなれるのはほんの僅か。

当時の奏絵も当然僅かに入ることなく、大多数だった。社会の歯車になるよりは芸術に生きると友人達と夢を語り合い、職を得ることなく卒業年度をむかえていた。

けれども現実問題として、芸術に生きる前に人として生きていなければ絵も描けない。分かっていても、親からの仕送りは生活費よりも高価な画材に消えていく。かと言って、高価な画材を使用して描かれた絵は道端で売ったことろで二束三文。生きて行く為に、奏絵はアルバイトを掛け持ちで行っていた。その一つに、後に奏絵の運命を変えることになる建築事務所があったのだ。

建築事務所では、施工主へ渡す完成予想図を水彩画で描くという仕事と完成模型を作るという二つの業務を行った。建築のことなど何も分からなかった奏絵は、その事務所で建物の図面には意匠・構造・電気設備・機械設備があると教えられた。本音は建築に興味など無かったが、説明を聞くのも仕事と思い耳を適当に傾けた。

最初はそんな程度。ところが、奏絵は徐々に説明をしっかり聞くようになった。何故なら、奏絵が絵を担当する大賀透おおがとおるのデザインに興味を持ったのだ。

大賀透は意匠図面を引く一級建築士で、当時三十一歳。意匠とは奏絵の理解では建築デザインのことで、他のどの図面を引く人間よりも自分に近く思えたのだ。

デザイン画に対して透は妥協がなかった。クライアントへおまけで付けるようなものにもかかわらず。その妥協のない姿勢に奏絵は好感を抱いていた。

透は建造物の色だけでなく背景色や空の色にも拘った。奏絵はその意見を聞く度に、透が建造物をメインに絵を思い描いているのだと感じていた。

配色が自分の持つイメージと重なると、何となく嬉しく思ったものだ。勿論、意見が食い違うこともあったが、それは良い作品の為。お互いに色々な意見をぶつけ合うことで、立場や年齢を超え二人の距離は芸術を通し近くなっていった。そうあくまでも芸術を通し、そこに男女としての近さは無かった。


若林家の家族の肖像画を描き始めて、数ヶ月経った頃奏絵は咲良からまるで明日の天気を聞くかのように質問された内容に驚いた。

「何ヶ月?」
「こちらで絵を描き始めてから、もう五ヶ月近く経ちましたね」
「違うわ。奏絵ちゃん、赤ちゃん、いるわよね。わたしだって一児の母なのよ、こう見えても」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

惑う霧氷の彼方

雪原るい
ファンタジー
――その日、私は大切なものをふたつ失いました。 ある日、少女が目覚めると見知らぬ場所にいた。 山間の小さな集落… …だが、そこは生者と死者の住まう狭間の世界だった。 ――死者は霧と共に現れる… 小さな集落に伝わる伝承に隠された秘密とは? そして、少女が失った大切なものとは一体…? 小さな集落に死者たちの霧が包み込み… 今、悲しみの鎮魂歌が流れる… それは、悲しく淡い願いのこめられた…失われたものを知る物語―― *** 自サイトにも載せています。更新頻度は不定期、ゆっくりのんびりペースです。 ※R-15は一応…残酷な描写などがあるかもなので設定しています。 ⚠作者独自の設定などがある場合もありますので、予めご了承ください。 本作は『闇空の柩シリーズ』2作目となります。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...