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80 不必要の先
七時という恭祐の指定した時刻まで後十分。
支度は全て終わっている。あとは二つの部屋の間にある扉をどのタイミングでノックするのか、かおるが集中すべきはそれだけだ。
扉の鍵は双方共に掛けないことになった。即ち、ノックをすればかおるは直ぐに恭祐のテリトリーに入れる。扉を二枚通り過ぎるのではなく、たった一枚の隔たり。それが、恭祐のものになったかおるの特権のように思えた。
それでも、かおるは分を弁えなければならない。恭祐がかおるのものになったのではないのだから。
あの扉を通って恭祐は何時如何なる時でも、この部屋に入ることが出来る。でも、かおるは指定された時間を待ち、最良のタイミングを窺う立場なのだ。
少しでも早く、仕事から切り離された普段着の恭祐を見たい気持ちをかおるは抑え再び鏡の前で自身のチェックをした。
五分前、これが恭祐が指定した時間に対し妥当だと思っている『少し前』。
かおるはこの『少し前』に合わせる為に、予定していた時刻よりも早めに部屋へ戻って支度を始めた。出張中ということで服は限られたものしかない。けれど、髪型や化粧はそれなりに手を尽くすことが出来るに違いないと思ったからだ。
恭祐の言った気取った服装でなくていいは絶対にかおるが守らなくてはいけないこと。けれど、それ以外は何も指定されていない。少しでも可愛いと思っているように、かおるは努力したのだった。
ーコン、コンー
逸る気持ちを抑え、かおるは遠慮気味にノックし入室拒否の言葉がないのを確認してから扉を開けた。
「ああ、そんな時間か。」
聞こえて来た声は、今までかおるが恭祐から聞いたどれとも違う眠そうなものだった。そして中に入り目にした恭祐も今までのどの姿とも違うものだった。
恭祐は広いベッドの上に無造作に横になっていたのだ。
「お休みでしたら、時間を改めましょうか。」
「いや、いい。起きて出かけたいから、この時間にしたのはオレだ。」
微睡から覚めたてどれくらい経っていたのだろうか。寝起きの恭祐は普段とはまるで違う印象をかおるに与えた。あんなに怖かった恭祐をかおるはつい可愛いと思ってしまったのだ。だから、伸ばされた腕がかおるに向いた時に、まるで誘蛾灯に誘われる蛾のように近づいていってしまった。
寝起きでも成人男性の力はかおるを引っ張り抱き込むことくらい容易い。かおるはそのまま、恭祐に抱きしめられた。折角の髪型が乱れる心配よりも、かおるの心は喜びに占められる。
そして唇が触れた。
腕を伸ばされ、抱きしめられ、唇が合わさる。恭祐の手の内に入り込めば、享受できるこれらの行為。今しがた喜んだばかりだというのに、かおるはそれ以上に自分の心が歪み始めていることに気がついた。何故なら流れるような行為過ぎて、恭祐にとっては女性にこうすることが普通のことだと感じられたからだ。
「食事に行くから、もう口紅は直さなくていい。」
「…はい。」
かおるの唇の上を恭祐の親指が滑り、折角のグロスを落としていく。可愛く見せる為に塗った、艶やかな淡いピングのグロスは簡単に取り払われた。それは恭祐が不要だと思えば簡単に捨て去ることを意味しているように。
かおるが恭祐のものでいられるのは出張中だけのことなのか、その先もあるのかは分からない。仕事の指示が的確な恭祐なのに、一言も期日には触れなかったことがかおるには答えに思える。
手の内にいれるのは、必要と思われている間だけということだ。不要になれば、グロスのように払い除けれられるだけ。考えてみれば単純なこと、恭祐にとってかおるという存在は都合が良い。何があっても、退社という期日が来れば辞めるだけの存在だ。
遅かれ早かれ、捨てられる未来しかない。
恭祐からの口付けは本当に薬物のようだ。繰り返す度に甘く体が痺れる、そしてそれを失うのが怖くなった時にかおるに待っているのは破滅だろうか。
支度は全て終わっている。あとは二つの部屋の間にある扉をどのタイミングでノックするのか、かおるが集中すべきはそれだけだ。
扉の鍵は双方共に掛けないことになった。即ち、ノックをすればかおるは直ぐに恭祐のテリトリーに入れる。扉を二枚通り過ぎるのではなく、たった一枚の隔たり。それが、恭祐のものになったかおるの特権のように思えた。
それでも、かおるは分を弁えなければならない。恭祐がかおるのものになったのではないのだから。
あの扉を通って恭祐は何時如何なる時でも、この部屋に入ることが出来る。でも、かおるは指定された時間を待ち、最良のタイミングを窺う立場なのだ。
少しでも早く、仕事から切り離された普段着の恭祐を見たい気持ちをかおるは抑え再び鏡の前で自身のチェックをした。
五分前、これが恭祐が指定した時間に対し妥当だと思っている『少し前』。
かおるはこの『少し前』に合わせる為に、予定していた時刻よりも早めに部屋へ戻って支度を始めた。出張中ということで服は限られたものしかない。けれど、髪型や化粧はそれなりに手を尽くすことが出来るに違いないと思ったからだ。
恭祐の言った気取った服装でなくていいは絶対にかおるが守らなくてはいけないこと。けれど、それ以外は何も指定されていない。少しでも可愛いと思っているように、かおるは努力したのだった。
ーコン、コンー
逸る気持ちを抑え、かおるは遠慮気味にノックし入室拒否の言葉がないのを確認してから扉を開けた。
「ああ、そんな時間か。」
聞こえて来た声は、今までかおるが恭祐から聞いたどれとも違う眠そうなものだった。そして中に入り目にした恭祐も今までのどの姿とも違うものだった。
恭祐は広いベッドの上に無造作に横になっていたのだ。
「お休みでしたら、時間を改めましょうか。」
「いや、いい。起きて出かけたいから、この時間にしたのはオレだ。」
微睡から覚めたてどれくらい経っていたのだろうか。寝起きの恭祐は普段とはまるで違う印象をかおるに与えた。あんなに怖かった恭祐をかおるはつい可愛いと思ってしまったのだ。だから、伸ばされた腕がかおるに向いた時に、まるで誘蛾灯に誘われる蛾のように近づいていってしまった。
寝起きでも成人男性の力はかおるを引っ張り抱き込むことくらい容易い。かおるはそのまま、恭祐に抱きしめられた。折角の髪型が乱れる心配よりも、かおるの心は喜びに占められる。
そして唇が触れた。
腕を伸ばされ、抱きしめられ、唇が合わさる。恭祐の手の内に入り込めば、享受できるこれらの行為。今しがた喜んだばかりだというのに、かおるはそれ以上に自分の心が歪み始めていることに気がついた。何故なら流れるような行為過ぎて、恭祐にとっては女性にこうすることが普通のことだと感じられたからだ。
「食事に行くから、もう口紅は直さなくていい。」
「…はい。」
かおるの唇の上を恭祐の親指が滑り、折角のグロスを落としていく。可愛く見せる為に塗った、艶やかな淡いピングのグロスは簡単に取り払われた。それは恭祐が不要だと思えば簡単に捨て去ることを意味しているように。
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手の内にいれるのは、必要と思われている間だけということだ。不要になれば、グロスのように払い除けれられるだけ。考えてみれば単純なこと、恭祐にとってかおるという存在は都合が良い。何があっても、退社という期日が来れば辞めるだけの存在だ。
遅かれ早かれ、捨てられる未来しかない。
恭祐からの口付けは本当に薬物のようだ。繰り返す度に甘く体が痺れる、そしてそれを失うのが怖くなった時にかおるに待っているのは破滅だろうか。
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