12 / 81
1章 王都編
12 別れる人、出会う人
しおりを挟む
「あらー、サルグミン嬢。またお会いしましたね」
レイラは目ざとく私を見つけて、勝ち誇ったように言った。さすがに今日のドレスはかぶってないか。
ロベルも気づいて、私に微笑んだ。もはや、罪悪感の欠片もないらしい。
私の隣にいたお兄様が、怒りを滲ませてロベルに問いかけた。
「ショワジー小伯爵。これはどういうことだ? 説明してくれないか?」
「えっ……いえ、ディアには手紙で説明しているんですが……」
ようやくロベルが決まり悪そうな顔を見せた。
そんなロベルとお兄様の間に、レイラは割って入るように体を滑り込ませる。
「ねえ、ロベル様! あちらへ行きましょう」
「ご令嬢、今、僕は小伯爵と話しているところですので、ご遠慮いただきたいのですが」
お兄様の冷たい声にも、レイラは挫けない。
「えー、そんな怖いお顔をしないでいただけますかー。ロベル様、行きましょう!」
レイラは、私にだけ見えるように馬鹿にしたような歪んだ笑みを見せた。ロベルも、お兄様に問い詰められたくはないので、あえて逆らうことなくレイラに手を引かれるまま、さっさと立ち去ってしまう。
「おいっ!」
後を追おうとしたお兄様の腕を、私はそっと引いた。
「お兄様。放っておきましょう」
「でも、ディア……」
「いいんですよ。ロベル様がショワジー伯爵様から、後継者としての資質を試すために商団の一部を任されたって、前に話したでしょ? その商団で、レイラ嬢の実家のクレモ男爵家と大きな取引をするんですって。その条件として出されたのが、彼女の今夜のエスコートだと聞いていましたから」
少し嘘を混ぜた。相手がレイラ嬢だなんて、手紙には書いてなかったけれど。
「なっ、……そんな条件を出されたなんて。だが、そうだとしても、あの態度はなんだ!」
「いえ。私がいいと言っているんだから、いいんですよ。あとでロベル様が一人になったところを見計らって、彼と話してきますから」
そこへ、お兄様を知る人たちが声をかけてきた。
すでにもうだいぶ前からお父様の仕事を手伝っているお兄様には、ここに知り合いも多い。それこそ、王国内の全貴族家が集うこの場は、仕事に有益な情報を得るには格好の機会。お兄様は忙しいのだ。
「お兄様、どうぞお話ししてきてください。私は端のほうで、飲み物でもいただいて、座っていることにします。あの辺りに、知っている令嬢たちも何人かいるようですから」
「うん……じゃあ、僕もみんなに挨拶してくるよ」
「はい。どうぞ楽しんできてください」
お茶会などで顔見知りの令嬢たちを見つけて、その輪の端に混じってしばらく過ごしていたが、視界の隅に不意にロベルとレイラ嬢が映る。湧いてくる不快な気分。これを振り払うには、彼らの姿を見ないに尽きる。
私はホールのテラスから続く、広大な庭園へと足を伸ばした。
庭園のあちこちに置かれたベンチには、ちらほらとホールの喧騒から逃れてきた人たちの姿がある。一人で休む人もいれば、静かに語らい合う恋人たちもいた。
どこまでも念入りに整えられている王宮の庭園は、美しい。一人でそれを眺めるのにいい場所を探して歩いていたら、後ろをついてくる足音に気づいた。
「ディア、探したよ……」
ロベルだ。さすがに少し気まずそうに、頭を掻いた。
「一人なの? レイラ嬢は?」
「彼女は知り合いと話してくるって。……それで、僕も君に謝らないと、って思ってね。君の兄上が怒っているようだったし……」
「そう……」
謝る、と言われてもね……。
しかも、お兄様が怒っているから? 私ではなく?
黙り込んだ私に、ロベルが近づいてきた。そして私に手が伸ばされた時、香水の香りがぷんと漂ってきて、その手に触れられる前に無意識に体を引いた。
これは彼女がつけていた香水の残り香か。
あれだけロベルにべったり引っ付いていたら、彼の服にも移るだろう。だからこそ、その香りがたまらなく不快だ。しかし、たとえ他の誰から香ってきたものであろうと、この香りを私は好まない。
行き場を失って虚空を掴んだ腕を引き、ロベルが言い訳を並べ始める。
「断れなかったんだよ……仕事に関わることだったから。それでも、さすがに最初は断ったんだ。でも、どうしても僕と行きたいって何度も頼まれたから、レイラ嬢が気の毒になってね……。だから」
「私は気の毒じゃないの?」
ロベルは自分の言葉を遮った私に、驚いたような目を向ける。
「えっ……いや……それって、どういう?」
「……わからないんですね」
礼儀に欠けた振る舞いと思いながらも、はあーっ、と少し大げさなため息をついてみた。
「私たち、婚約してから、だいぶ経ちましたよね……」
こんなこと、私から言いたくはないけれど。いくら家同士で決められた婚約とはいっても。
でも、言わないと。いい加減、はっきりさせないといけない時期なんだろう。
だから、必死の思いで口にしてみることにした。
「まだ婚約だけの関係だから、こういうことが起こるんじゃないかと思うんです。まだ、どうにでもなる、曖昧な関係だと思う人もいるから。たとえばレイラ嬢みたいに。だから、この辺りでもう、ちゃんと結婚しませんか? 正式に既婚者となれば、こんなことはなくなると思うんです。結婚しましょう、私たち」
いくら愛から始まった婚約ではないとは言っても、こういうことを私から言いたくはなかった。ロベルからプロポーズされる日を夢見ていたのに。たとえそれが、形式的なものだったとしても。
でも、ロベルから返ってきたのは、待ち望んでいた言葉ではなかった。
「……あのね、僕はまだ、結婚したくないんだ……。まだしばらくは、一人で自由にしていたんだ」
あまりの惨めさに、泣き出してしまいそうだった。あんなに思い切って、言ってみたのに。
言い出した私は、もう後には引けない。
「じゃあ、結婚してくれないなら、別れる、と言ったら? 婚約を破棄したい、と言ったら?」
これに対してロベルは、非情なほどあっけなく答えを出した。
「うーん……ディアがそう言うなら、仕方ないよね。それがディアの意志なら、僕はそれを尊重するよ。……婚約を破棄しよう。僕はまだ、結婚はできないから」
私の中で、辛うじて心をつなぎとめていた何かがぷつんと切れた。ぷっつりと、もう完全に。
思えば、ロベルが自分の口で、私たちの関係について何かをはっきり意思表示したのは、今が初めてだったんじゃないかな。
いつも曖昧に濁されていた気がする……。
「僕はまだ自由でいたいんだ」と繰り返したロベル。
そんなロベルにそれ以上は何も言わず、私は彼に振り返ることもせず、一人でホールに戻った。
出くわした給仕から飲み物をすすめられた私は、トレーに載せられたグラスを適当に掴んだ。それをぐいっと勢いよく飲み干したら、それが果実酒だったことに気づく。てっきり、果実水だと思ったのに。
お酒が飲めないわけじゃないけれど、そんなに強くはない。
しかも頭に血がのぼっている時に一気に飲み干してしまったせいか、酔いも一気にきた気がする。
(あんなに簡単に、婚約破棄しようなんて、言えちゃうんだな……)
それなら結婚しよう、と言ってくれると、どこかで信じて期待していた私。
だから、勝負をかけた。でも結果は、あえなく惨敗。
(笑っちゃうな……)
私だけが、どこか舞い上がっていたんだな。子供の頃に貰った、たった一度の優しさを信じて。
ロベルのあの優しさは、私だけにじゃない、ってわかってたはずなのに。
私、何をしているんだろう……。
酔いを覚ますために、今度は果実水を、と思って給仕から受け取ったグラスを口につけると、明らかにまた、果実酒の香り。
取り換えてもらうのも面倒になって、果実酒の入ったグラスを持ったまま、ふらふらと庭園に向かう。
外で冷たい風にあたれば、酔いも冷めていくだろうし、少しは気も晴れるだろう。
(あの借金の返済を助けたのも、私の独りよがりのお節介だったんだな……)
馬鹿な私。
お父様とお母様には、なんて言おうかな。
婚約破棄した、って言ったら、悲しむよね……。
お兄様はロベルに怒るだろうな……。
グラスを片手に、覚束ない足取りで庭園の奥へと進んだ。
月明かりに照らされた白い大輪のピオニーが目に留まる。導かれるようにそばに置かれたベンチに腰掛けると、手にしたグラスの中身を飲み干した。
(なんだか、眠くなってきたし、目が回る……)
ぐらっ、とベンチに座ったままの体が傾いた時、傍らに置いた空のグラスが地面に落ちた。
カシャンッ!
大きな音がして、地面に散らばったグラスの破片を集めようと、手を伸ばした時。
「危ないですよ」
地面に伸ばした手をそっと掴まれた。
顔を上げると、黒髪の若い貴族の令息が、ふらつく私の体を支えて、ベンチに座り直させてくれた。
「ありがとうございます……」
酔ったせいで、どこかぼやけた私の視界に、彼の碧い瞳が煌めいて見えた。王都の社交界では、見かけたことのない顔だ。
これほど整った顔立ちの令息なら、年頃の令嬢たちの噂にのぼらないはずがないのに。
ロベルの整っているけどどこか腑抜けた顔より、ずっと凛々しくて、かっこいい……。
「酔っているな……」
「えっ? あ……大丈夫です……。これくらいで酔うはずないです……」
「そんなわけないだろう? 誰か呼んでこようか?」
「……いいです、誰かなんて、呼ばなくても。しばらく一人でいたいんですから……」
「おいっ……」
またぐらっと横に倒れそうになった私の背中が、大きな手のひらに支えられた。薄手のドレスの布越しに伝わる温もりに、何だか胸が詰まってきたと思ったら、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「やだ、私……。こんな……」
見知らぬ人の前で、恥ずかしい……。
でも、一度せきを切ってしまった感情を止めるのは、今の私には難しかった。
いつの間にか彼が、私の隣に座っている。私が倒れないように、支えてくれているのだ。
「困ったな……」
「ごめんなさいっ、ご迷惑ですよねぇ……。まったく、私ったらぁ、どうしようもないん、ですよぉ……」
なんだか、思うように口が回らないな……。
そんな自分がおかしくなって、笑いがこみ上げてくる。たまらず、けらけらと声にして笑いだしてしまった。
「まったく、なんでこんなに酔ったんだ?」
隣で彼が、呆れたように苦笑する。
でも、隣に人の温もりがあるせいか、その人が黙って隣にいてくれるだけだからなのか、壁にでも話しかけている気分になってきた。
「なんで、酔ったぁ、か、ですってぇ? 酔ってぇるつもりはぁー、ないん、ですぅけどーねぇ……。まあちょっとぉ、やなことがぁ、あったと言えば……」
ロベルとのことを、思いつくままつらつらと口にした。彼は黙って聞いてくれている。うなずきもせず、反論もせず。やっぱり壁だ。
「……って話、なんですう。わかっていただけましたー?」
「ああ……何があったかは、わかったけど。そんな話、俺に話していいのか?」
「いいも、何も―。あんな奴、もーう、どーでもいいって思ったらぁ、誰かにぶちまけたくなった、だけなんですよー。まー、どーせ私は、一人でも大丈夫、ですからねぇ―。私はー、夫に頼って生きていく人生なんてぇ、まっぴら、ごめん、なんですぅ……そんな人生なんて、お断りしたいです……」
「へぇ……」
彼が、くすっと笑った。それが何だかしゃくに触って、私は彼を、きっと睨んだ。
「あ、馬鹿にしてますー? そんなこと、できるわけないって!」
「してない、してない。……でも、聞いてもいいか?」
私はこくんと首を振った。
「君はどうやって、一人で生きていくつもりなんだ? ご令嬢たちは、よい家門に嫁いで、夫に頼って暮らすことを望むものだろう?」
「……まったくー。みーんな一緒だと、思わないでくださいよぉ……。私はぁ、どんなことになってもぉー、自分で生き残る道を探しますぅ。……あきらめ、ませんっ……。私はあきらめが悪ーい人、なんですよぉ……。だってね……」
急に強い眠気に襲われた私は、ぐらっと自分の体が揺れたのがわかった。
「あ、おいっ! 君っ! ご令嬢っ! ……」
耳元で叫ぶ声が、だんだん遠ざかる。心地いい温もりに包まれて、私は眠りに落ちた。
嫌なこともあった一日だったけれど、今は何だかとても心地いい……。
レイラは目ざとく私を見つけて、勝ち誇ったように言った。さすがに今日のドレスはかぶってないか。
ロベルも気づいて、私に微笑んだ。もはや、罪悪感の欠片もないらしい。
私の隣にいたお兄様が、怒りを滲ませてロベルに問いかけた。
「ショワジー小伯爵。これはどういうことだ? 説明してくれないか?」
「えっ……いえ、ディアには手紙で説明しているんですが……」
ようやくロベルが決まり悪そうな顔を見せた。
そんなロベルとお兄様の間に、レイラは割って入るように体を滑り込ませる。
「ねえ、ロベル様! あちらへ行きましょう」
「ご令嬢、今、僕は小伯爵と話しているところですので、ご遠慮いただきたいのですが」
お兄様の冷たい声にも、レイラは挫けない。
「えー、そんな怖いお顔をしないでいただけますかー。ロベル様、行きましょう!」
レイラは、私にだけ見えるように馬鹿にしたような歪んだ笑みを見せた。ロベルも、お兄様に問い詰められたくはないので、あえて逆らうことなくレイラに手を引かれるまま、さっさと立ち去ってしまう。
「おいっ!」
後を追おうとしたお兄様の腕を、私はそっと引いた。
「お兄様。放っておきましょう」
「でも、ディア……」
「いいんですよ。ロベル様がショワジー伯爵様から、後継者としての資質を試すために商団の一部を任されたって、前に話したでしょ? その商団で、レイラ嬢の実家のクレモ男爵家と大きな取引をするんですって。その条件として出されたのが、彼女の今夜のエスコートだと聞いていましたから」
少し嘘を混ぜた。相手がレイラ嬢だなんて、手紙には書いてなかったけれど。
「なっ、……そんな条件を出されたなんて。だが、そうだとしても、あの態度はなんだ!」
「いえ。私がいいと言っているんだから、いいんですよ。あとでロベル様が一人になったところを見計らって、彼と話してきますから」
そこへ、お兄様を知る人たちが声をかけてきた。
すでにもうだいぶ前からお父様の仕事を手伝っているお兄様には、ここに知り合いも多い。それこそ、王国内の全貴族家が集うこの場は、仕事に有益な情報を得るには格好の機会。お兄様は忙しいのだ。
「お兄様、どうぞお話ししてきてください。私は端のほうで、飲み物でもいただいて、座っていることにします。あの辺りに、知っている令嬢たちも何人かいるようですから」
「うん……じゃあ、僕もみんなに挨拶してくるよ」
「はい。どうぞ楽しんできてください」
お茶会などで顔見知りの令嬢たちを見つけて、その輪の端に混じってしばらく過ごしていたが、視界の隅に不意にロベルとレイラ嬢が映る。湧いてくる不快な気分。これを振り払うには、彼らの姿を見ないに尽きる。
私はホールのテラスから続く、広大な庭園へと足を伸ばした。
庭園のあちこちに置かれたベンチには、ちらほらとホールの喧騒から逃れてきた人たちの姿がある。一人で休む人もいれば、静かに語らい合う恋人たちもいた。
どこまでも念入りに整えられている王宮の庭園は、美しい。一人でそれを眺めるのにいい場所を探して歩いていたら、後ろをついてくる足音に気づいた。
「ディア、探したよ……」
ロベルだ。さすがに少し気まずそうに、頭を掻いた。
「一人なの? レイラ嬢は?」
「彼女は知り合いと話してくるって。……それで、僕も君に謝らないと、って思ってね。君の兄上が怒っているようだったし……」
「そう……」
謝る、と言われてもね……。
しかも、お兄様が怒っているから? 私ではなく?
黙り込んだ私に、ロベルが近づいてきた。そして私に手が伸ばされた時、香水の香りがぷんと漂ってきて、その手に触れられる前に無意識に体を引いた。
これは彼女がつけていた香水の残り香か。
あれだけロベルにべったり引っ付いていたら、彼の服にも移るだろう。だからこそ、その香りがたまらなく不快だ。しかし、たとえ他の誰から香ってきたものであろうと、この香りを私は好まない。
行き場を失って虚空を掴んだ腕を引き、ロベルが言い訳を並べ始める。
「断れなかったんだよ……仕事に関わることだったから。それでも、さすがに最初は断ったんだ。でも、どうしても僕と行きたいって何度も頼まれたから、レイラ嬢が気の毒になってね……。だから」
「私は気の毒じゃないの?」
ロベルは自分の言葉を遮った私に、驚いたような目を向ける。
「えっ……いや……それって、どういう?」
「……わからないんですね」
礼儀に欠けた振る舞いと思いながらも、はあーっ、と少し大げさなため息をついてみた。
「私たち、婚約してから、だいぶ経ちましたよね……」
こんなこと、私から言いたくはないけれど。いくら家同士で決められた婚約とはいっても。
でも、言わないと。いい加減、はっきりさせないといけない時期なんだろう。
だから、必死の思いで口にしてみることにした。
「まだ婚約だけの関係だから、こういうことが起こるんじゃないかと思うんです。まだ、どうにでもなる、曖昧な関係だと思う人もいるから。たとえばレイラ嬢みたいに。だから、この辺りでもう、ちゃんと結婚しませんか? 正式に既婚者となれば、こんなことはなくなると思うんです。結婚しましょう、私たち」
いくら愛から始まった婚約ではないとは言っても、こういうことを私から言いたくはなかった。ロベルからプロポーズされる日を夢見ていたのに。たとえそれが、形式的なものだったとしても。
でも、ロベルから返ってきたのは、待ち望んでいた言葉ではなかった。
「……あのね、僕はまだ、結婚したくないんだ……。まだしばらくは、一人で自由にしていたんだ」
あまりの惨めさに、泣き出してしまいそうだった。あんなに思い切って、言ってみたのに。
言い出した私は、もう後には引けない。
「じゃあ、結婚してくれないなら、別れる、と言ったら? 婚約を破棄したい、と言ったら?」
これに対してロベルは、非情なほどあっけなく答えを出した。
「うーん……ディアがそう言うなら、仕方ないよね。それがディアの意志なら、僕はそれを尊重するよ。……婚約を破棄しよう。僕はまだ、結婚はできないから」
私の中で、辛うじて心をつなぎとめていた何かがぷつんと切れた。ぷっつりと、もう完全に。
思えば、ロベルが自分の口で、私たちの関係について何かをはっきり意思表示したのは、今が初めてだったんじゃないかな。
いつも曖昧に濁されていた気がする……。
「僕はまだ自由でいたいんだ」と繰り返したロベル。
そんなロベルにそれ以上は何も言わず、私は彼に振り返ることもせず、一人でホールに戻った。
出くわした給仕から飲み物をすすめられた私は、トレーに載せられたグラスを適当に掴んだ。それをぐいっと勢いよく飲み干したら、それが果実酒だったことに気づく。てっきり、果実水だと思ったのに。
お酒が飲めないわけじゃないけれど、そんなに強くはない。
しかも頭に血がのぼっている時に一気に飲み干してしまったせいか、酔いも一気にきた気がする。
(あんなに簡単に、婚約破棄しようなんて、言えちゃうんだな……)
それなら結婚しよう、と言ってくれると、どこかで信じて期待していた私。
だから、勝負をかけた。でも結果は、あえなく惨敗。
(笑っちゃうな……)
私だけが、どこか舞い上がっていたんだな。子供の頃に貰った、たった一度の優しさを信じて。
ロベルのあの優しさは、私だけにじゃない、ってわかってたはずなのに。
私、何をしているんだろう……。
酔いを覚ますために、今度は果実水を、と思って給仕から受け取ったグラスを口につけると、明らかにまた、果実酒の香り。
取り換えてもらうのも面倒になって、果実酒の入ったグラスを持ったまま、ふらふらと庭園に向かう。
外で冷たい風にあたれば、酔いも冷めていくだろうし、少しは気も晴れるだろう。
(あの借金の返済を助けたのも、私の独りよがりのお節介だったんだな……)
馬鹿な私。
お父様とお母様には、なんて言おうかな。
婚約破棄した、って言ったら、悲しむよね……。
お兄様はロベルに怒るだろうな……。
グラスを片手に、覚束ない足取りで庭園の奥へと進んだ。
月明かりに照らされた白い大輪のピオニーが目に留まる。導かれるようにそばに置かれたベンチに腰掛けると、手にしたグラスの中身を飲み干した。
(なんだか、眠くなってきたし、目が回る……)
ぐらっ、とベンチに座ったままの体が傾いた時、傍らに置いた空のグラスが地面に落ちた。
カシャンッ!
大きな音がして、地面に散らばったグラスの破片を集めようと、手を伸ばした時。
「危ないですよ」
地面に伸ばした手をそっと掴まれた。
顔を上げると、黒髪の若い貴族の令息が、ふらつく私の体を支えて、ベンチに座り直させてくれた。
「ありがとうございます……」
酔ったせいで、どこかぼやけた私の視界に、彼の碧い瞳が煌めいて見えた。王都の社交界では、見かけたことのない顔だ。
これほど整った顔立ちの令息なら、年頃の令嬢たちの噂にのぼらないはずがないのに。
ロベルの整っているけどどこか腑抜けた顔より、ずっと凛々しくて、かっこいい……。
「酔っているな……」
「えっ? あ……大丈夫です……。これくらいで酔うはずないです……」
「そんなわけないだろう? 誰か呼んでこようか?」
「……いいです、誰かなんて、呼ばなくても。しばらく一人でいたいんですから……」
「おいっ……」
またぐらっと横に倒れそうになった私の背中が、大きな手のひらに支えられた。薄手のドレスの布越しに伝わる温もりに、何だか胸が詰まってきたと思ったら、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「やだ、私……。こんな……」
見知らぬ人の前で、恥ずかしい……。
でも、一度せきを切ってしまった感情を止めるのは、今の私には難しかった。
いつの間にか彼が、私の隣に座っている。私が倒れないように、支えてくれているのだ。
「困ったな……」
「ごめんなさいっ、ご迷惑ですよねぇ……。まったく、私ったらぁ、どうしようもないん、ですよぉ……」
なんだか、思うように口が回らないな……。
そんな自分がおかしくなって、笑いがこみ上げてくる。たまらず、けらけらと声にして笑いだしてしまった。
「まったく、なんでこんなに酔ったんだ?」
隣で彼が、呆れたように苦笑する。
でも、隣に人の温もりがあるせいか、その人が黙って隣にいてくれるだけだからなのか、壁にでも話しかけている気分になってきた。
「なんで、酔ったぁ、か、ですってぇ? 酔ってぇるつもりはぁー、ないん、ですぅけどーねぇ……。まあちょっとぉ、やなことがぁ、あったと言えば……」
ロベルとのことを、思いつくままつらつらと口にした。彼は黙って聞いてくれている。うなずきもせず、反論もせず。やっぱり壁だ。
「……って話、なんですう。わかっていただけましたー?」
「ああ……何があったかは、わかったけど。そんな話、俺に話していいのか?」
「いいも、何も―。あんな奴、もーう、どーでもいいって思ったらぁ、誰かにぶちまけたくなった、だけなんですよー。まー、どーせ私は、一人でも大丈夫、ですからねぇ―。私はー、夫に頼って生きていく人生なんてぇ、まっぴら、ごめん、なんですぅ……そんな人生なんて、お断りしたいです……」
「へぇ……」
彼が、くすっと笑った。それが何だかしゃくに触って、私は彼を、きっと睨んだ。
「あ、馬鹿にしてますー? そんなこと、できるわけないって!」
「してない、してない。……でも、聞いてもいいか?」
私はこくんと首を振った。
「君はどうやって、一人で生きていくつもりなんだ? ご令嬢たちは、よい家門に嫁いで、夫に頼って暮らすことを望むものだろう?」
「……まったくー。みーんな一緒だと、思わないでくださいよぉ……。私はぁ、どんなことになってもぉー、自分で生き残る道を探しますぅ。……あきらめ、ませんっ……。私はあきらめが悪ーい人、なんですよぉ……。だってね……」
急に強い眠気に襲われた私は、ぐらっと自分の体が揺れたのがわかった。
「あ、おいっ! 君っ! ご令嬢っ! ……」
耳元で叫ぶ声が、だんだん遠ざかる。心地いい温もりに包まれて、私は眠りに落ちた。
嫌なこともあった一日だったけれど、今は何だかとても心地いい……。
149
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです
鷹 綾
恋愛
王太子カイル殿下から、社交界の場で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リュシエンヌ。
理由は――
「王太子妃には華が必要だから」。
新たに選ばれたのは、愛らしく無邪気な義妹セシリア。
誰もが思った。
傷ついた令嬢は泣き、縋り、やがて戻るのだと。
けれどリュシエンヌは、ただ一言だけ告げる。
「戻りません」
彼女は怒らない。
争わない。
復讐もしない。
ただ――王家を支えるのをやめただけ。
流通は滞り、商会は様子を見始め、焦った王太子は失点を重ねる。
さらに義妹の軽率な一言が決定打となり、王太子妃候補の座は静かに消えた。
強いざまあとは、叫ぶことではない。
自らの選択で、自らの立場を削らせること。
そして彼女は最後まで戻らない。
支えない。
奪わない。
――選ばれなかったのではない。
彼女が、選ばなかったのだ。
これは、沈黙で勝つ公爵令嬢の物語。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
悪役令嬢は自称親友の令嬢に婚約者を取られ、予定どおり無事に婚約破棄されることに成功しましたが、そのあとのことは考えてませんでした
みゅー
恋愛
婚約者のエーリクと共に招待された舞踏会、公の場に二人で参加するのは初めてだったオルヘルスは、緊張しながらその場へ臨んだ。
会場に入ると前方にいた幼馴染みのアリネアと目が合った。すると、彼女は突然泣き出しそんな彼女にあろうことか婚約者のエーリクが駆け寄る。
そんな二人に注目が集まるなか、エーリクは突然オルヘルスに婚約破棄を言い渡す……。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】伯爵令嬢の責務
ごろごろみかん。
恋愛
見てしまった。聞いてしまった。
婚約者が、王女に愛を囁くところを。
だけど、彼は私との婚約を解消するつもりは無いみたい。
貴族の責務だから政略結婚に甘んじるのですって。
それなら、私は私で貴族令嬢としての責務を果たすまで。
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
侯爵家の婚約者
やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。
7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。
その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。
カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。
家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。
だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。
17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。
そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。
全86話+番外編の予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる