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第一回:常連と店主
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文化四年。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
流石の日本橋も、夜ともなれば、人通りは少なくなる。
昼の喧騒とは裏腹に、その蕎麦屋は、静かに、その場に佇んでいた。
「かけ、頼むよ」暖簾が上がると同時に、注文の声が飛んできた。いつもの客だった。
「はいよ、かけ一丁ね」店主は、客の方を見ることもなく、蕎麦の準備をし始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届く。
出し汁の香りが、客の鼻口をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。
「あいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を差し出した。
客は、箸を取り、蕎麦に七味をかけ、食べ始める。
「こんな寒い夜には、この蕎麦がありがたいねぇ」客が声を漏らした。
ズズズズズっと、客の蕎麦を啜る音が、夜のしじまに響く。
その音に惹かれるように、別の客がやってきた。見ない顔だった。
「おいらにも、一杯頼むわ。えぇと、何があるかな?」
「かけに花巻、しっぽくでさぁね」店主が答える。
「それじゃ、かけを頼むわ」客は注文した。
「はいよ、かけ一丁ね」店主は黙々と蕎麦の準備をする。
二人が帰ってしばらく。客足が途絶えた。
店主はその合間に、洗い物をする。
夜更けではあるが、まだ、たまに足音が店の前を通り過ぎる。
遠くから、夜廻の拍子木が聞こえてくる。
店の外で、荷物を置く音がした。続いて、暖簾が上がる。
「何があるんだい?」職人風の男が尋ねた。
「かけと花巻、しっぽくだね」店主は答える。
「お、花巻があるのか」男は笑顔になった。「そいじゃ、花巻、頼むわ」
「はいよ、花巻一丁ね」
店主は蕎麦を茹で始めた。
茹で上がった蕎麦を椀に開け、出し汁を注ぐ。ちぎった海苔を散らして、刻み葱を乗せた。
「あいよ、花巻一丁」
客は黙って椀を受け取る。箸をとり、花巻を啜る。
「いいねぇ。この香り。いい仕事してるよ」
そう言って、客は、改めて花巻を啜るのだった。
夜がふけていった。今日の商いも終いかな、と店主が思った時。
「やってるかい」と、八丁堀がやってきた。「いつもの、一杯頼むぜ」
「はいよ、かけ一丁ね」店主は淡々と答えた。
「……こうも寒いと、あったけえ蕎麦が欲しくなるよ」八丁堀は店主に話しかけた。
「そいつは、ありがたい話でさぁ」店主は答える。
「お客さんが、あったまってくれりゃ、あたしゃ十分でさぁね」
店主は、茹で上がった蕎麦を椀に開け、出し汁を注ぐ。刻み葱を乗せる。
そうして、店主は、八丁堀にかけ蕎麦の椀を差し出した。
「あいよ、かけ一丁」
八丁堀は椀を受け取ると、七味をかけ、汁を啜る。
「今日の蕎麦もいい塩梅だ」
八丁堀は、黙々と蕎麦を啜った。
風に吹かれて、風鈴がチリリンと鳴った。
夜の日本橋は、静かに暮れゆくのだった。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
流石の日本橋も、夜ともなれば、人通りは少なくなる。
昼の喧騒とは裏腹に、その蕎麦屋は、静かに、その場に佇んでいた。
「かけ、頼むよ」暖簾が上がると同時に、注文の声が飛んできた。いつもの客だった。
「はいよ、かけ一丁ね」店主は、客の方を見ることもなく、蕎麦の準備をし始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届く。
出し汁の香りが、客の鼻口をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。
「あいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を差し出した。
客は、箸を取り、蕎麦に七味をかけ、食べ始める。
「こんな寒い夜には、この蕎麦がありがたいねぇ」客が声を漏らした。
ズズズズズっと、客の蕎麦を啜る音が、夜のしじまに響く。
その音に惹かれるように、別の客がやってきた。見ない顔だった。
「おいらにも、一杯頼むわ。えぇと、何があるかな?」
「かけに花巻、しっぽくでさぁね」店主が答える。
「それじゃ、かけを頼むわ」客は注文した。
「はいよ、かけ一丁ね」店主は黙々と蕎麦の準備をする。
二人が帰ってしばらく。客足が途絶えた。
店主はその合間に、洗い物をする。
夜更けではあるが、まだ、たまに足音が店の前を通り過ぎる。
遠くから、夜廻の拍子木が聞こえてくる。
店の外で、荷物を置く音がした。続いて、暖簾が上がる。
「何があるんだい?」職人風の男が尋ねた。
「かけと花巻、しっぽくだね」店主は答える。
「お、花巻があるのか」男は笑顔になった。「そいじゃ、花巻、頼むわ」
「はいよ、花巻一丁ね」
店主は蕎麦を茹で始めた。
茹で上がった蕎麦を椀に開け、出し汁を注ぐ。ちぎった海苔を散らして、刻み葱を乗せた。
「あいよ、花巻一丁」
客は黙って椀を受け取る。箸をとり、花巻を啜る。
「いいねぇ。この香り。いい仕事してるよ」
そう言って、客は、改めて花巻を啜るのだった。
夜がふけていった。今日の商いも終いかな、と店主が思った時。
「やってるかい」と、八丁堀がやってきた。「いつもの、一杯頼むぜ」
「はいよ、かけ一丁ね」店主は淡々と答えた。
「……こうも寒いと、あったけえ蕎麦が欲しくなるよ」八丁堀は店主に話しかけた。
「そいつは、ありがたい話でさぁ」店主は答える。
「お客さんが、あったまってくれりゃ、あたしゃ十分でさぁね」
店主は、茹で上がった蕎麦を椀に開け、出し汁を注ぐ。刻み葱を乗せる。
そうして、店主は、八丁堀にかけ蕎麦の椀を差し出した。
「あいよ、かけ一丁」
八丁堀は椀を受け取ると、七味をかけ、汁を啜る。
「今日の蕎麦もいい塩梅だ」
八丁堀は、黙々と蕎麦を啜った。
風に吹かれて、風鈴がチリリンと鳴った。
夜の日本橋は、静かに暮れゆくのだった。
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