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第二話 天使の囁きに、負けそう
8. 天使、キレる
しおりを挟む戻ってくるのが遅い、と舞生くんに愚痴られつつ――今は総務のポストへ行っていて不在の中谷さんに、絡まれて鬱陶しかったらしい――自席で仕事をこなす。
時間が経つにつれて、鳴神さんにお金を借りてしまった罪悪感が、ずんと胃の下の方に溜まっていく。
そもそも私が悠人を断れば、借りることもなかった。なぜノーが言えないのだろう……と考えると、キーボードを叩く手も止まりがちになる。
すると、頭上から声を掛けられた。
「どうぞ」
顔を上げると、笑顔の舞生くんが、ホットコーヒーの缶を私のデスクに置いてくれる。
「ブラック、平気です?」
「舞生くん……もらえないよ」
情けない私に、優しくしないで欲しい――と考えていたら、舞生くんが上体を少し屈めて囁いた。
「リッカさん。僕はあなたに憑いた天使ですよ? 無償で施しをする役目です」
「……でも」
「人を守護し、救済してこそなのです。僕の仕事です。受け取っていただけませんか?」
そう言われてしまえば、ノーとは言えない。
「舞生くんの、仕事……」
「そうです。まずは僕に優しくされることに、慣れてください」
舞生くんは、歯を見せて笑う。キラッと光る白い歯が、目に眩しい。
自分に優しくされる資格はないと思っているけれど、天使の仕事と言われれば、受け入れなければとも思う。
「分かった。ブラックで大丈夫、ありがとう。いただくね」
「嬉しいです」
「こんなのが、嬉しいの?」
「はい。だって初めて、天使の仕事したんですよ。嬉しいじゃないですか」
微笑みを漏らしながら、舞生くんが上体を起こす。ドヤ顔に見えるから、おかしい。
「ふふ。そうね」
ところが、そうしてせっかく温かくなった気持ちも、通りかかった万城目課長のたった一言で台無しになる。
「おい、天沢! 俺にもコーヒー」
「えっ」
「グズグズすんな。あーもういい、それ寄越せ!」
それ、の目線の先には未開封の缶コーヒー。
部下にたかるな、と思うけれど、これもまた日常だ。きっとお小遣いが少ないんだろう、と私は自分の気持ちをいつも通り慰める。
仕方がない。譲ればいいだけだ。
立ち上がりかけた私の肩を、舞生くんが手で押し留めた。
「舞生くん?」
「僕の慈悲をあっさりと他人に譲るだなんて。ダメです。許しません」
舞生くんの言葉は、私に底知れない恐怖をもたらした。先ほどまでキラキラしていたというのに、一瞬で凄みに変わったからだ。
肩から手を離さず私から目を逸らさず。舞生くんは、背後で訝しげな表情で立ち止まっている万城目課長に、言葉だけを投げる。
「課長。それ、パワハラですよ」
「あ? 誰だ」
「空門です。やだなあ、部下の名前、忘れないでください」
「そら、かど……」
「人に物を頼むときは、相応の態度が必要ですよね」
「ちょ!」
止めたけれど間に合わなかった。舞生くんの言葉に激昂した万城目課長は、怒声を発する。
「生意気な口をきくなっ!」
「僕が、生意気ですか?」
ぐりんと振り向いた舞生くんの顔は、私からは見えない。
だが、万城目課長の表情がサッと強張ったことからも、相当恐ろしい顔をしているのではないかと察せられた。
「課長が暴言と圧力で部下の飲み物を奪おうとしたので、常識的に注意をしただけですよ?」
「貴様。この俺に口ごたえする気か。評価、下げてやるからな」
「おお。僕にもハラスメントですか……ふむ。リッカさんへのあたりが分散されるなら、それがいいかもな」
「ああ?」
「僕の態度が気に食わないのなら、どうぞご自由に。評価下げるでも。罵倒でも」
横から見上げているだけだけれど、舞生くんの頬肉は上がったままに見える。
つまり微笑みの表情のまま、万城目課長に対峙しているということだ。恐ろしくてたまらない。
「罵倒? 指導だ!」
「なるほど。そうやって自分を理論武装して、自分だけが気持ちよく生きているのか。他責の権化ならそりゃ寿命も長いはずだ。自責思考で勤勉なリッカさんがこんなに追い詰められているというのに。理不尽だなあ人間社会。そりゃあ僕らがいくら努力しようと、無駄だよね」
「舞生くん⁉︎」
みるみる赤くなる万城目課長の顔に、ハラハラする。まさに、茹でダコだ。
「……どうぞ」
私のデスクに置いていた缶コーヒーを、舞生くんはあっという間に万城目課長へ差し出した。
あまりの素早さに、私は全く追いつけない。
「っ!」
「ご命令通りのコーヒーです。まだ何か?」
「ふん! 最初からさっさと寄越せばいいものを」
万城目課長はひったくるようにして缶を受け取り、パーテーションの向こうへどすどすと歩いていく。足音で周囲を威嚇しているのだろう。それもまた、いつものことだ。
私が肩を縮めていると、舞生くんが振り返ってニッコリ微笑んだ。
「さて。熱々の新しいやつ、買って来ますね。カフェオレの方が良いですか?」
逆らうようなことは、もう言えない。
「うんと。そう、ね。甘いのが飲みたい気分かな」
「分かりました」
スタスタと去っていく背中を目で追いかけながら、私は心の中で先ほどの発言を反芻する。
無駄とは、一体どういう意味なのか。
「あいつ。感情的になりすぎだ、天使のくせに」
「鳴神さん……」
そういえば、鳴神さんが静かに見守っていたのが意外だった。
「キレたのはいただけないが、舞生の意見には賛成だな。天沢は、人から優しくされることに慣れが必要だ」
「そう、ですかね」
はたして私なんかに、優しくされる価値があるのだろうか、と考えてしまう。
「単純な話だ。天沢は、他人に優しくしている。なら、優しくされることも受け取ればいい」
「私が、他人に、優しく? そんなことはないですよ」
「それも自覚なしか。これは骨が折れる」
ふう、と鳴神さんが大きな溜息を吐いたところに、舞生くんが戻ってきた。
フロア内の自販機で買った飲み物を、手にいくつか持っている。
「はい、カフェオレどうぞ。鳴神さんは、お茶でいいですか」
「ありがと、舞生くん」
「俺にもか? さんきゅ」
「一応。今は同僚ですからね」
残り一本、オレンジジュースの缶をカシュッと開けた舞生くんが、私と鳴神さんの席の間に立ったまま飲み始めたので、私は戸惑った。
「あれ。中谷さんの分は?」
「あるわけないでしょ」
「そ、か」
手の中にある温かいカフェオレのペットボトルを握りしめた私へ、舞生くんは低い声を放った。
「僕みたいな慈悲深い天使からすらも、見放されたような存在です。彼女がどうなろうと、今後一切、気にしないでいいですよ」
思わず鳴神さんの様子を窺ったら、とてつもなく渋い顔をしている。どうやら舞生くんをキレさせるような何かを、中谷さんはやらかしたらしい。
不安げな私を慮ってか、鳴神さんが口を開く。
「天使はな……背中を勝手に触られるのが絶対にダメなんだ」
「ああ。羽根があるから?」
「そうだ」
「もしかして?」
恐る恐る舞生くんを見上げると、ぎりぎりと奥歯を噛み締めている。
「触られちゃったの?」
私が尋ねると、堰が切れたかのように、舞生くんは訴えた。
「ええ! ええ! やめてくださいって何回も言ったのに! 無遠慮にベタベタと! 本当に、嫌だった!」
「うわあ。それはほんと、大変だったね……」
確かに中谷さんは、気安く人の背中をバシッと叩いたり、二の腕に触ったりする。それだけ距離が近くなるのは、狙っている男性にだけ、と豪語していたけれど。
「あああ、やっぱり許し難い! この穢れが取れるまで、迷子にさせてます」
「ま、迷子っ⁉︎」
「当然の報いです。しばらく路頭に迷えばいいんだ!」
隣の鳴神さんは、困り顔で肩を竦める。
「はあ。どうりで戻ってこないわけだな」
私は思った。
天使だけは、キレさせてはなるまい、と。
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