ホライズン・ブルー

梅野かもめ

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第一章

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 母の病状は日に日に悪くなっていった。「若い分、病気の進行も早い」と先生は言ったが、病状が悪化したというより、母が生きることをあきらめて病魔に体を明け渡してしまったように見えた。
 思い返してみると、母はこの一年床に伏せていることが多かったように思う。薬をよく飲んでいたし、食事の量も減っていた。物を忘れることもしばしばあった。ボーッとすることが多かった。それらはきっと母の体からのSOSだったのに、私はなに一つ気付くことができなかった。
 もし気付くことができていたら、母の病気は治ったのだろうか。たとえ完治しなくとも、病気と闘いながらでも、余命ではなく、寿命としての死を迎えられたのではないだろうか。そう思ったが、毎日少しずつ弱っていく母の姿がその考えを打ち消した。

 母への病気の告知は早い時期にされた。父も私も折り合いを見て話そうという気持ちではあったが、倒れた翌々日、意識を取り戻した母がどこを見るでもない目で、もしこれが大きな病気であるならば教えてほしいと言ったのだ。
「まだ検査結果も出ないうちから、なにを言っているんだ」
 父が固い笑顔でいい、きっと同じ様な顔で私も「そうだよ」と続けた。
「自分の体だもの。これが小さな病気じゃないことくらい、わかるわ」
 母は個室の日に焼けたレースのカーテンをすっとひいて窓の外を見た。父も私もその視線の先を追う。皮肉なほど晴れ渡った空は、遠くの方に数片の雲を残すだけでどこまでも青かった。
「沖縄に行きたいな」
 母は空を見たまま、そうつぶやいた。まるで最後の願いみたいな言い方に、私は泣きそうになった。父はやけに明るく「行こう、行こう」と言ったが、母はそれには答えず、目を閉じたかと思うとそのまま眠ってしまった。数日のうちにすっかり生気を失ってしまった母は、私の知らない人に見えた。

 5月のゴールデンウィークに、私たち家族は母の実家がある沖縄へ行った。太陽は西に傾き、サトウキビ畑は黄金色に光りながら風にゆられている。その上からスプリンクラーの水しぶきがまるで宝石のようにキラキラと輝きながら降っていた。息を飲むほど美しい光景だった。沖縄の美しさが海以外にもあるのだと知った瞬間だった。
 そのサトウキビ畑の間に走る一本道を真っ直ぐ進んだ先に母の実家がある。母の実家には記憶にないくらい小さいときに1回と、小学生の低学年のときに1回行ったきりで、実際、祖父母の顔を私はほとんど覚えていなかった。ただ二人とも私の顔を見て、礼子(というのが母の名前だ)の小さいころにそっくりだと繰り返し言ったのだけは覚えている。母は沖縄人らしい目鼻立ちのはっきりした顔をしている。女の子はよく父親に似るというが、私は自分でも思うほど母に似た。とくに目元なんかはそのままコピーしてくっつけたんじゃないかと思うほどそっくりだった。
 私たちの到着を祖父母は道の外に出て待っていた。出発前に手配しておいたレンタカー、それに乗る私たちの姿を見ると祖父母はぶんぶんと腕を振りながら笑顔向けていたが、母の顔を見た二人はその笑顔をこわばらせた。頬は痩せこけ、目の下には幾重にもしわが刻まれてくまができている。それでも「よく来たね」と二人はもう一度笑顔をつくり直し、荷物やお土産を運ぶのを手伝ってくれた。私には言わなかったが、父は祖父母に母の病気のことを話したのだろうと思った。
 その夜の食卓は奇妙なほどに明るかった。祖父と父はよく酒を飲み、母と祖母は昔話をした。私はみんなの話を聞きながら、テーブルの上の料理を口に運び続けた。ゴーヤチャンプルー、魚の揚げたもの、ジーマミー豆腐、ソーキそば、酒はもちろん泡盛だった。
 みんなが楽しそうにしていた。この世に不幸などまるでないような笑顔がそこにはあった。私はそのことに心底驚く。大人は知らないフリをすること、気付かないフリをすることが上手なのだと知った。

 その夜、私は夢を見た。学校のグラウンドを走っている夢。トラックには私しかいなくて、部活のみんなは校庭のどこにもいなかった。けれどすぐ後ろに誰かの足音が聞こえる。私と同じペース。砂利を蹴る二重奏。なのに呼吸の音は私の独奏。
 ジャジャ、ジャジャ、ジャジャ、ジャジャ。
 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。
 振り返るのが恐ろしい。私のすぐ後ろにいる人間は誰なのか。
 夏の暑い日差しが照り付けて肌が熱い。喉が渇いた。額から汗がいくつも流れて目に沁みる。足がもつれて何度も転びそうになった。それでも止まることは許されなかった。止まったら捕まる。捕まれば殺される。
 私はただ何週も何週も校庭のトラックを走り続けていた。

 目を覚ましたとき、私はびっしょりと汗をかいていた。それは沖縄の暑さのせいではない。時計に目をやると6時ちょうどで、家の中は静かだった。私は持ってきたボストンバッグから靴下とランニングシューズを取り出して玄関へ向かった。
 陸上は1日休むと取り戻すのに2日かかる。2日休めば3日かかる。いつか顧問の先生が言った言葉を私は律儀に守っていた。だから沖縄に行くことが決まったときもシューズだけは忘れずに持っていこうと決めていた。6月には陸上の選考会があるのだ。ここで休むわけにはいかない。
 地理がわからないので、来るときに車で走ったサトウキビ畑の間の道を往路とし、それと平行してある海沿いの道を復路にした。十キロ弱の道のり。ゆっくり走っても、ちょっと寄り道したとしても1時間あれば戻ってこられる。そのころにはみんな起きだしてきっと朝食ができているはずだ。完璧なコースだった。
 昨日は気付かなかったが、サトウキビは以外と背があった。私と並んでも大差ない。サトウキビしか見えない一本道を私は真っ直ぐ走った。緑と土の甘い匂いが体の中へ入り込む。風はまだひんやりとしていて私の肌の上をさらさらと流れた。気持ちが高揚していく。それにつられペースが速くなる。サトウキビ畑の終わりが見えたとき私はラストスパートと言わんばかりに足を速めた。五十メートル走を走っているような速さで走る。体が軽い。このままどこまでも走れそうな気がした。
 ゴール。腕時計についたストップウォッチを止める。トラックを走ったわけではないので今の道のりがどのくらいあったのかは分からない。だいたい5キロくらいと思っていたが、それにしてはタイムがいい。私はそれを忘れないように頭の中で記録し、明日も同じコースを走ろうと決めた。
 復路である海沿いの道は半分を過ぎたあたりから砂浜に続くようにして道がなくなってしまい、私は諦めてそこから浜辺を歩くことにした。ストップウォッチを止める。今回は道のりがまったく予想できなかったのでタイムの良し悪しはわからないが、自分で思うには悪くないペースだったと思う。東京に帰って早くトラックを走りたいと思った。
 外はだいぶ明るくなっていた。波の音が静かにこだまする。
 私は足を止めた。シューズと靴下を脱ぎ、それを持って水際までいく。
 朝日を浴びて輝く水面。海水は冷たく、火照った足に気持ちが良かった。白い砂浜、透明な海。ゆっくりと削られていく足もとの砂に自分が埋もれてくすぐったい。
 珊瑚だろうか、三十センチくらいの塊が砂浜にちらほらと落ちている。そっと手を触れてみた。冷たく、ゴツゴツとしている。ところどころについている苔もいやな感じはしなかった。きれいな緑色、新緑の桜の葉のようにみずみずしい緑の苔はふさふさと柔らかい。
 私はもう一度海を眺めた。きっとこの海の奥深くにはさらに美しい世界があるのだろう。「お母さんはいいところで生まれた」と思った。
 母の、近く訪れるであろう死を、私は受け止めなければならない。想像すらつかないそれをどう受け止めるかは、そのときになってみなければもちろんわからないけれど、否定せず、きちんと向き合う。私はそう心に決めた。最後まで一緒にいようと。海はその覚悟を私に与え、そして背中を押すようにいつまでも鳴り響いていた。
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