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第一章
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母のそう遠くない死を受け入れよう。
そう覚悟を決めた朝に、母は死んでしまった。
家に帰るとまず父の平手が飛んできて「どこに行っていたんだ」と怒鳴られた。祖母が父をなだめてから、よかった、よかったと繰り返し、私を抱きしめた。なにが起きているのかわからず呆然と立ち尽くしていると、父は低くうなるような声で
「お母さんがいなくなった」
と言った。
「彩と一緒かと思ったんだが、違うんだな」
私は心細く「うん」とうなずいた。
それから警察に連絡をして、沖縄の親戚が集まって母の捜索が始まった。私は祖母と一緒に家で留守番をしていた。一秒が異様に長く感じる。祖母は祈るように両手をきつく握っていた。
母が見つかったのは昼の少し前のことで、あのどこまでも美しい青い海の中で死んでいた。そのまま病院に運ばれたが見つかったときにはすでに呼吸も心臓も停止した状態だったので心肺蘇生は行われなかったらしい。
幸い発見が早かったので傷や腐敗はほとんどなかったが、水を吸い込んでふやけた肌は真っ白でぼよぼよとしていた。それは人の皮膚とは色も感触も違っていて、私はそんな母を「気持ち悪い」と感じた。ただ単に濡れた母が白い台の上で寝ているように見えるのに、私の中ではもう母ではなく、「死体」だった。
そのまま通夜と告別式が沖縄で行われた。遺書はなく、死因も溺死だったが、自殺だったのはみんなわかっていた。
予想だにしなかった突然の死。誰もが言葉を失い、うつむき、泣いていたのに、私は泣くことができなかった。
なんで、どうして。
なんで、どうして。
なんで、どうして。
頭の中にあったのはそれだけ。
葬儀が終わった夜、父と祖父が言い合っている声を聞いたが、何を言っているのかまでは聞き取れず、朝になって祖母が人知れず涙を流しているのを見た私は、もうここには居たくないと思った。早く東京に帰りたいと思った。
しかし、東京に帰ってきても、そこは私の心休まる場所ではなかった。家にはまだ至るところに母の空気が残されていて、それに触れるたびに私は、そしておそらく父も、打ちのめされていた。箸や茶碗、歯ブラシ、化粧品類、服や靴。それらを目にするだけで心が大きくゆさぶられた。母はここにいる。それが錯覚ではなく現実に思えるくらいに。しかし家のどこを探しても母はいない。
夜、物音にふと目が覚めた。ベッドを抜け出し、そっとドアを開けて廊下を確認する。けれどそこには誰もいなかった。こぼれるように出てしまった「お母さん?」と問う声が、自分の中に反響した。空っぽの体の中を跳ね返りながら目の奥の方に到達したとき、私の目から涙がこぼれた。
母は死んだのだ。
そのことをやっと理解する。もう二度と会えない。もう二度と話せない。触れられない。手料理も食べられない。歌声も聞けない。怒る顔も笑う顔ももう見ることができない。
ああ。ああ。ああ。
なんて、悲しい。
なんて、寂しい。
なんて、苦しい。
せめて、あと1日生きていてくれたなら。せめて、私がランニングから帰ってくるのを待っていてくれたなら、何かが変わっていたかもしれない。
私は笑うつもりだったんだ。最期のときまで、笑ってそばにいようって決めていたんだ。なのに、なぜ、あきらめてしまったの。お母さん。お母さんにとって病気は、それほど恐ろしいことだったの? 私とお父さんを置いていくなんて。お母さんは、どうして最期まで私たちを必要としてくれなかったの。ねえ、なんでよ、どうしてよ、教えてよ、お母さん。
私は自分の中の母にそう語り続けた。気を失うように眠るまで、ずっと、ずっと。
そう覚悟を決めた朝に、母は死んでしまった。
家に帰るとまず父の平手が飛んできて「どこに行っていたんだ」と怒鳴られた。祖母が父をなだめてから、よかった、よかったと繰り返し、私を抱きしめた。なにが起きているのかわからず呆然と立ち尽くしていると、父は低くうなるような声で
「お母さんがいなくなった」
と言った。
「彩と一緒かと思ったんだが、違うんだな」
私は心細く「うん」とうなずいた。
それから警察に連絡をして、沖縄の親戚が集まって母の捜索が始まった。私は祖母と一緒に家で留守番をしていた。一秒が異様に長く感じる。祖母は祈るように両手をきつく握っていた。
母が見つかったのは昼の少し前のことで、あのどこまでも美しい青い海の中で死んでいた。そのまま病院に運ばれたが見つかったときにはすでに呼吸も心臓も停止した状態だったので心肺蘇生は行われなかったらしい。
幸い発見が早かったので傷や腐敗はほとんどなかったが、水を吸い込んでふやけた肌は真っ白でぼよぼよとしていた。それは人の皮膚とは色も感触も違っていて、私はそんな母を「気持ち悪い」と感じた。ただ単に濡れた母が白い台の上で寝ているように見えるのに、私の中ではもう母ではなく、「死体」だった。
そのまま通夜と告別式が沖縄で行われた。遺書はなく、死因も溺死だったが、自殺だったのはみんなわかっていた。
予想だにしなかった突然の死。誰もが言葉を失い、うつむき、泣いていたのに、私は泣くことができなかった。
なんで、どうして。
なんで、どうして。
なんで、どうして。
頭の中にあったのはそれだけ。
葬儀が終わった夜、父と祖父が言い合っている声を聞いたが、何を言っているのかまでは聞き取れず、朝になって祖母が人知れず涙を流しているのを見た私は、もうここには居たくないと思った。早く東京に帰りたいと思った。
しかし、東京に帰ってきても、そこは私の心休まる場所ではなかった。家にはまだ至るところに母の空気が残されていて、それに触れるたびに私は、そしておそらく父も、打ちのめされていた。箸や茶碗、歯ブラシ、化粧品類、服や靴。それらを目にするだけで心が大きくゆさぶられた。母はここにいる。それが錯覚ではなく現実に思えるくらいに。しかし家のどこを探しても母はいない。
夜、物音にふと目が覚めた。ベッドを抜け出し、そっとドアを開けて廊下を確認する。けれどそこには誰もいなかった。こぼれるように出てしまった「お母さん?」と問う声が、自分の中に反響した。空っぽの体の中を跳ね返りながら目の奥の方に到達したとき、私の目から涙がこぼれた。
母は死んだのだ。
そのことをやっと理解する。もう二度と会えない。もう二度と話せない。触れられない。手料理も食べられない。歌声も聞けない。怒る顔も笑う顔ももう見ることができない。
ああ。ああ。ああ。
なんて、悲しい。
なんて、寂しい。
なんて、苦しい。
せめて、あと1日生きていてくれたなら。せめて、私がランニングから帰ってくるのを待っていてくれたなら、何かが変わっていたかもしれない。
私は笑うつもりだったんだ。最期のときまで、笑ってそばにいようって決めていたんだ。なのに、なぜ、あきらめてしまったの。お母さん。お母さんにとって病気は、それほど恐ろしいことだったの? 私とお父さんを置いていくなんて。お母さんは、どうして最期まで私たちを必要としてくれなかったの。ねえ、なんでよ、どうしてよ、教えてよ、お母さん。
私は自分の中の母にそう語り続けた。気を失うように眠るまで、ずっと、ずっと。
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