ホライズン・ブルー

梅野かもめ

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第二章

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 描けない理由がわからなかった。いや、いくつか思い当たるものはあったが認めてしまうには情けないものばかりだった。
「ちゃんと描くのって、考えてみれば『残波』以来なんだよね。部活では先生がテーマを与えてくれるから描けたんだけど、自由にしていいよ、って言われた途端、何も浮かばなくて」
「プレッシャーかな。『残波』があれだけ評価されてしまったら、次の作品に対するプレッシャーはあっても当然だと思うよ」
「やっぱりそうなのかな。そんなにナイーブだっけ、私」
 高岡さんは私のその言葉に声をあげて笑ってから、「そりゃあ16歳の女の子だからね」と言ってまた笑った。あんまり長く笑うので、私はだんだんと腹が立ってきて、テーブルの下で高岡さんの足を蹴った。
「あいたた」
「私、結構真剣に悩んでいるんですけど。これから先、ずっと描けなかったらどうするの?」
「お、ちょっと本気で描いてみる気になった?」
 高岡さんは目尻に浮かんだ涙を拭いてから、やっと真面目に聞く気になったのか、仕切り直しのようにアイスコーヒーを飲んだ。
「本気っていうか……。今の私には絵を描くことしかないから、それができなくなるのは困る。高校生活だってあと半分残ってるし」
「卒業後は? もう描いたりしないの?」
「それは、わからない」
「どうして?」
「自分がどこまで描けるのか試してみたい気もするけど、私まだ絵を描き始めて一年だし、技法や表現や歴史なんかちっとも知らないし」
「これから覚えればいいじゃない。それに、絵を描く上で大切なのはそんなことじゃないよ。わかっていると思うけど」
 全部言い訳だと思った。プレッシャーはある。技法や表現がと言ったのは、そんな自分を守るための言い訳で、私はただ怖かったのだ。人に認められたくて描いたわけではない絵が評価されてしまったことも、それを超えるものを期待されていることも、それに答えようとしている自分の傲慢さと浅はかさすら、私は怖かった。

 家の前まで車で送ってもらい、家に電気がついていないことを確認してから私はシートベルトをはずした。水曜日と金曜日は父の帰りが遅いので、時間が合えばこうして高岡さんと食事をすることができる。
 じゃあね、と言ってからキスをするのはいつから当たり前になったのだろう。もっと一緒にいたい気持ちを飲み込むみたいなキス。また会うまでのお別れの儀式みたいだ。
 唇が離れると、高岡さんは「大丈夫だよ」と言った。
「彩の思うように描いてごらん。いい物を描こうとする必要はないんだから」
「うん」
「自由に、のびのびと、歌うように」
「歌うように?」
「お風呂で歌わない? 鼻歌とか。あんな感じで描けるといいなと思って、今度は」
「今度?」
「……『残波』は、少し、苦しそうだったから」
 そう言った高岡さんの表情がなんだか苦しそうに見えて、私はわざと明るく「ありがとう」と言った。高岡さんの顔からも安堵がうかがえる。
「おれはテオドルスになってもいいと思っているんだ」
「誰?」
「テオドルス・ファン・ゴッホ。あの有名なゴッホを生涯にわたって精神的に、経済的に支えた続けた弟だよ」
 ゴッホの絵は彼が生きている間に1枚しか売れなかったと、いつだったか中野先生から聞いたことがあった。
「そうだね。いつも支えてもらってるし、今日はカルボナーラをごちそうになった」
 高岡さんは満足そうに笑う。
「でも、高岡さんが私の弟になったらもうキスはできないね」
「はは。じゃあ、やっぱりやめよう」
「うん。そうして」
 私は高岡さんをテオドルスにするつもりもなかったし、自分がゴッホになるつもりもない。そもそも画家になるつもりも今のところない。今はただ、そう、好きなように絵が描ければ十分。
 私は高岡さんの車が見えなくなるまで見送った。高岡さんはいつも私の話を聞いてくれる。しっかり私を見ていてくれる。必要な言葉を、必要なときに、必要な分だけくれる。きっとこんな人ほかにいない。仕事があるから毎日は会えないけれど、私は幸せ者だ。きっと、とても、幸せ者だ。
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