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第二章
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7月も3週目に入り、夏休みが始まった。夏休みの予定といえば高岡さんと海へ行くこと意外に予定はなく、これが高校二年生の夏休みでいいのかと思うほど、私のスケジュール帳は真っ白だった。
本来ならばあるはずの部活も今年は一切なく、それも白紙の夏休みをつくる原因のひとつだった。美大時代の恩師が本を出すとかで、中野先生はその取材のお供として1カ月間ヨーロッパを回るらしい。学生時代、何度も欧州を旅した先生は、通訳としても重宝されるのだそうだ。そのため、夏休み中の部活はすべて休みとなり、文化祭兼市の展覧会に出展するための作品の締め切りが前倒しになったのだ。私に残された時間は2週間ない。
他の部員が次々と作品を上げていく中、私はただひたすらデッサンをしていた。
「今年は描かないの?」
と、すでに2つも作品を上げている矢井田さんが不思議そうに言う。
「描くつもりだけど、なかなか調子が出なくて」
「題材は決まっているんでしょ」
「うん、まあね」
つく必要のない嘘をついた。キャンバスは白いまま、毎日毎日スケッチブックにデッサンばかりしている私を、ほかの部員たちが失望の目で見ているのは知っていた。『残波』はまぐれ。そう言われているのも知っている。彼らの期待に応えるために描いているわけじゃないし、実際にまぐれだったのだと思う。ただ、勝手な期待が突き刺さるのが痛かった。
先生もヨーロッパでの仕事の準備が忙しいらしく、最近はあまり美術室に顔を見せない。私に声をかけてくれるのは矢井田さんくらいだが、その矢井田さんは調子がいいせいか(いや彼女はもともとこういう性格だ)、あっけらかんとした口調で私の不調を慰める。
「『残波』のときだって下書きもなしにいきなり描いていたんだから、とりあえず筆持っちゃえばいいじゃない。案外すらすらーっていくかもよ」
もう二十回くらい試した、という言葉は飲み込んだ。
「下書きはしてたよ、一応」
「そうだったっけ」
「矢井田さんは最近調子いいね」
「まあね」
「恋が順調だから?」
あの文化祭のあと、矢井田さんは好きだった沢田くんに告白をし付き合うことになった。付き合ってしばらくは幸せそうな顔をして部活に来ていたし、休み時間に廊下で話す二人の姿をよく目にした。もちろん、校門を出たあとに二人が右へ曲がる姿も何度か見かけた。あのカップルロードを、二人は手をつないで歩いたかもしれない。
「沢田くんとなら、春休みに入る前に別れたよ」
「えっ!?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ!」
無意識のうちに声が大きくなってしまった。ついこの間まであんなに仲が良さそうだったのに、幸せそうな顔で部活に来ていたのに、いつの間に別れたというのだろう。
「なんか部活が忙しくてあまり会えないし、付き合ってみたら以外と合わないなあと思って」
矢井田さんは怒るでも悲しむでもなく、けろっとした様子でそう言った。昨日の晩御飯は唐揚げだったよ、とでも言うような感じで。彼女の中では、もう終わってしまった過去のことらしい。
「落ち込んだりしてないの?」
「別れてしばらくは落ち込むっていうか、モヤモヤしていたかな。ずっと好きだったし、付き合えたときは夢見たいに幸せだったもん。思い出してつらくなることもあるけれど、ずっとふさぎこんでいるのもばかみたいじゃん。これが最初で最後の恋ってわけでもないし」
そう言って笑う矢井田さんはどこか大人びて見えた。ひとつの恋にちゃんと終止符を打って、切り替えて、次へ進むたくましさと潔さを彼女は持っているのだ。
「なんか、すごいね」
「なにが?」
「強いね、矢井田さん」
「そうかな」
「うん、そうだよ。尊敬する」
「それは言いすぎ」
「私も頑張らなきゃ」
私はスケッチブックを閉じた。デッサンなどやっている場合ではない。私も次へ進むたくましさと潔さを持たなければ。
そう意気込んだ矢先に、矢井田さんは「でもね」とすべてをひっくり返すような一言を言い放った。
「幸せじゃないとき、何かがうまくいっていなときの方が、絵は描けるのかも」
本来ならばあるはずの部活も今年は一切なく、それも白紙の夏休みをつくる原因のひとつだった。美大時代の恩師が本を出すとかで、中野先生はその取材のお供として1カ月間ヨーロッパを回るらしい。学生時代、何度も欧州を旅した先生は、通訳としても重宝されるのだそうだ。そのため、夏休み中の部活はすべて休みとなり、文化祭兼市の展覧会に出展するための作品の締め切りが前倒しになったのだ。私に残された時間は2週間ない。
他の部員が次々と作品を上げていく中、私はただひたすらデッサンをしていた。
「今年は描かないの?」
と、すでに2つも作品を上げている矢井田さんが不思議そうに言う。
「描くつもりだけど、なかなか調子が出なくて」
「題材は決まっているんでしょ」
「うん、まあね」
つく必要のない嘘をついた。キャンバスは白いまま、毎日毎日スケッチブックにデッサンばかりしている私を、ほかの部員たちが失望の目で見ているのは知っていた。『残波』はまぐれ。そう言われているのも知っている。彼らの期待に応えるために描いているわけじゃないし、実際にまぐれだったのだと思う。ただ、勝手な期待が突き刺さるのが痛かった。
先生もヨーロッパでの仕事の準備が忙しいらしく、最近はあまり美術室に顔を見せない。私に声をかけてくれるのは矢井田さんくらいだが、その矢井田さんは調子がいいせいか(いや彼女はもともとこういう性格だ)、あっけらかんとした口調で私の不調を慰める。
「『残波』のときだって下書きもなしにいきなり描いていたんだから、とりあえず筆持っちゃえばいいじゃない。案外すらすらーっていくかもよ」
もう二十回くらい試した、という言葉は飲み込んだ。
「下書きはしてたよ、一応」
「そうだったっけ」
「矢井田さんは最近調子いいね」
「まあね」
「恋が順調だから?」
あの文化祭のあと、矢井田さんは好きだった沢田くんに告白をし付き合うことになった。付き合ってしばらくは幸せそうな顔をして部活に来ていたし、休み時間に廊下で話す二人の姿をよく目にした。もちろん、校門を出たあとに二人が右へ曲がる姿も何度か見かけた。あのカップルロードを、二人は手をつないで歩いたかもしれない。
「沢田くんとなら、春休みに入る前に別れたよ」
「えっ!?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ!」
無意識のうちに声が大きくなってしまった。ついこの間まであんなに仲が良さそうだったのに、幸せそうな顔で部活に来ていたのに、いつの間に別れたというのだろう。
「なんか部活が忙しくてあまり会えないし、付き合ってみたら以外と合わないなあと思って」
矢井田さんは怒るでも悲しむでもなく、けろっとした様子でそう言った。昨日の晩御飯は唐揚げだったよ、とでも言うような感じで。彼女の中では、もう終わってしまった過去のことらしい。
「落ち込んだりしてないの?」
「別れてしばらくは落ち込むっていうか、モヤモヤしていたかな。ずっと好きだったし、付き合えたときは夢見たいに幸せだったもん。思い出してつらくなることもあるけれど、ずっとふさぎこんでいるのもばかみたいじゃん。これが最初で最後の恋ってわけでもないし」
そう言って笑う矢井田さんはどこか大人びて見えた。ひとつの恋にちゃんと終止符を打って、切り替えて、次へ進むたくましさと潔さを彼女は持っているのだ。
「なんか、すごいね」
「なにが?」
「強いね、矢井田さん」
「そうかな」
「うん、そうだよ。尊敬する」
「それは言いすぎ」
「私も頑張らなきゃ」
私はスケッチブックを閉じた。デッサンなどやっている場合ではない。私も次へ進むたくましさと潔さを持たなければ。
そう意気込んだ矢先に、矢井田さんは「でもね」とすべてをひっくり返すような一言を言い放った。
「幸せじゃないとき、何かがうまくいっていなときの方が、絵は描けるのかも」
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