ホライズン・ブルー

梅野かもめ

文字の大きさ
上 下
15 / 18
第二章

しおりを挟む
「実は少しだけ、中野先生から藤崎さんの話を聞いていたんだ」
 美術館の隣にあるオープンカフェでコーヒーを飲みながら高岡さんは言った。
「面白い子がいる。ああいうのを原石って言うのかもしれないって」
「原石……私がですか?」
 高岡さんは静かに笑いながらうなずく。
「ただ、俺が磨いても、本人が磨いても輝くかは分からない原石だって言ってた。じゃあ、どうしたら輝くんですか? って聞いたら……」
「聞いたら?」
「なりゆきだって」
「……先生はもう少し言葉を選ぶべきです」
 私は唇をカップにあてたまま小さく毒づいた。それから一口、ミルクをたっぷり落としたコーヒーを口に含む。
「この間の文化祭は、本当は藤崎さんの絵を見に行ったんだ。どんなもんだろうと思って。それなのに、しらばっくれちゃうんだもんなあ」
 文化祭のとき、『残波』を見て「沖縄だね」と言った高岡さんに、私は「そうなんですか?」と知らないふりをした。
「すみませんでした。知らないふりも、そのほかのことも」
「褒められるの、いやだった?」
 コーヒーというよりはカフェオレのようなカップの中身を見つめたまま、私は心の中で高岡さんの質問を反復する。
「純粋に嬉しいと思いました。でも、」
「でも?」
「だんだん恨めしくなって」
「恨めしく」
「はい、恨めしく」
 恨めしく思う理由を高岡さんは聞かなかったし、私も言わなかった。うまく伝える自信がなかったし、理解してほしいわけでもない。ただ、『残波』を見るたびに、人からほめられるたびに、切り裂きたくなる凶暴な感情が私にはあった。
「さっき、俺も母親がいないって言ったでしょう。実は母親だけじゃなくて、父親もいないんだ。俺がまだ小さい頃に二人も消えてしまって、生きているのか、死んでいるのかもわからない」
 私は驚いて高岡さんの顔を見上げた。この人はいつも優しく、静かに、そして少し寂しそうに笑う。
「物心つく頃には、俺は子どものいなかった伯父夫婦のもとで養子として育てられていた。伯父も伯母も優しくて本当の子どものように育ててくれたけど、でもどこかでずっと線引きをしてた。本物じゃないって。自分の本当の親がどういう人間なのか、この年になればいろいろ耳に入ってきて、それは想像通り褒められた人たちではなかったけど、それでもなぜかずっと求めているんだ。足りないピースみたいに。藤崎さんも、ピースをひとつ亡くしてしまったって中野先生に聞いたんだ。あの海でなんだね」
「……はい、そうです」
「同じ、と思って先生は俺に話したわけじゃないと思う。でも、苦しそうだから呼吸させてやってくれって」
「そう言われたんですか」
「うん」
 キーコ、キーコとオブジェが鳴っていた。強い南風は私の髪も乱暴にする。その髪を手ぐしでまとめながら、先生はきっと高岡さんだから私の話をしたんだろうと思った。この人には、なぜかすべてを話してしまいたくなる。
 高岡さんはポケットから煙草を取り出して火をつけた。火葬場の煙突から立ち上っていた煙を見て、あれは母の体のどこの部分なんだろうと考えていたことを思い出す。
「高岡さん」
「ん?」
「苦しいです。苦しいんです。息が、上手にできなくて、今までどうやって息をしていたのか思い出せなくて、どうやって笑っていたのかも、どうやって友達と会話していたのかも、どうやってひとりの時間を過ごしていたのかも、なにもかもわからない。どうして……どうしてお母さんは生きることから逃げ出してしまったのか。どうしてお父さんは、現実から目を、そらして、生きているのか。私はどっちもできないのに、できないから、真正面だけむいて生きていかなきゃいけないんでしょうか。私だってつらいし、逃げたいし、死んでしまいたいくらいなのに、どうして私はそれを選べないの」
 それ以上は嗚咽がひどくて言葉にできなかった。顔を覆った両手のすきまからいくつも涙が落ちていく。子どもの笑い声が静かに響く広場で自分だけが放り込まれた悲しみの宇宙。冷たいのか、熱いのかもわからないそんな世界に、遠慮がちに伸ばした高岡さんの手は、私の頭をゆっくりとなでた。
「藤崎さんが、その選択をしないでいてくれることを、俺は嬉しく思います」

 その日、私は再び高岡さんからハンカチを借りた。自宅で使っている柔軟剤の匂いがするハンカチを顔に押し当てながら、誰かにこんな風に弱音を吐いたのは初めてかもしれないと思った。
 ちょっと遅くなったお昼ご飯に、高岡さんは高架下にあるそば屋で天ぷらそばをおごってくれた。湯気の立つだし汁は黒い。少し緊張しなら一口、二口とすすって、あとは一心不乱に口へ運んだ。泣くという行為は体力を消耗するのだと知る。
 帰り際、高岡さん小さな白い紙を私にくれた。
「何かあったら、連絡を下さい」
 紙には高岡さんのフルネーム(高岡さんは誠司という名前で、売れない二枚目俳優みたいでちょっとおかしかった)と、携帯電話の番号、メールアドレスが書かれていた。
「絵のことでも、なんでもいい。人に話すと楽になるっていうけど、俺はあれは外れてないと思うんだ」
 私はお礼を言ってその紙を受け取り、銀座線の改札の中へ入った。階段の手前で振り返ると高岡さんはまだ改札の前に立っていて、目が合うと照れくさそうに笑った。私も同じように笑ってから小さく会釈をし、渋谷行きのホームへ向かった。足は軽く、電車に乗るとき私は少しだけ跳ねた。
しおりを挟む

処理中です...