ホライズン・ブルー

梅野かもめ

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第二章

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 好きで好きで、その気持ちがいっぱいになると、たまらなく寂しくなるのはなぜだろう。

 愛する人に愛されて、幸せすぎるくらい幸せなはずなのに、ふとした瞬間に不安の波におそわれる。なにかが完全に足りない。もっともっと欲しくなる。満たされない感じ。高岡さんを目の前にしているときでさえ、私は不安で寂しくなる。
 だから抱き合うのかもしれない。愛する人が確かにそばにいることを、二人の間にしっかりと愛が存在していることを、触れ合って確かめる。
 初めて触れた男の人の肌は驚くほどあたたかく、その下にある筋肉や骨は、女の私とは明らかに違うものだった。ぴったりと重なったとき、私たちの間に隙間なんてなくて、体の凹凸はパズルみたいにはまってひとつになった。
 絶対の安心感。今まで感じたことがない体の内側から湧き上がる痛みを抱えながら、好きな人に抱かれるということがこんなにも幸せであることを、私は知った。

「なに笑ってるの?」
 黒のゆったりとした綿のパンツと、その上に白いTシャツを着る高岡さんの姿を私はベッドの中から眺めていた。
「昔のことを思い出してた」
「昔って?」
「クリスマスのこと」
「ああ」 
「幸せだなあ、私」
 高岡さんはベッドに腰掛けて、私の頭をくしゃくしゃっと犬にするみたいに撫でた。いっそのこと犬になれたらいいのに。そうしたらずっと高岡さんと一緒にいられる。高岡さんがいないときだって、高岡さんの匂いがするこの部屋ならきっと静かに時を数えて待っていられる。
 服を着てリビングに行くと、高岡さんがミルクティーを入れてくれていた。白いカップが二つ向かい合い、その間に紺色の包装紙に包まれた長方形の箱がある。
「プレゼント。お誕生日おめでとう」
 私はなにも言わずにいすに座った。
「どうしたの?」
「いや、なんていうか……」
 私はちょうど飲みやすいくらいに冷めた紅茶をすすり、カップで半分顔を隠す。
「プレゼント、もらえるだろうと期待していたくせに、そんなのまったく予想してませんでした、みたいな顔でありがとうなんて言えなくて。こういうのなんて言うの? かまととぶってる? オコガマシイ?」
「いらないの?」
 高岡さんがプレゼントを引っ込めようとするので、私は慌ててそれを制した。
「いります、いります」
 そんな私を見て高岡さんは苦笑しながら言う。
「本当に彩は生真面目というか……嬉しいときは嬉しいでいいんだよ。感情なんて思考してから出すもんじゃないでしょ」
「……」
「嬉しくないの?」
「うんん。嬉しい。すごく。」
 高岡さんが満足そうに笑うので、私も嬉しくなって笑った。本当に幸せだなあと思った。
 プレゼントの中身は一面にピンク色のバラの絵をあしらったペンで、スポンジを敷いたアルミの中に収まっていた。手に取るとしっかりとした重みがある。
「可愛いね。でも高そう」
「うん、安くはないので大切にしてください」
 息を飲んでペンを持ち直す。
「チャールズ・レイニー・マッキントッシュっていうスコットランドの有名な建築家がいるんだけど、そのバラの絵は彼が描いたものなんだ。彼は建築家でもあり画家でもあった」
「高岡さんはなんでも知っているのね」
「有名人ではあるけどね、買ったあとに少し調べたんだ。お店の人がいろいろ教えてくれたんだけど、そしたらもっと知りたくなっちゃってさ」
 高岡さんは照れくさそうに言ってから、コースターの上に置かれた角砂糖をひとつカップへ落とした。高岡さんは甘党だ。
「チャールズ・レイニー・マッキントッシュってさ、俺はずっと花の名前だと思ってたんだ」
「花にしては長い名前だね」
「うん、まあそうなんだけど。母親がガーデニングが好きで、そういう名前のバラを育ててたんだ。うつむきがちに咲く、ころんとした玉っころみたいなバラ。春と秋に咲くんだけどね、なんだか彩に似ている気がして。プレゼント、なににしようかいろいろ迷ったけど、このペンを見つけたとき、これだ!って思ったんだ」
 玉っころみたいであってもバラはバラなんだろう。似ていると言われ、恥ずかしくなる。私はもう一度「ありがとう」と言い、あとでどんな花なのか調べようと思った。
 建築家であり画家でもあったマッキントッシュ。その彼が描いた絵、その絵を見て名づけられバラの花。人と時代と美術。
 私はまだなにも知らないけれど、だからこそ感じられることがたくさんあるはずだ。そのひとつひとつが星みたいに輝いて、大きな星座を描いてくれたらいい。


 誕生日の翌日、私は八千代緑が丘のバラ園にでかけた。自分でもなんて影響されやすいんだと思ったが、どうしてもチャールズ・レイニー・マッキントッシュの実物が見たくなってしまったのだ。自宅に帰ってから調べたそのバラは、本当にコロンっとして丸かった。しかし、幾重にも重なった花びらは重そうで、高岡さんは「うつむきがちに咲いている」と言ったけれど、私には首をもたげてうなだれているように見えた。いや、それも含め私に似ていたのかもしれないけれど。
 膨大に広がる園内から一つのバラを探すのは、それこそアンドロメダの左目を探すようなもの。平日のせいなのかこの炎天下のせいなのか、人気の少ない園内を汗をたらしながら探し歩いたが、すぐにあきらめ、剪定作業をしてた職員に尋ねてみた。すると今は咲いていないと言う。花の見頃は春と秋だと聞き、私は昨日、高岡さんも同じことを言っていたのを思い出した。
 入り口でもらったパンフレットの写真と園内を見比べると、たしかに見頃とは外れていたかもしれないが、全く咲いていないというわけではない。今までバラを、というか花をじっくり見るということがなかったけれど、こうしてみると素直に「きれいだ」と思う。踊るように、謳うように、着飾って、自分に自信があって、「私を見て」って言っているみたい。もし花に生まれていたなら、私は種子を残すことなく枯れていただろう。こんな風に他人に自分を魅せることは私にはできない。
 私は気に入った風景があれば写真を撮り、しばらく立ち止まっては、頭の中のキャンバスに筆を入れたりもした。
 美しいものを見て安らぐ心。でも、どこか羨むような、ねたむような、見たくない感情も沸き起こる。心臓の近くで小さな火が燃える。もやもやした感情と、子どもみたいに泣き出したい衝動。この感情には覚えがあった。その夜、私はほとんど眠ることができなかった。翌日、夏休みだというのに普段の登校時間よりも早く家を出て、私は学校に向かった。そして終日美術室で筆を走らせた。
 自分でも不思議だと思う。『残波』を描いていたときとはまったく違う。熱に浮かされたみたいに熱い。『残波』のときはどちらかというと冷たかった。冷たくて、頭はわけのわからないものでいっぱいだった。でも今は何もない。描きたいという欲求というか欲望以外なにもないのだ。
 その日描いたのは赤いバラの絵だった。とても雑で、色もタッチもでたらめ。文化祭に出せたものではない。でも私は満足だった。
 翌日は押し入れにしまってあった白い綿のシーツを2つ持ち出し、それをベニヤに打ち付けて張り、刷毛で絵を描いた。やはりバラを描いた。思い思いに、いろんな色と形のバラ。これはもともと出典するつもりはなかった。遊びだ。遊んだのだ。絵を描きながら、久しぶりに子どもの頃のように無邪気になれた気がする。昼食も取らず、朝からぶっとおしで描き続け、描き終わったときには陽は暮れかけていた。疲労感でいっぱいだったが気持ちがよかった。思いっきり走ったあとのように。
 私は美術室のよごれた床に寝転んだ。手や腕にまで絵の具が飛んでいて、いつもしているエプロンでなく、ジャージに着替えたのは正解だったと思った。

 次の日も、その次の日も、私はずっとバラの絵を描いた。ランナーズハイのように、描けば描くほど高揚し、色に陶酔していく。文化祭にはもうバラの絵を描くことを決めていた。
 誕生日以降、高岡さんからメールや電話はなく、私からもしなかった。
 絵を描き始めて6日目。その日は朝から雨が降っていて、天気予報では1日降り続くようだった。それでも私は学校へ行き、美術室にこもった。窓から校庭を見下ろすと、いくつもの水溜りが点在し、桜の木は青黒く濡れている。いつもより静かな学校の中は、空気まで濡れたように重い。
 午前中は筆を持たず、美術室準備室のソファーで画集を眺めた。埃とカビの匂いがいつもより濃い。こんな日だからか、モネの『睡蓮』を見ると池から漂う空気や湿度、光の感触まで伝わってきそうだ。感触だけじゃない。柳を揺らす風や小魚の跳ねる音までも聞こえてきそう。
 私もこんな絵が描けたらと思う。いつだか先生が、まねることは悪いことじゃないと言っていたのを思い出し、それから先生は今なにをしているだろうかと考えた。きっと先生のことだから、忙しいながらも楽しくやっているに違いない。そう思ったら自然と笑みがもれた。

 いつの間にか眠ってしまったようで、低く唸るように鳴った雷の音で私は目を覚ました。何か夢を見ていたような気もしたけれど思い出すことができない。かばんの中からすっかりぬるくなったミネラルウォーターを取り出して半分くらいまで一気に飲んだ。
 それから私は筆を持った。
 下絵は頭の中にある。構図も色もだ。迷いなく引いた線は白いキャンバスの上をつるのようにのびていく。何枚かのパレットを使い、手の甲でも色を合わせ、指に乗せる。

 園は、日の光を浴びて金色の空気の中にあり、その中で群がって咲く紅いバラには強い意思があった。命があった。葉にも枝にも、生命の喜びがありそれを謳っていた。そういう絵を描きたいと思った。だから描く。
 目の前で光り咲くバラは、アンドロメダ座の左目より強いまなざしで私に描け!と叫んでいた。
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