静かな夜をさがして

左衛木りん

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第2章 冒険

氷に閉ざされて

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ダートンの北方に“氷竜の背骨”と呼ばれる寒冷な山岳地帯が横たわっている。夏は冷涼で乾いた空気に覆われるが、冬には厳しい寒さと深々と降る雪に閉ざされ、人間の旅人が通るにはあまりに過酷な、険しい銀嶺として知られている。鳥や冬眠しない小動物が活動する他、星養いをする原礎の旅人が時折観察のために分け入ることがあるが、地元の人間たちは必要もなく山の奥深くまで踏み込むことはない。

今は真夏と真冬の中間の季節だ。それにもかかわらず山道は季節外れの降雪に見舞われていた。

そしてまさにこのとき久遠と静夜は折悪く雪の積もる山道を一歩一歩慎重な足取りで登っているところだった。

「ううう、寒い…なんでこんなに寒いんだよ…」

「平地は暖かかったからこんなに着込む必要があるのか疑問だったが、噂は本当だったな…」

静夜が声とともに吐いた息が白くたなびく。彼が言ったとおり二人とも分厚いコートにマフラーに手袋と完全防備だが、不純物を洗い流してきりっと張り詰めた空気は防寒着の丈夫な生地に浸み入るほど冷たい。二人は煌礎水の泉のあるこの山がここしばらく真冬のような鼠色の雪雲に覆われていて山仕事や採集ができない、と麓の村で聞き、水の補充と調査を兼ねて乗り込んできたのだった。

「いくら寒冷地とは言え、この時季にこれだけの雪が降るのは尋常じゃない。見ろ、沢も凍ってる」

「本当だ」

静夜の指差した道沿いを見ると、土手の下の細い溝は凍結して流れを止めている。

「冬眠の時季じゃないのに水が凍ったり木の実や下生えが寒さでやられたりしたら動物たちが飢えちゃう…せめて雪雲が去って太陽が出てくれたらいいんだけど」

「まさか煌礎水の泉も凍ってたりしないだろうな」

「煌礎水の泉は凍ることはないよ。真夏や渇水時でも涸れずに湧き出てくるから、旅する原礎や野生動物たちの命の水なんだ」

そう言う久遠のちんまりとした鼻の頭は赤くなっていて、色白な顔の中で処女雪の上に落ちたひと粒のナナカマドの実のように際立っている。いかに人間より身体が強く自然に近い原礎と言えどもこの寒さは身にこたえるのだ。彼曰く、雪山や高地でも平地と変わらず活動できるのは氷雨か雲居の族だけということだった。

(瑞葉の久遠が寒さと渇きで萎れないうちに早く泉にたどり着かなければ…だが…どうやらそうすんなりとは行かないようだな…)

「…あっ!あった、見つけた!」

目つきを鋭く研ぎ澄ませ、それとなく辺りを警戒する静夜の脇を久遠が息を弾ませてすり抜けていく。

少し登った道の傍らにある石標の銘を確かめて静夜に大きく手を振った。

「間違いない、ここだよ!よかった、意外と早く見つ…」

「どうしたんだ?」

久遠は言葉を途中で切ってあんぐりと口を開け棒立ちになっている。追いついてきた静夜も思わず声を失った。

凍らないはずの煌礎水の泉が、見事に完全凍結しているのである。

「そんな…なんで凍っちゃってるの…!?どこか、ちょっとだけでも流れてるとこは…」

あたふたしながら氷や岩場の周りを調べたものの、やはり一滴もありつけず、がっくりと肩を落とす。

「煌礎水の泉が凍るなんて聞いたことない…どうしよう、これじゃ水の補充ができないし、同胞や動物たちにとっても困ったことになっちゃう…」

「火で氷を溶かせばいいんじゃないか?煌気で松明の炎の力を増幅させるとか…」

久遠は身体を起こすと静かに首を振った。

「それはできない。そもそも炎の礎は存在しないから」

「だが自然界でも炎は発生するだろう」

「確かに落雷や極度の乾燥が原因で発火することはあるし、炎は人間の生活に不可欠だ。でも人間が使う炎は人間が自分自身の手で見つけ出し利用し始めたものであって最初から自然な形で普く存在するものじゃない。だから礎としては成立してないし、認められてない」

静夜は原礎たちが炎にだけは干渉しないことをずっと不思議に思っていたが、それもそのはず、炎の扱いに関しては彼らも人間と同じ域を出ないということなのだ。まして炎は動物や植物にとって容易に脅威になり得る。炎の生む価値を伸ばすことよりも、炎による傷や害を生まないことを彼らは選んだのだと彼は理解した。

「参ったなあ、これは…氷雨を呼ぶか…いや、風早に頼んで雲を吹き散らしてもらうか…うーん」

久遠は悩ましそうに泉の周りを観察したり腕を組んで思案に暮れたりしている。しかし静夜はそんな久遠をじっと待つふうを装いながらすでに腰の後ろのナイフを抜いていた。

ヒュンッ!!…ガッ!!

静夜の投げたナイフは背後に離れたトウヒの幹に突き刺さった。すっかり油断していた久遠が驚いて振り向いたのと同時に静夜は叫んだ。

「そこにいるのは誰だ!」

勘づかれていたとわかると追跡者たちはひとり、またひとりとトウヒの木々の陰から姿を現した。全身黒装束に目以外の顔面を覆う黒い布で人相を隠している。その数五人。

久遠は問題を一時棚上げにして静夜の側に寄った。

「山賊か?こんな辺鄙な場所で旅人が来るのを待ち構えてるとはご苦労だな…でも僕たち、金目の物なんて全然持ってないよ?」

「人間とは戦いたくない。諦めて撤退してくれ。…それでもやるというのなら相手になる」

久遠は青嵐を起こす構えを、静夜はレーヴンホルトの柄を握り迎え撃つ態勢を取る。と、五人は次々と声を上げた。

「静夜さん…ずっとお捜ししておりました」

「どうか我らとともにお戻りください…!」

「…!?」

静夜はたちまち顔色を変えた。久遠も驚きの目で彼を見る。

(どういうことだ!?彼らは俺のことを知ってるのか?)

静夜が突然の出来事に戸惑い立ち尽くしていると、彼が答えないのを拒絶と抵抗の意思表明と受け取った刺客たちは互いに目配せをした。そして無言で剣を抜いてじりっと間合いを詰めた。

「ご自身でお戻りになられないなら、我らが力ずくで連れ戻します…!」

「どうかお許しください…!」

「ご覚悟を!!」

刺客たちが一斉に襲いかかる。反撃すべきかどうかも、彼らがなぜ自分を捕らえようとするかもわからず躊躇う静夜の前に立ちはだかったのは久遠だった。

「おまえらが誰でどんな理由があるにせよ、説明もなく無理矢理連れていくなんて到底受け入れられない!!…〈青嵐〉!!」

雪をまとった針葉樹の落ち葉が巻き上げられて刺客たちを包み込む。だがこれはあくまで威嚇かつ妨害で、久遠に本当に人間である彼らを殺傷する意思はない。もし彼が煌気を注げば人間の身体など細かな棘を持つ無数の葉のナイフで簡単にズタズタにできるのだ。もっとも、今の彼がそうすればたちまち力を使い果たすことになるが。

(頼む…これで撤退するか、せめて剣を収めてくれ…!)

しかし泡を食って立ち止まる一隊の中から、目くらましの葉嵐の壁を切り開いてこちらに突進してくる猛者がいた。

「…っ!!」

彼は思わず草刀で対抗しようとした久遠を素速く回り込んでかわし、たったひとりで静夜の間合いに躍り出た。

(速い!!)

人間離れしたその身さばきは静夜ほどではないが彼の動きに酷似している。静夜はすでに抜いていたレーヴンホルトでその者の最初の一撃を難なく受け止め、そのまま二人の激しい打ち合いが始まる。その者は静夜をまったく恐れず果敢に肉薄し攻め立てる。だが静夜は奇妙な違和感を覚えていた。

(何かがおかしい…何だ、この感じは…)

自分の剣はもちろんのこと、相手の剣にも明らかな手加減が見られるのだ。二振りの剣が固く噛み合ったとき静夜が唯一隠れていない彼の目許を探ると、それは不安げに揺れる若者の澄んだ目だった。一方それはこちらのレーヴンホルトをひたと凝視している。謎の青年は疑問を募らせる静夜の視線を間近に絡め取ると、意を決した声色でささやきかけてきた。

「…どうかこのままお逃げください…あなたのお父上は常軌を逸しておられます…絶対に戻ってはいけません…!」

静夜ははっとした。

「何だって…?」

「皆も本当は同じ気持ちなのです…後のことは私が何とかしますから、あなたは何も考えずに逃げてください…!」

静夜は我が耳を疑った。捕まえると宣言しておいて今度は逃げろと言う。ならばこの襲撃にどのような意義があり、そしてその前提にどのような真実があるのかーー切れ目なく連なる疑問が遡ってひとつの根本に行き着いたとき静夜はそれを率直に口にした。

「君は誰だ?俺のことを知ってるのか?俺はなぜ…何から逃げている?」

今度は青年の方が次第に目を丸くして絶句した。

「知ってるなら教えてくれ…?」

「…静夜さん…あなた、まさか…!」

青年の唇と剣がわなわなと震え出す。そのときだ。

「加勢いたします!」

鬨の声を上げ駆け寄ろうとした四人の足許に翠刃が四方八方から突き立って行く手を阻んだ。

「これ以上は僕が近づけさせない。だから退け!」

「くそっ…!」

久遠の十指に控えた次の葉刃を目にして四人はとっさに足を止め身構える。

(襲ってきたのは向こうだけど、やっぱり人間相手に攻撃したくないし、正直煌気ももうあんまり残ってないんだ…お願いだからこの辺で諦めてくれ…!)

「怯むな!かかれ!」

(…嘘っ!?)

久遠の必死の祈りも届かず、四人がまず久遠を片づけようと突っ込んでくる。と、その進路に何の前触れもなく何かが飛来した。

ドスドスドスッ!!

雪道に突き刺さったのは大人の男性の腕ほどの太さのある複数の氷柱の槍だった。

「誰だ!?」

「…この氷の槍は…!」

久遠にはその氷柱に大いに心当たりがあった。それらが放たれてきた方向を見上げると、案の定そこに術者がいた。

斜面から突き出た岩の突端に短い脚を組んで悠然と座り、つんと顎を反らして彼らを見下ろしている子供が。

「…界!やっぱりおまえか!」

「ボクだったら何かまずいことでも?自分がまごついてへまをやらかすとこを見られるのが嫌とか?」

ああ言えばこう言うーー相変わらずの可愛くない態度に久遠はげんなりと溜め息をついた。

「…まだ仲間がいたのか…!」

二人目の原礎の出現に一隊は露骨に狼狽え、剣を交えていた静夜と謎の青年も距離を取る。

「ボクは仲間じゃない。けど仮にも同胞に危害を加えようとする奴らがいたら黙っちゃいないよ。一応言っとくと、ボクはそいつと違って煌気も実力も一人前だし、人間だからって手加減しないから」

界はぷっくりとした童顔には恐ろしく不釣り合いな冷徹な青い瞳で脅しながらいつでも撃てる状態の氷の槍を小さな掌の上に浮かべている。原礎ひとりならまだしも、二人となると人間には明らかに分が悪い。青年はこの状況をむしろ好都合と捉え、後方の部下たちに即座に命令を下した。

「剣を収めろ!手を出すな!この場は一時撤退する!」

「はい!」

四人が先に山道を駆け下りていくのを見た青年は、去り際に静夜に走り寄ってこうささやいた。

「静夜さん、私からご忠告するのはこれが最後です。別の追手がかからないうちに今すぐ、できるだけ遠くへ逃げてください。そして今日のことは…我らのことはどうか忘れてください…」

「あっ…待て!!」

静夜の制止を拒み、ただ別れを惜しむような切なげなまなざしだけを残して青年は雪景色の向こうに姿を消した。

「…結局何だったんだ、今の襲撃…」

久遠が静夜のところに戻り、心配そうに彼を見上げる。

「静夜、大丈夫か?…あいつらおまえを捜してたみたいだし、おまえに向かっていったあの男、なんか様子が変だったから。もしかして友達か部下なんじゃ…」

「…わからない」

「何か言ってなかったか?気づいたこととかは…」

打ち合いの最中青年の発したいくつかの不吉な言葉が鮮明に耳に蘇ったが、今はまだ自分の胸だけにしまっておきたくて静夜は口をつぐみ、首を横に振った。久遠は疑う様子もなく納得して微笑んだ。

「…そっか。気にはなるだろうけど、あんまり深く考え込まない方がいい。これからまた二人で手がかりを探そう」

「ああ。…ありがとう」

静夜が少し無理に微笑みを作ったところに岩から降りた界がすたすたと歩み寄ってきた。ふわふわの毛皮の襟巻きつきのコートでずんぐりと着膨れた姿がやけに不格好で笑ってしまいそうになる。

「今の集団、何?追い剥ぎ?」

「それが、僕たちにもわからないんだ。静夜のこと捜してたみたいなんだけど、なんか妙に挙動不審で」

「ふーん…厄介者はさらなる面倒事を呼び寄せる厄病神ってわけか。押しつけられた方は災難だね」

「界、おまえ、それはさすがに言い過ぎ…」

久遠がムッとして詰め寄りかけたのを静夜が押さえて止める。

「俺のことはいい。それより今は…」

「そうだ、界!おまえ、どうしてここに?」

界は現れたときからまったく変わらないむすっとした顔で答えた。

「ボクは星養いの旅の途中でこの山地一帯が悪天候続きで誰も入れなくなってて困ってるって聞いたから、いろいろ調べてるとこ。今日はたまたま様子見に立ち寄っただけ」

「ああ、そうそう、おかげで僕も煌礎水が汲めなくて困ってるんだ。さっきの戦闘で忘れちゃってた」

「そう言えば久遠はまだ煌礎水毎日飲んでる赤ちゃんだったね。…ふっ」

「赤ちゃんはやめろ!」

ハッとして隣の静夜をちらっと見たが、静夜は考え事に没入していて心ここにあらずという感じだった。代わりに界が反応した。

「…?どうかした?」

「!!いや、な、何でもない!…それより界、この凍っちゃってる泉どうすればいいんだ?氷雨として、何かいい対処方法はない?」

そう訊かれた界は表情をがらりと変え、大人びた真面目な顔つきで凍結している泉をじっと見た。

「うん。ボクも何回か氷を緩めて水の湧出を再開させようとしたんだけど、空気が冷たすぎて無理だった。だからまずはここ一帯にしつこく張りついてるこの雪雲を退かせて太陽の光を当てようと思って」

頭上を指す界の指を追って久遠と静夜も上空に広がるどんよりとした曇天を見上げる。

「調べてみたら、この山道をずっと登った先に雲居の族が集まって修行しながら暮らしてる社があるらしいから、これからそこに行って力を貸してくれるよう頼もうと思うんだけど…」

「だけど?」

「聞いた話だと、そこの長がすごい頑固な変わり者で、今まで何人もの原礎がいくら頼んでも門前払い食らって追い返されたとか。…だからちょっと望み薄かなって」

「雲居の族はもともと変人だらけだからな…俗離れしすぎてるというか、自由人というか…でも、なんでそんなに意固地に拒絶するんだろう」

久遠はふとかすかに眉を曇らせたが、すぐに顔を上げて界に尋ねた。

「それで、どうするんだ?望み薄でも行ってみる?」

「もちろん」

「なら僕も一緒に行く。泉の水が汲めなくて困ってることをちゃんと伝えなくちゃ。これからもっと登山することになるけど、いいだろ、静夜?」

「君が行くところには俺も必ず一緒に行く」

「よし、決まり」

「ちょっと、何勝手に…ま、いいけど」

嫌がって臍を曲げるかと思いきや、界は意外とあっさりと受け入れる。

そして三人は重たく垂れ込めた雪雲に頂を隠してそびえ立つ寒々とした高峰の姿を振り仰いだ。
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