静かな夜をさがして

左衛木りん

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第3章 過去

反乱分子

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ある日の夜、狩りから戻った静夜が永遠の様子を見に牢にやってくると、彼女は星空を望む窓辺に立って歌を口ずさんでいた。

 

 こぼれ出した希望 道しるべにも似て
 涙に濡れた君の指先に宿る
 曇天が胸を塞ぎ 影の翼が瞳を覆うとき
 運命の呼ぶ声がその重い扉を開いた

 燈の灯る窓辺から 昏く冷たい旅路へと
 踏み出す足許を 星よ どうか照らし出して
 闇夜の深さに怯えぬよう
 孤独の蒼い指先に絡め取られぬよう

 日月も見知らぬ異境の果て たどり着く道の先
 膝折れ力尽きかけたら 君よ 私を呼んで
 疲れた旅人に安らぎを 傷ついた者には癒しの手を
 鳥になり風になり届けよう 願い待つ君のもとへ

 夜を翔け雲を越えはばたこう 朝を待つ君のもとへ



声を抱きしめ、祈りを撚り合わせ、美しい思い出を愛おしむように永遠は切々と歌を紡ぎ続ける。情感の横溢せんばかりに声量の抑えられた一音一音は細かく光り輝いて、心の古い傷痕に触れ、跡形もなく溶け消えていった。見ると耶宵が壁にもたれかかって神妙そうにうつむいていた。

我を忘れて無心で歌う永遠を邪魔するに忍びず、静夜は彼女の気が済んで歌が自然とやむまで待った。

「…血の臭いがする」

永遠がつぶやくと耶宵が弾かれたように身じろぎし、静夜はようやく許されたように牢に近づいた。

「…君は本当に歌うのが好きなんだな。今の歌は?ずいぶん古めかしい、珍しい歌のようだが」

「故郷に伝わる古い歌だ。遠い旅の空に生きる友の無事を願う歌で、弟が好きでよく歌っていた」

語り始める永遠のまなざしには温かな郷愁が揺れていた。

「私には双子の弟がいてね。顔はそっくりだが、私と違って性格は朗らかで人懐こく、相手の悲しみや痛みに素直に寄り添える、心根の純粋な奴なんだ」

「…違ってなんかないよ」

耶宵は隣で黙って聞いている静夜の横顔をちらりと見た。

「弟は家事や料理が得意で私のためにいつも食事を作ってくれて、面倒見が良く遊び心も豊かだから小さな子供たちの人気者でもある。…だが森羅聖煌を持つ私とは対照的に弟は生まれつき煌気が非常に弱く、術や技を行使するための力を維持するのに著しく支障があり、成長が見込めないため、私や同胞たちのように星養いの旅には出られないんだ」

同じ原礎の中でもそのような者がいるということを静夜も耶宵も今初めて知ったのだった。

「弟は、自分は出来損ないの役立たずだから、同胞たちと同じように星と人間のために働けない代わりに、森羅聖煌という重荷を背負った私のことを精一杯支えると笑顔で言ってくれたが、私は身内ゆえの遠慮のなさや修行の疲れや将来への不安から、私や周りの者に対する弟のその優しさが時に鼻について鬱陶しく思え、きつく当たってしまったこともあった。だが成長するにつれ、弟が私に尽くしてくれるより遥かに大きなものを私自身は弟に負うているということにふと思い至った。…私はきっと弟とともに育った母の胎の中で彼の持っていた煌気を根こそぎ吸い取って自分のものにしてしまったに違いない、と…。その日から私は弟の分まで努力と忍耐を重ねる決意をし、弟の犠牲と献身に報いるために旅を続けた…そして気づけば今、私はここにいる」

「…君が弟さんを思う気持ちはわかるが、それはきっと君の責任や罪咎じゃない」

「そうかもしれない…でもそれが現実だ」

軽い溜め息を漏らすと永遠は小さな白い顔に今にも霞んで消えてしまいそうな儚い微笑を浮かべた。

「今頃あいつが心配して私の帰りを待ってるだろうと思ったら、この歌を思い出した。懐かしい…故郷のことも…」

それから顔を上げ、今度はぱっと明るい表情で静夜に尋ねた。

「君はきょうだいはいるのか?それに、母君は?もしや故郷で離れてお暮らしなのか?」

「両親は死んだ。きょうだいも親類縁者もいない」

永遠はきょとんとした。

「父君がいるじゃないか」

「明夜は養父で血のつながりはない。…俺はもともと孤児だ。生家は代々この剣を家宝として守ってきたが、俺が生まれて間もないある夜、生まれ故郷の村が火事で焼失し、焼け出された両親は逃げる途中で力尽きた…俺とこの剣を残して」

そう言うと静夜は背負った迦楼羅を示すように見た。

「…ご両親は命に換えても二つの宝物を守ろうとなさったんだな」

「朝になり、赤ん坊の俺が死んだ母の腕の中で泣いていると旅の途中で通りがかった明夜が偶然俺を見つけ、迦楼羅と一緒に拾い、自分の息子として育てた。だから父には恩義がある…あんな男でも」

そして静夜はうなだれて顔を前髪に隠し、極めて言いづらそうに意外な言葉を口にした。

「この間は、すまなかった…父が君にあんな失礼な振る舞いを…父はああいう人間だから、ここに入らせるべきではなかったのに…あのときのことがずっと気になっていて」

静夜が自分に謝罪をするとは想像もしていなかった永遠はつぶらな目をぱちぱちと瞬いた。耶宵も唖然としている。

「なんだ、君はわざわざそんなことを気にしてたのか。君が謝ることじゃないだろう?それに私なら平気だ、女のひとり旅で慣れっこだからね。むしろ合点がいってすっきりしたよ、あの男が君の実の父親じゃないということに。だって二人はあまりにも似てないから」

あまりにも、という部分をわざと強調し、永遠が表情を綻ばせると、ぎこちなかった静夜の顔もようやく少し和らいだように見えたが、すぐにまた頑なにこわばって感情の扉を閉めた。

彼のその微細な変化を目の端でしっかりと捉えていた永遠はここが好機とばかりにかねてから胸の内に秘めていた計画を実行に移すことにした。

「しかし、そうだな…もし君が心から私に無礼を詫びたいというなら、ひとつ誠意を見せてもらおうか」

「…何だ、藪から棒に…弱みを握ったなどと思うなよ」

「まさか、違うよ。実は外に出られないと退屈でね。耶宵とおしゃべりするのは楽しいが、耶宵にも他に仕事があるし、ずっとしゃべってるわけにもいかないだろう?そこでだ…ここでじっとしてる間、暇潰しと向学のためにあの地下書庫に保管されてる書物が読みたい。あの書庫からわからないように何冊かこっそり私のところに運んではもらえないかな」

地下書庫とは、例の採煌室の外にある広大な書物保管庫のことだ。すると静夜はすぐさま唇の片端をにやりと不敵に持ち上げた。

「やっと本当の目的を言ったな。君は俺の警戒心が緩むのを待っていた。最初からここに潜入して内情を探るつもりだったんだろう。俺が君の力をすぐに見抜いて絶対に君を殺さず慎重に扱うとわかった上で」

「気づいてたのか」

「当然だ。君ほどの実力者があんな無様な転び方でやすやすと人間に拘束を許すはずがない。君が本気で抵抗すれば逃げられる機会もいくらでもあった」

「あんな立派な書庫があるとはさすがに知らなくて驚いたがな。恐れ入ったよ。…で、どうだ?頼めるか?」

静夜は腕を組み、眉を寄せ、しばし黙考した。

「あそこには重要な本や資料が保管されてるらしいから見つからないように細心の注意を払う必要があるが、まあ一度に数冊程度なら大丈夫だろう。それで、どんな分野の書物をお望みだ?」

「からくり仕掛けや古代の技術、それに迦楼羅に関しての記述がありそうな本を」

永遠はそれらの仕組みや素材、そして起源や製法に関心があった。それらの一部でも知ることができれば今後の対策の足がかりにできると考えたのだ。

しかし永遠の真意と目的を知らない静夜は内心怪しんだ。

(迦楼羅のことなど調べてどうするんだ…保管していた俺の生家ももう存在しないのに)

労力の無駄ではないかと思えたが、あの書庫の所蔵量は一生をかけても読めないほどの規模である。読んでいない以上は絶対に一冊もないとも言い切れないので静夜は徒労を覚悟でうなずいた。

「副首領の俺でもあまりおおっぴらにあの場所に入り浸ると父や博士たちに怪しまれるから、その都度じっくり物色することはできない。君の期待に添える書物を見つけられる保証はないが、早速探してみよう。…言っておくが、暇潰しに読む本を貸し与えるだけだからな」

「頼む。恩に着るよ」

と、静夜は傍らで終始固唾を呑んで聞いていた耶宵に顔を向けた。

「…耶宵、このことは」

「…あ、あ、安心してください、静夜さん!あたし、絶対誰にも言いませんから!」

「ありがとう。…だが、少々声が大きい」

耶宵は慌てて口を手で押さえ、永遠の苦笑を誘う。初めて規則違反を犯すことに耶宵は胸の高鳴りを抑えられなかった。発覚して罰を受ける恐怖より、静夜や永遠と秘密を共有できることが何より嬉しかったのだ。



「…次の日から俺は父や博士たちの目を盗んで地下書庫と永遠の牢を何度か往復し、彼女の要望にかないそうな本を少しずつ選び出し、運んでは戻すようになりました。永遠は俺の運ぶ書物を驚異的な速さと集中力で吟味し、読みあさり、二か月近くに及ぶ書物の無断持ち出しは発覚することはありませんでした。また幸い明夜も泪にうつつを抜かしてくれていたおかげでその後は比較的おとなしくしていました。誰も俺がこんな違反行為を犯しているとは思わなかったのでしょう。しかしその間も永遠に対する採煌は容赦なく繰り返され、彼女は煌気の回復が追いつかずに次第に憔悴していきました。こればかりは俺の一存では止められなかったんです。そしてある夜永遠は俺にひとつの提案をしてきました」



「収穫があった。君の選別眼は素晴らしい」

永遠はそう言うなり手にしたひと束の資料を鉄格子の隙間から静夜に差し出した。

「かつてこの星で栄華を誇り滅びた太古の文明が遺した記録で、さまざまな機構や組成に関する解説や絵図が記されてる。証拠がなくまだ推測の域を出ないが、私がここで今日までに見聞きしたものや会った人物から推して、これが関係してるに違いない。他にもいくつか価値のありそうな書物を発見した」

「俺には学がないからわからないし、関係ない。だいたいそんなものを見つけてどうするんだ」

永遠が大きな瞳を輝かせて熱心に語れば語るほど静夜は強い困惑を覚えてしまい、罪悪感も手伝ってつい突き放すような反応ばかりになる。

しかし永遠は諦めなかった。彼女は鉄格子を摑んで可能な限り静夜に詰め寄った。

「私の故郷の中枢にある書庫はここよりも蔵書が豊富だ。二人でここを出よう、静夜。この資料と迦楼羅を持って一緒に大森林に行き、私の師匠である長老や礎主たちにすべてを伝えて星と原礎と人間の均衡を取り戻すんだ」

「俺には今のこの仕事を続けるより他に道はない」

「何を言う。君ほどの力量なら傭兵でも騎士でも魔獣狩りでも何にでもなれる。すべて片がついたら自由に生きればいい」

「そういう意味じゃない。俺の居場所はここしかない。たとえ今逃げおおせても組織は地の果てまで俺を追いかけ、連れ戻すだろう。迦楼羅を使える者がこの世で俺ひとりである以上他に選択肢はない。それに耶宵や暁良たちを置いて自分だけ逃げるわけにはいかない。ひとりで逃げたければ俺がなんとか裏から手を回して君が死んだことにして逃がしてやることはできる」

迦楼羅が彼をこの場所に、この運命に縛りつけているーー厳然たるその事実が二人の間に重く横たわり、互いの手を隔てているようだった。

「君をここに残して私ひとりで大森林に戻りこの件を報告したらたちまちこの砦は原礎の苛烈な猛攻にさらされる。君の愛する同志たちは殺され、君は拘束されて厳しい尋問を受けたのちに処刑されるだろう。君のことは私が弁護するし、同志たちの処遇も寛大なものになるようとりなす。だから…」

「それが運命ならしかたない。むしろそれで構わない…それで俺の罪を終わらせることができるなら、捕まる前に同志たちの盾になって俺は喜んで死ぬ。そうなれば煌喰いの悪魔も迦楼羅の継承者もこの世からいなくなる」

「君は死んではいけない。命ではなく、罪を重ねる運命を終わらせるんだ。私と一緒に、迦楼羅を破壊しよう。その方法を探そう」

静夜は己が耳を疑った。

「何…だって…?迦楼羅を、破壊する?そんなこと…!」

思わず目を見張り振り向くと、一片の迷いもない永遠の力強い顔つきにぶつかり、静夜は声を失くした。彼が今まで考えもしなかったような大胆な提案をしながら、肉の落ちた頬には希望に満ちた笑みすら浮かべている。なぜ自分のためにここまでしようとするのか、静夜は理解に苦しみながら永遠から顔を背けた。

「…博士たちから迦楼羅は天から降ってきた黒い星から古代の人が採取した未知の金属でできていて、現存する技術では壊すことも溶かすこともできないと聞いた…実際迦楼羅は現状からの加工や研磨ができず、代わりに吸った煌気で切れ味や輝きを保ち続ける稀有な特性がある。そんな代物を自分の手で破壊するなんて、とても…」

「だが迦楼羅とて誰かが作ったもの。作ることができたのなら壊すこともできるはずだ。これまで君が持ってきてくれた書物の中に迦楼羅にまつわる資料はなかったが、長上たちの叡智と珠鉄の技を結集すればきっと望みはある」

「駄目だ。迦楼羅を持つ俺が逃亡したらすぐに追手がかかり、俺は彼らを傷つけなければならなくなる。君にまで危険が…」

「でもこのままだと私は煌気を完全に失って確実に死ぬ。どちらにせよ君が私の運命を握っているんだ。君はもう誰も死なせたくないはず…自分の中の本当の自分に目を向けるんだ。私の墓標に祈りを捧げたくないなら、私とここを出て新しい一歩を踏み出そう」

議論は平行線のまま振り出しに戻ってしまい、静夜は疲れたように口をつぐんだ。

「…君と話してると本当に埒が明かない。言っただろう、憐れみや薫陶で俺を懐柔しようとしても無駄だと…頼むから俺を焚きつけて悩ませるのはもうやめてくれ」

静夜は覇気のない棒読みのような声でそれだけ言い残し、永遠に背中を向けた。

「静夜…!」

彼の黒い上衣の裾が、精一杯差し伸べた永遠の指先をするりと滑ってそれきり遠ざかる。取り残された永遠は鉄格子にしがみついたままずるずるとその場にしゃがみ込み、しばらく動かなかった。



数日後静夜は物資の調達に関する所用でひとり馬を駆り、北東地域のある村を訪れていた。

用事が済んだので馬のところに戻ろうとしたとき、突然背後で女の金切り声が上がった。

「あ…あ…悪魔ぁ…!!悪魔よぉ…ああ、あああ…!!」

瞬間、静夜はさっと血の気が引き、振り向いた。するとやつれたみすぼらしい老女が全身をがたがた震わせ、白眼に空いた虚無の穴のようなぎょろりとした瞳で彼を見つめていた。

「また、また殺しに来た、あの悪魔が…あの黒い剣…赤い炎…!」

自分自身を象徴するかのような切れ切れの単語に心臓がどくんと膨張し、走り出した。老女の顔には地獄の光景を目の当たりにしているかのような恐怖が満ち満ちていた。彼は老女を知らないが、老女は確かに彼を見ている。行き交う人々が足を止めてこちらを見、身を寄せ合っていったい何事かとささやき合う。まただよ、かわいそうに、あの人はずっとああだから、というひそひそ声もそこかしこから聞こえる。彼女の視界から離れた方がいいと直感しながら足が硬直してしまい、その場に釘づけになってしまう。

「熱い…苦しい…怖い…!!嫌だ、来ないで、近づかないで…!!」

老女が恐ろしい幻覚を退けようと腕を遮二無二振り回していると、夫と息子らしき二人の年配の男性が慌てて駆けつけ、両側から老女を抱き支えた。

「大丈夫だ菖蒲あやめ、あれはもう二度と来ない…とっくの昔にどこか遠くへ行ったよ」

「母さん、家に帰ろう。さあ」

「ひいぃ、あああ…あぁ…」

老女はまだ恐怖におののきながら息子に付き添われてふらふらと去っていった。老人は妻と息子が家に入っていくのを確かめると、ほっとした表情で静夜に歩み寄った。

「どうもすみません…妻は昔目撃した事件が原因で心を病んでおりまして…そのときに見た人物によく似た黒い剣を持つ剣士風の人にはああいう反応をしてしまうんです」

「そう…ですか…こちらこそ、怯えさせてしまい申し訳ありませんでした…」

訳もなく不穏に打ち続けている鼓動を気取られないよう懸命に隠しながら静夜はぎこちなく返す。

そのとき老人は彼の背中の迦楼羅に目を止めてはっとした。

「お若い方、その剣はもしや…」

静夜がとっさに目を見張ると、老人は何かを鋭く察知した様子で静夜を側の建物の裏手に連れていき、彼に質問をした。

「…おまえさん、名は何と?」

「…言えません」

「じゃ、その剣の名は?」

「…」

無関係の外部の人間においそれと明かす事柄ではないため静夜は緘黙する。

「それも言えんか…でも私は知ってる。その意匠は昔見たことがある…」

老人は思いがけないことを語り始めた。

「今から二十一年前のことだ。ここから東に馬で半日ほどのところに“潭月たんげつさと”という村があり、そこで私は妻の菖蒲と息子と三人で暮らしとったが、あるとき郷が謎の集団に襲撃され、一夜にして建物という建物は焼き払われ、郷の者のほぼ全員が殺された。その剣はもともとその郷のとある名家に代々伝わる宝だったが、押し入ってきたその無法者たちにそこの若夫婦の赤ん坊もろとも奪われたものだ」

潭月の郷という地名を聞いたことはない。だが忍び寄る不気味な気配を感じ、静夜は凍りついたようにぴくりともせず、青ざめた顔で老人の次の言葉を待つ。

「その日たまたま家族三人で外出していて、帰ってきたときその現場に出くわした私たちは、森の中に身を潜めて恐怖に震えながら一部始終を見ておった。…犯人は黒装束の集団で、その首謀者はまだ若かったが、残虐非道で、殺すことに何の躊躇いも罪の意識もない様子だった。そいつは家宝の剣や書物を強奪すると、その家の若夫婦を追いかけて惨殺し、剣の継承者である赤ん坊まで連れ去った。赤ん坊は生きていたらおまえさんと同じ年頃の元気な男の子だった…」

不意に言葉が途切れ、代わりに温かく懐かしむような無言の視線が注がれる。静夜は思わず老人から目をそらした。

「…人違いです…この剣は父から授かったもので…そんな話も聞いたことはありません…」

「私はその剣の名を知ってる…その剣の名は…迦楼羅だ」

真実と確信の込もるまなざしを浴びると、おぞましい戦慄がたちまち衣服の下をぞっと這い上がった。

「…そんな…」

静夜は一歩、二歩と後ずさった。足がやっと動いたのは、確かめに行かずにいられなくなったからだ。

「ーーっ…!!」

言葉が出ず、老人に詫びも礼も、会釈すらせずに静夜は踵を返し走り出した。そして馬に飛び乗り、村から街道に飛び出した。



陽が傾き、次第に藍色を帯びる東へ一路、馬を奔らせる。

無意識に手綱を操る静夜の頭の中では今すべてが符合し、整然とつながっていた。通りすがりに偶然見つけただけの明夜がなぜ迦楼羅がその家の宝でありその赤ん坊にしか使えないと知っていたのか、またなぜ迦楼羅の真の力をも知っていたのか。

どこからか自身の目的や野心を叶えるのにうってつけの宝の存在を嗅ぎつけた明夜は、潭月の郷を焼き払い、両親を殺して何も知らない自分と迦楼羅を平然と我が物にしたのだ。明夜に学識がないにもかかわらず博士たちに迦楼羅の組成に関する知識があることも考えてみれば妙だが、迦楼羅とともに奪われた書物から得られた知識だと考えれば納得できる。

(すべては自分の野心のため…迦楼羅も俺の将来も…何の罪も関わりもない両親の命さえも…)

静夜は風に踊る愛馬の鬣に顔を突っ伏し、声も涙もなく、心で泣いた。自分は親を殺した男のために原礎を殺し、罪を重ね、星の命をも踏みにじってきた。今こそ徴収と弁済の帳尻を合わせ、精算をしなければならない。

道中ですれ違った旅人や行商人に何度か道を尋ね、疲れも空腹も忘れてひたすら馬を進める。疾駆する馬が大地に刻む震動は脈打ち続ける鼓動と同じで、望む地、求める明日へと彼を導いていった。

ようやくその場所を探し当てたときにはすでに陽はとっぷりと暮れ、すべてが星明かりの下の薄闇と沈黙に包まれていた。

鞍を下り馬を木の幹につないだ静夜は、雑草の生い茂る道なき道を息も整えぬままあてもなく歩き出した。かつて潭月の郷と呼ばれ美しく鄙びた村だったというその土地は、今では崩れた廃屋が点在するだけの廃墟と化していた。

暗い水辺を回り、緑に覆われた瓦礫の山や焼け焦げた木材の残骸に目を凝らす。ここに村人たちの素朴な生活の営みがあり、また若かりし日の両親が暮らし、自分が生まれたということがとても信じられない荒廃ぶりだった。打ち捨てられた故郷の跡地を少しの間呆然とさまよい歩いていた静夜は、やがて林間に開けた広い場所に不意に抜け出た。

そこは数えきれないほどの土饅頭に簡素な木の墓標を立てただけの塚が並ぶ集団墓地だった。その数、その密度。敷地の狭さと人数とその凄惨さゆえ、よほど大急ぎでこしらえられたと見受けられるが、おざなりに埋葬されたものはひとつもない。すべての塚が丁寧に土を盛られ、形を整えられ、さらには今でも供養と手入れがされているように見える。これだけの墓を作るのは、骨が折れ、また心底つらい仕事だっただろう。静夜の脳裏にあの老人の優しげな顔が蘇った。

(…ありがとうございます、ご老体…どうか非礼をお許しください…)

そっとまぶたを下ろし、黙祷とともに感謝を捧げてから、墓地の中に足を踏み入れた。

墓標のひとつひとつには故人の名前が刻んであり、夫婦や親子、あるいはきょうだいで一緒に埋葬されているのがわかるものも多い。静夜は胸が高鳴るのを覚えながら、辺りをびっしりと埋め尽くす塚と墓標のひとつひとつに視線と思いを注いで歩いた。静夜は自分の生みの両親の名前をもちろん知らない。だからそうして歩くことで両親が自分のことに気づいてくれたらいいと思ったのだ。

だがある塚の前に来たとき静夜ははっとして立ち止まり、そこから金縛りに遭ったように動けなくなった。その塚の墓標には細い革紐の首飾りが二つかけられており、それらにひとつずつはめられた金色の文字の象嵌のある漆黒の宝玉に見覚えがあったからだ。

静夜は震え始めた手で迦楼羅を背中から下ろし、その鍔の中心を見た。そこには同じ金文字の彫られた黒い宝玉が埋め込まれていた。

灰色の瞳が大きく開き、その膝ががくりと地面に頽れた。目の高さに近くなった墓標を見たそのとき初めて彼は自分の本当の父と母の名前を知った。

「…くっ…う…うっ…!!」

激しい感情が鳩尾の辺りから胸を突き上げ、熱い涙となってあふれ出し、彼は声を殺して嗚咽した。塚を傷つけてはいけないと戒めながらそれでも抑えきれず、そのなだらかな表面に置いた指は両親を埋めた土に固く食い込んでいった。

彼が何も知らずに手を血に染めている間も両親はずっとここで彼を待ち、見守り続けていたのだ。この世にたったひとりの忘れ形見の無事と幸福を祈りながら…。

それなのに、自分はなんと遠回りをし、時間を無駄にし、その上簡単に己の矜持さえ委ねてしまったのだろう。

彼を盲にした棘は涙に洗われて流されていった。まだ痛みは残っているが、それは真実を手にした証に他ならない。

ひとしきり泣いた後、静夜は涙を拭いて立ち上がる。自分の為すべきことはただひとつーーそのためには、今はこれ以上長くここに留まることはできないのだ。

必ず戻ることを誓い、再び馬に跨って街道に出た静夜はふと空を振り仰いだ。純粋な黒一色に澄み渡った天穹の一面に、鈴を転がし歌い出しそうな無限の星々が瞬いている。憎悪と無力感に胸を塞がれて夢中で馬を駆っていた行きの道では気づかなかったのだ。思い出せば、美しい星空を眺めて心を動かされた記憶もほとんどない。

(本当に大切な存在は、気づかないだけで、いつ何時も必ず側にいる…願わくば、それを見失わないだけの曇りのない眼を…)

馬首をめぐらせた先の夜空にひときわ明るく輝く星に向かい、愛馬を励まし、風を切って駆ける。

帰るべき地を目指して夜通し奔る間ずっと心に思い描かれていたのは、白く優しい永遠の顔だった。
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